食事が喉を滑り落ちる快感は、神が人類に与えたもうた一つの僥倖だ。咀嚼を必要とし、胃で消化する。その為に喉に快感を得なければ、有機物は食事を好んでしたがらない。排泄とて同様だ。有機物の行動原理は快か不快かで別れる。そうでなければ行動したがらないというのは厄介な生き物かもしれない。食事も睡眠も全てが快か不快かである。人類にはその食事を必要とする前に、その程度の行動原理なのだ。
ごくりと飲み干した牛乳が喉を流れて胃を滑る。この甘味のある液体は、本来子牛に用意されているものだ。愛情の塊だという声もあるが、ただの生存戦略だ。牛という種を生きながら競る為に必要なエネルギーを、子供という次の種族に残す為のおこぼれを人間はいただいているに過ぎない。そんな愛も情もない事を考えるのは、感傷に浸らずにあまりにも淡々と考えるのは、この研究所の倫理観の無さがうつったのか?
この生産性の無い冷徹な考えは、デルウハの研究所生活の七年のうち、自ら与えたタスクを消化するうちに一度でも頭に過った取るに足らない考えだった。ただし一過性のものですぐに消え去ると思ったのだが、それが暫く消えなかったのは、デルウハの目に見えるゴーストのせいであった。
「なんでいるんだ」
デルウハの答えに応えるはずもなく、両手を切られた状態の所長が手すりにもたれかかっている。ダイナマイトの爆発により、螺旋を描く研究所の一部は破壊されたはずだ。何故か上階の爆発であったのに、上階の手すりだけが残っていて下階を圧し潰している。そんなことはあり得ないのに、爆発の規模が悪かったのか、死ぬ間際に所長はダイナマイトを口から放り出したのかもしれない。だがあの男がそこまでして、所員を危険な目に遭わせる必要も無いだろう。そうでなければデルウハへの非難が、まるで悪魔の所業をこの世にあえて残すかのように上階の爆発箇所だけが残った…そう考えるのが自然であり、不自然である。まあその上階が残っている事はいい。潰れた建物に問題がある訳では無い。そこにゴーストが、死んだはずの所長が目にはっきりと見えるのが問題であった。所長は半透明で、その体は透けて見えている。触れられるわけでもなく、デルウハの指は掠めるばかりだ。触れられないのならば取るに足らない問題だが、所長のゴーストは何かを訴えるように場に残り続けている。それがデルウハへの未練じみた恨みなのか、それとも他の何かなのか。それを考えるのに、生きて食べるを繰り返すデルウハには割く時間が無かった。
「勝手にいてくれ」
そう言い放つも、両手を失っている所長はほほえむだけだ。せかせかと研究所と外を行き来する生活の中で、ローテーションが苦ではないデルウハにはそのイレギュラーは困り果てる事でもないが、それでもゴーストがいると思考がほんの少しだけゴーストに割かれる。気が散ると言うのが正しいだろう。シャワーを浴びた後、就寝前にデルウハはゴーストに会いに行った。所長は研究所をうろうろするでもなく、ずっと殺された場所で手を失った体で壊れかけの手すりに倒れ込んでいる。それは、皆殺しを始めたあの日を嫌でもデルウハに思い起こさせ、まるで責めるかのように見えた。穏やかな顔をしているが、デルウハへの憎しみが残っているからこそのゴーストか。そうであるなら、何故取り殺すかのように襲って来ないのかがおかしい。ゴーストであれば生前の体を引きずる必要は無いだろう。だが所長は、あくまで両手を失って動けないでいる。
「あんたは何がしたいんだ」
独り言以外で他人に話しかけるのは、終末世界では物珍しい行動だった。他人とはいえゴーストである。傍目から見たらデルウハの頭が狂ったのかもしれないが、いやガスがやって来る世界の終わりで狂わない人間がいるのか。デルウハの正気はとっくに失われているのかもしれない。ただ今は、ゴーストにリソースを割く手間を避けたいのだ。
所長は口を動かさない。ただほほえむだけである。その健気さが、何も言わぬ美徳が、今のデルウハには煩わしい。所長に憎んでいるのかと尋ねる。ゴーストは己の脳が作り出した幻影かもしれないのに、何を言っているのかとデルウハは思った。だが所長は首を振った。明確に行動したのだ。
「じゃあ何だ。未練があるのか」
所長が頷く。未練となるとデルウハにはそれを叶える必要があるのだろうか。冗談では無い。明日もやる事は山積みである。イペリット対策を講じた終の棲家作りも、パンもサラミもチーズもまだ熟成中である。すぐに叶えられる事でなければ無理だというのが顔に出ていたのだろう、所長のゴーストが顔を悲痛にゆがめる。その時点で、脳の幻影ではないように見えた。
デルウハは考えた。何を聞いていいのか、何が未練なのだと尋ねたいがデルウハには見当をつけなければならない。無闇に尋ねてもゴーストは口をぱくつかせるだけで、何のヒントも与えてくれ無さそうであるからだ。
「あんたの好み。酒とか…煙草…」
所長のゴーストがぱっと顔を明るくした。まさか煙草? 嗜好品を作っている余裕は無いと聞いていたが、誰か作っていたのか隠し持っているのか? 探すのは手間だ。デルウハは手早く済ませたいと考えて、周辺を見渡した。雪山で死に絶えた研究員達の死体が転がっている。その中に、見慣れぬ小箱が転がっていた。
「は?」
誰か隠し持っていたのか? 軍でも煙草や酒は高値で取引される嗜好品だ。その価値を分かっている者が、隠し続けたとでもいうのだろうか。そんな相手をデルウハは殺害したのだが、あいにくその顔は何一つ覚えていない。まあいい。簡単に見つかったのなら良しだ。火を起こす装置を見つけて来て、煙草が二本だけ箱にあるのを確認する。
ゴーストの口元に一本近付けると、何故か質量を持ってぱくりと咥えた。その都合の良さにデルウハはかえって呆れるが、それでも自分も煙草を口にする。久々に吸うのだ、自分も吸って罰は当たるまい。地獄で強盗を咎められたのなら、上乗せしてくれて結構だ。デルウハは屈んだ。煙草を咥えた所長の口元に、自分の煙草を近付ける。火は同時に点けた。シガレットキスである。
じじ、と煙草に火が点いたら、所長が煙を吸い込んだのが分かった。デルウハも吸い込む。そういえば、煙草には魔よけの効果があるのではなかったか。デルウハはうろ覚えの知識は好まないが、この不可解な状況を打破するのならオカルトでもスピリチュアルでも頼るべきだ。それが合理性である。ふう、と所長に向かって煙草の煙を吹きかけた。次の瞬間、効果覿面所長のゴーストは消え失せて、煙草だけがぽとりとその場に落ちていた。先程までシガレットキスをしたのが嘘のように、デルウハは自分の煙草をその場に捨てると、床に落ちた所長の煙草ともども踏みつぶした。くだらぬ嗜好品である。腹が膨れない。デルウハはゴーストを消したことで満足すると、自室に戻っていった。ほんの少し煙草の香りが服に染みたが、それもいずれ消えるだろう。さあ就寝へ。合理の悪魔は寝台に向かうのだった。
はーとありがとうございます!