08:マルコスとリリカ編①
案内時に医者と看護師はランプを持っていた。薄暗い廊下を案内され、零夜は言われるがままに一つの部屋を案内される。看護師のメグメグがきゃっきゃとはしゃぎながら、零夜の背を押して中に押し込む。よろけた零夜を見て彼女は無邪気に笑った。加害性は無いようである。ただ子供の力加減が分からないまま大人の体を得たような…だが振り返ってまじまじと見ると、メグメグは非常に小柄で、まだほんの少女に見える。彼女が劇的に成長することなどあるのだろうか。そもそも医療行為を彼女が出来るのだろうか。疑問は尽きないが、メグメグは訝し気な目線に慣れているのかにこにこと笑うだけだ。
「きゃはは、じゃーねー!」
「それじゃあゆっくり休んでちょうだい」
医師のマリアが美しい微笑みをたたえ、メグメグを連れて部屋を出て行く。零夜は一人になり、中を見回した。渡されたランプの火はほのかでかぼそきもので、四隅まで照らさずに丸い灯りの輪を天井に浮かび上がらせている。白い部屋だ。恐らく、炎の色から考えるのに天井や壁は白い。だが床はフローリング調のあたたかみのある木が敷き詰められていた。そこに家具ずれやあるいは、錯乱した人間の爪痕などは見当たらない。精神病院であるはずだ。最高峰AIであるVoidollが、世界中の人間のために生み出した人格矯正施設ではない為だろう。
Voidollがこの世界の覇権を握るようになったのは、十年近く前からだ。彼女は人格に重きを置き、安定した性格の人々を好んだ。それは人類皆そうであろう、本音は穏やかに暮らしたいと考えるに違いない。彼女の施策のおかげで、街には機嫌を己で取り、情緒が安定した者達ばかりで充ち溢れるようになった。彼らはそもそも生活に苦悩が無い。ある程度の水準をれ落ちた運の良い者たちである。だがそれでいいのだ。満ち足りた生活を送る者、その生活を支え合う事に敬意を払える者がこの世にいればいい。少々人格に問題がある者達を矯正、あるいは排除(監禁だと言う人間もいる)したおかげで、街には常に仕事が余っているぐらいなのだ。それでも薄給は少なく、むしろ清掃業者や医療関係者、保育関係者の高給取りはよく知られている。そんな満ち足りた生活を送る者でも、家庭内で人格に問題があると判断されれば即座に矯正施設行きだ。そうして矯正が終われば、加害性を失い、にこにことして自分の事ならびに他人の事を進んで行うようになる。集団生活における良き人間になるのだ。
零夜は暗い窓を覗き込んだ。ガラスの向こうから葉擦れが聞こえ、ここが山である事を思い出させる。ここは人里離れた山の中である。COMPASSと呼ばれるVoidollが選抜した不名誉な人間ーー矯正が不可能と判断された人間の巣窟である。矯正が無理であれば隔離、排除が彼女の施策だ。だがそれは当たり前のようでもあった。人間は仲間意識が強い。縄張り意識すらある中で、異物は排除されるべきである…その方法の昏い部分をVoidollが担ってくれ、まるで人類の贖罪を引き受ける機械の女神だと言う者もいる。零夜はそう考えていなかった。この世界は狂っている。だから反乱分子だとみなされ、AIの手先と化した公安に追われる身であった。だが”不慮の事故”により彼は怪我を負い、入院を余儀なくされたところで、Voidollによって選抜されたのだという。だから、まだ完全に治っていない身で、ここに収容されたのだ。
「…薄暗い」
天井に目を凝らすと照明は天井に付いているし、照らすための電球の姿も見えた。そうなるとあえて夜はランプで過ごしているのだろうか? 何故そんな不便な事をするのか、零夜には少々見当もつかなかった。だが寝台も家具も、皆綺麗そうで掃除が行き届いている。待遇としては最低ランクで、人間として扱われないという噂さえあるが、この清潔さはどうだ。零夜は首を傾げるばかりである。本来想像するような奇声や暴れる音も、何も聞こえない。ここは人格矯正プログラムにすら手が負えなかった者達の巣窟ではないのか? 社会に戻せない者達ばかりではないのか。だがそれにしては行儀がいい。だが、今ここで頭の中で推論を重ねた所で、百聞は一見に如かずである。明日になれば分かる事だ。零夜が見回すと、ま新しい病衣が畳まれてベッドに置かれていた。至れり尽くせりである。これではまるで宿泊施設だ。だが断る理由もないため零夜は服を着替えると、すとんとベッドに横たわる。ふう、と大きく息を吐いた。黴臭さも埃臭さも、シーツを洗っていないすえたにおいすらもしない。どうしてであろうと考えればきりは無いが、睡眠をとる事にして零夜は目を閉じた。
