指先を怪我するかのような小さな引っ掛かりがあった。指先には神経が通い、人間の神経は張り巡らされていると感じられる。その小さな引っ掛かりが、棘のように突き刺さった頭には油断が生まれるものだ。サタケは後片付けに奔走していたプラムマンの手が、緩やかになったところで誘う事にした。サタケ自身も残務処理があるものの、もうATFは祝勝会ムードである。残念ながらオアフ島の住民は大半が避難したため、この島と命運を共にする人間はほとんどいなかった。だから空母に残るわずかな酒とかろうじて残った住民によって提供される酒が、世界を救った彼らを癒す道具であった。サタケは小さな息を吐く。プラムマンはその吐息に気付いていたが、あえて見ないふりをする。その気遣いに、サタケは遠慮なく言葉を吐いた。
 「今日、一緒に飲まないか」
 「有難いお誘いですな。勿論です」
 食い気味での返答である。それはプラムマンがサタケの言葉を待ち構えていたからであろう。矢継ぎ早であったことが非常に不自然だ。だがサタケはその不自然さに笑いをこぼした。
 「君も待ち構えてくれる時があるんだな」
 「年甲斐もなく浮かれていますな」
 「それはそうだ、世界を救ったのだもの」
 サタケはプラムマンの不自然さを好意的に、この戦果に関わるものだと認識したようだ。そうだ。今は誰もが浮かれている。終わりの見えぬ大戦を生き延びることが出来た上に、世界の安寧を取り戻したのだから、功績を残した。おまけにそれぞれの国家は首都機能を失わず、通信が可能であったことが何より喜ばせた。国家ごとの殲滅を誰もが考えたのだ。人間はしたたかで、逞しかった。失われた同志を思うと自然と黙祷を捧げるものの、人類は手痛い現状でも生き延びていた。社会が機能していた。それが何より嬉しかった。だから皆浮かれても仕方がない。
 「君の故郷は無事なのか」
 「どうでしょう。まだ確認は取れていませんが、奴らは軍事施設をわざわざ狙っていたように思います。田舎は、無事かもしれません」
 バーのカウンターで乾杯、という訳にはいかなかった。兵士達が騒いでいるだろうし、そこに上官の顔を見せるのも興ざめになるだろう。だからサタケは酒を何本か拝借して、自室にプラムマンを呼び寄せた。行儀の良い男である。一礼し、サタケが席を勧めるまでは背筋を伸ばして立っていた。
 「堅苦しいのは無しだよ」
 「貴方が上官であることは変わりありませんから」
 苦笑いするサタケが席を勧め、ようやく酒が回って来ると彼らは対等に陽気に話せるようになった。だがプラムマンは敬語であるし、サタケも新兵に戻ったかのような気分でも上官らしく振舞う。その振舞いは身に染みついているものだ。それでも言葉の問題など些細な物であろう、だが酒は次第に頭のねじを緩ませていった。プラムマンが昔話を引き合いに出す時は、どうしても当時の教官であったような平時の言葉遣いになる。
 「ああ、失敬。二佐殿にはそのような口を利いてはなりませんな」
 「当時は二尉だ。貴方から見ればひよっこだったよ」
 「でしたら昔のように話しても?」
 「もう話してるじゃないか」
 揚げ足を取るようだが、サタケの言い方に嫌味は無い。気心の知れた相手への口調だ。プラムマンはふふと笑う、もう互いに上官と部下というメッキは剥がれて、顔馴染みの会話になっていく。昔の合同演習の時に如何に手が掛かったか、プラムマンは饒舌になり、サタケは恐縮しきりである。若気の至りであるが、プラムマンに言われるとサタケは反発もせずに受け入れることが出来た。それは気心が知れる間柄であるからというのもある。楽しそうに笑うプラムマンの顔を見ていると、サタケの中にある僅かな感情が引き起こされる。無邪気な笑顔に皺が寄っているのを見ていると、封印してきた淡い恋心が呼び起こされるのだ。合同演習でプラムマンと出会ったのが、もっと若い頃であった。その時に新兵であったサタケは、プラムマンに散々やり込められたものだ。彼の指導を受け、軍人としての在り方を叩き込まれたものだ。その日々の中で、オンとオフの落差に、プライベートでの優しさに惹かれるのは早かった。だが淡い恋心だ。国境を超える、性別を超える。その障害を越える覚悟も勇気も当時には無かった。今も無い。今のサタケにも無い。だが口にすることはない。
 「君に出会えて良かったと思ってる」
 「そうか。私もだよ」
 ミラー現象であろうか? プラムマンも同じ考えであったと言われた時、サタケの心はざわめいた。プラムマンは穏やかに笑っているのが分かる。サタケはまともにその顔を見上げる事が出来ない。だが目の前に穏やかな顔があるとしたら、見なければならない。これ以上に彼の笑顔を見られるタイミングは訪れることは無いと、頭の中でそう考えて必死に顔を上げる。ぎこちない動きであったが、サタケはなんとかプラムマンと目を合わせる事が出来た。
 「…本当に?」
 「本当だ」
 プラムマンが繰り返す。サタケは彼と顔を見合わせ、心臓の動悸が首にまで登って来る。喉の辺りに心臓がやって来る。どくどくどくと喉が鳴る。プラムマンが微笑んでいる。何かを言わなければならないとサタケは思った。だが何も出て来ない。顔が紅潮して熱が集まり、何も出来ない。喉が痛い。熱を持って唾を飲み込めない。なんとか飲み込んで、サタケは震える声音で言った。
 「…君がそう言ってくれるのなんて、夢みたいだ」
 「そうですか?」
 「夢みたいだ。本当に」
 「お前にそれを伝えられる事が、私もあるとは思わなかった」
 心臓が跳ねる。喉から飛び出てしまいそうだ。顔の熱が頭頂部に登り、耳から下に降りる。熱が逆流して、背に汗が溜まる。
 「…そうか。そうだったのか」
 その言葉だけで、サタケは察した。プラムマンも似たような恋心を抱いていたのだろうかと、己惚れる。己惚れていいものかと考える前に、思わず言葉が漏れてしまった。
 「君も、まさかそう思ってくれているのかと思わなかった」
 「意外でしたか?」
 何を言ってしまっているのか。だがもう止められる物ではない、サタケは熱が背を滑っていくのを感じた。
 「…己惚れていいのか? もう若くない身だけれど」
 「私だって若くはないさ。私でよければ、だが」
 「諦めてたんだぞ」
 サタケの声は震えていた。プラムマンは穏やかに笑っていた。まさか酒によってつい胸に秘めたものを告白すると思わなかった。そしてそれを受け入れてくれるとも思わなかった。サタケの瞳から涙が零れ落ちた。その涙を掬ってくれるのを期待していたわけではないが、プラムマンの手が頬を滑ったのが分かった。それ以上に言葉が必要ないのが分かり、心臓が元の場所に戻っていく。するすると落ちていく熱が、胸をじんわりとあたためる。小さな引っ掛かりが、指の怪我のような引っ掛かりが熱に溶けて消えていった。
 
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