瑣末なきっかけである。カワダは噴き出る汗を止めるように、支給品のハンカチで額や頬を抑えていた。日本上陸作戦の最中である。生存者の確認が出来なければ、日本の地に空爆を行う国家への反逆あるいは冒涜と捉われても致し方ない作戦を口にしたのは、他ならぬカワダだった。海自全員がこの作戦に賛同したわけではなく、当然のごとく反発も反論も飛び交う中で、決断を後押ししたのはキングだ。責務は負うと宣言し、ようやく沈静化された作戦に、パスファインダーであるイサミと名乗りを上げたスミスの緊張感は暫く続いた。
だが根回しや説得に駆けずり回ったカワダは、日本上陸前になり、ようやく息を吐いて汗を流し続けている。事の重大さが波のように彼の肩にのしかかるからだ。下手をすれば叛逆罪、縛り首。その恐怖が定期的に押し寄せては自力で押し返し、また押し寄せては押し返す…カワダは荒ぶる波に揉まれたことはあるが、それは巨大な艦の中である。たった一人で荒波を受け止めたことは無いが、今彼に付きまとうのはその感覚であった。汗が頼んでもいなのに噴き出て、ハンカチが手放せないでいる。一日と足らずに汗を絞れるほどに濡れる。それでもうずくまって入られぬ身である、作戦整備の為に駆けずり回り、重責を肩に乗せながらも毅然と振舞う。それがカワダの役目である。
そのハンカチを、珍しく手放した時があった。キングの部屋にて、所見を説明したところで、ハンカチはしっかりとポケットに入れていたのだが、その説明の間にも汗がしたたり落ちて止まらなかった。申し訳なさそうに断りを入れ、急いでカワダは顔を拭く。キングは穏やかに待っていてくれた。
「君の重責を思えば、汗ぐらい拭いてもらって構わない」
「申し訳ございません…こんな体質では無かったのですが」
「この戦場では新たな体質も出るさ。気にする必要はない」
説明が終わると、もう一度カワダは全体的に顔を拭いた。そうしてハンカチを手にしたまま一礼し、彼はきびきびと部屋を去って行く。その手にはタブレットがあり、ハンカチもあるはずであるが、何故かカワダの手にはタブレットだけだった。落としたのだ。キングが部屋の床に落ちた白い布地に気が付いたのは、カワダが去ってしばらくした後だ。執務机に隠れて見えない足元にそれはあった。来訪者は多いが、直前で話をしていたのはカワダなので彼の物だろうと断定はできる。キングはハンカチを拾うと、カワダを追うべきかと考えた。今頃ハンカチを探し回っているかもしれない。支給品を無くすなど優秀な男にはあり得ない事だろう。この非常時でなければ、だが。
キングはハンカチを手にしたまま部屋の外に出ようとして、ふと立ち止まると、その布地のにおいを嗅いでみた。水気があるせいか湿り気が誘発し、柔軟剤らしき匂いがふわふわと香る。だがその奥に、わずかながらカワダ独特のにおいがした。汗のにおいだ。体臭か、拭った僅かな皮膚から立ち上るものか。花のような香りがするとは言わないが、人間のにおいである。自分の鼻に馴染まぬ匂いだ。その匂いをすうと吸い込み、鼻息をハンカチが受け止める。鼻息のせいで匂いの分子が飛んだのか、辺りにふわりと柔軟剤の香りが漂った。だがすぐに奥にある匂いがやってくる。
「……」
他人のハンカチを、ここまで吸い込むのにはキングには事情がある。カワダとは恋仲なのだ。だがまだ肉体関係を結んではいない。この戦争が終わるまではいうキングの几帳面で真面目な提案に、カワダも了承した。最低限の触れ合いで我慢が出来る年齢で幸いだった。だが今キングの前には、唐突にカワダの分身のような物である。カワダの小さな分身が、くたりと手の上で自由にしろとばかりに倒れている。キングの心に魔が差すのに時間は掛からなかった。
ハンカチを吸う。その布地は支給品だから、手触りが素晴らしいという訳では無い。だが触れていない肌を想起するのには十分な柔らかさであった。
「ハル? 失礼します…」
カワダはキングの部屋に戻って来た。ハンカチを忘れた事を思い出したからだ。落とす可能性を残した事が不覚であるが、落としてしまったものは仕方ない。キングの部屋は閑散としていた。執務机に姿は見られない。
「ハル?」
先程会ったばかりである。緊急用件でも入ったのか、それならばカワダまで通るはずであるがその一報は聞こえて来ない。キングの姿を求め、不躾ながら部屋を探し回ると、シャワー室の方から音が聞こえてきた。ああそちらにいるのかとカワダがそちらに足を運ぶと、やはりシャワー室を叩き付ける水音が響き渡っていた。それではハンカチの出処は聞けないだろう、落としたであろう執務机の前には無かったのでキングに聞くしかない。ひとまず諦めるか、と思ってシャワー室から目を離した時だ。
「ん?」
カワダの目はふと、シャワー室の前にタオルと共に置かれている見慣れたハンカチを見付ける。支給品であるが、見慣れた布地は間違いなく自分の物だ。何故ここにあるのかとカワダは当然思った。それも隠すようでもなく、忘れぬように見付けやすいように置いている。だからカワダも気が付いたのだ。そのハンカチを手にしてみて、カワダは首を傾げる。先程まではキングは普通の格好であった、時間的にもシャワーが必要であったような事は起きていない。あるいはコーヒーでも零せば…だが執務机の上はカワダが尋ねた時のままで、零したのも違う。では何故か? ハンカチの行方が、次第に下世話な想像に転んでいって、まさかとカワダは自嘲する。だがまさか? このハンカチを使って自慰行為でもしたというのか……。
がちゃりとシャワー室が開き、驚いたような顔でキングがカワダを見やる。
「イサオ?」
「ハル…。少しお伺いしたい事が」
タオルを自然と手渡しながら、カワダは尋ねる。キングは身体を拭き、短いものを腰に巻くとカワダに向き直る。
「すまないな、こんな格好で」
「いえ、私が尋ねたので。それでハル、このハンカチ……」
どう尋ねたものかとカワダは言葉を濁す。だがキングも、明朗快活に答えるというわけには行かないようだ。思わず目線が逸れる。互いの目線が逸れ、互いに気を遣い合うのだが…それ以上進展がないと見るや、カワダがキングを見やった。
「ハル。隠さずお伝えくださいね。…このハンカチで自慰行為を?」
「…その通りだよイサオ」
パッとカワダは顔を上げた。その顔は何故か怒りに満ちている。思わずキングがたじろぐと、カワダはハンカチを潰れそうなまでに握り締めた。
「…ずるい」
「ん?」
「貴方と触れ合うのを我慢しているのに、貴方は勝手に私のハンカチで…!」
「イサオ、それも戦争が終わってからだ」
「でも、それがいつになるかは分かりませんよね…!? 生きていられるかも…」
「イサオ、君の口からそんな不幸は聞きたくないな」
「……それなのに、一人でなんて」
カワダは拗ねたようである。というか拗ねている。キングから目を逸らし、目線を辺りにうつろばしている。だが虚ろな目ではなく、己の怒りを恥ながら抑えられぬ、成人した者の矜恃が子供のごとき怒りに完全に身を任せられない状態だ。カワダの目が、ふとキングの脱衣を見やった。
「でしたら、下着をください。今さっき脱いだものを」
「何故だ」
「貴方の匂いを感じながら、私も勤しみます」
「イサオ…!」
キングが窘めるように伸ばした手を避け、カワダの手は籠に入る脱衣に伸びる。ぱっとその手が盗んだものは、トランクスである。それを至極大事なもののように胸に抱え込み、カワダは取られまいと身を捩る。キングは困り果てた。体格差がある為に、カワダから無理矢理奪おうとするのは残念ながら出来る。だが実力行使はカワダの信頼感を奪う他、キングの矜恃まで傷付ける行為だ。肩に手を置き、説得を試みる。
「君にそんな汚いものを渡したくない」
「ハンカチだって汚いです」
「下着は別だ。頼むからイサオ、返してくれないか」
カワダは納得していない。
「どうして貴方だけ」
「すまない。その点はすまないと考えている。抜け駆けのつもりは無い」
あと数日で日本上陸作戦は開始される、その大事な時期に何の痴話喧嘩なのだろう。だがこの痴話喧嘩の時間が、重責が舐める二人のふやけた背を治してくれる僅かな時間なのだ。ちなみにまだカワダは不貞腐れている。普段はそこまで感情を露わにする性格ではないが、差し当たり作戦が迫った心境だからこそ、キングに八つ当たりしているようだ。
「だから私だってやります」
「イサオ、駄々をこねないでくれ。君を抱きたいのは変わらない。ただ、君の物をたまたま手に入れて諦めきれなかったのは…すまん、私の心の弱さだ」
「こんな事してる場合じゃないのは分かってます。ただ、今はちょっと、貴方と足並みを揃えたかったのて…」
「そうだな、その気持ちは分かるよ」
そう言いながら、キングはカワダの口元に優しく口付ける。音を立てて小さく啄み、口付けで誤魔化されぬようにカワダが口元を噤むが、すぐに舌が絡んでくるのを受け入れた。ちゅく、と水音が立つ。
「ぷ、は…」
「キスだけで我慢するのは、想像以上に忍耐が要る」
「…その我慢を強いて、自分だけはずるいですよ」
「すまない。ただ、下着は辞めて欲しい」
「…分かりました。じゃあキスだけは、思う存分ください」
カワダはそう言うと下着を投げ捨てると、キングに向かって手を首に回そうとした。キングが抱き寄せる。この程度の瑣末なものを、きっと許してあげて欲しい。