目が覚めればそこは昨夜案内された部屋だった。だが朝日が充満し、四隅はまっしろに照らされている。零夜が体を起こすと、こんこんこんと狙いすましたかのようにノックが聞こえる。
「起きたかしら? まだ慣れない子には案内をする予定なの。病衣のままでいいからいらっしゃい」
マリアである。その扉には格子細工があり、足元だけが見えるようになっている。そこにあるのは昨夜診察室で対面したマリアのズボンの色だ。零夜はそういったことはよく覚えている。まさか彼女は眠っていないのか? そんな事を考えながら零夜は従う為にベッドから降り、扉へ向かうのだった。
「部屋に洗面台は無いわ。髭剃りも出来ないの」
「…鏡は?」
「鏡も無いわ。だから洗面台は共通の物を使ってちょうだい。ここが洗面所よ。脱衣所や風呂場は別にあるから、まず朝はここに来るといいわ」
そう言ってマリアが指差したのは、真っ白な洗面台が部屋の両端に立ち並ぶ部屋だった。白い大理石とおぼしき床に、真っ白で清潔感のある洗面台が整列している。その奥にはパウダールームがあるのか、人の話し声がした。そこで顔を洗っているのは、白い髪の年端も行かない少女に、機械音を発する小型の機械を片手に持ちながら、適当に顔を洗う器用な金髪の少年だった。彼女が真っ白なタオルで顔をぽんぽんと拭く。マリアは少女に話しかけた。
「おはよう、コクリコ。いい朝ね、よく眠れたかしら」
「おはようございます、せんせい! コクリコねむれたよ? へんなゆめもみなかったの」
そう言って顔を輝かせる彼女の青と赤の瞳が、日光を吸い込むような黒いものに充たされている。零夜はその異常に気付いたが、だが黒目であることは間違いないし、身体の異常ではない。ただ、底知れぬ黒い物が彼女の奥にある。そう本能的に想像するだけだ。すると水を浴びていた少年が顔を上げて大きなあくびをする。
「ふああ…」
「アタリ、あなたはちゃんと眠れたんでしょうね」
「1時間な」
彼は片手でタオルをごしごしと顔に押し付け、片手で何かの操作を続けている。その機械からはいわゆるゲーム音が聞こえてきた。ぴこぴこという懐かしい音である。零夜は今どき珍しいなと思いながら、それがゲーム機黎明期に出た小型ゲーム機であることに気付く。思わず口を挟んでいた。
「…ゲーム」
「お、新入りお前も分かるクチか!?」
アタリと呼ばれた少年が、零夜にずいと身を寄せてその顔を覗き込んで来た。その顔はきらきらと輝いて、どこか精神に異常をきたしているようには見えない。だが零夜が何も答えないでいると、小型ゲーム機についてぺらぺらと喋り出したので、彼の偏執はゲームにあるのだろう。
「一時間じゃ足りないわ。仮眠を命じます」
「えーそれじゃあゲーム出来ねえじゃん」
「出来なくていいの。貴方の言うとおり、Voidollがレトロゲーのデータ化を推し進めているんだから。無茶言わない」
「ちぇ」
アタリとマリアの会話に、零夜は思わず食いつこうとして堪える。Voidollがこの少年、収容者であり一級の精神異常者のために何かをしているのか。人格矯正を行わず、ここではのびのびと暮らしているように見える。それにアタリと呼ばれた少年も、コクリコも10代かあるいは満たないほどの子供だ。子供の頃からこの施設で暮らしているのか、親元から離れて暮らさせられている。その人権侵害については何も思わずに、純粋な子供をこうして連れ去って…だがそれでは人格矯正プログラムの存在と齟齬が生じてしまう。あまりにも非人道的で誰もが望んだ口にはしてはいけない願望を叶えるのがこの施設であるはずなのに、彼らはのびのびと暮らしている。パウダールームから妙齢の女性が二人出てきた。金髪のボブヘア、ジャンヌである。彼女に連れられるように紫の豊かな髪の少女、双挽乃保が後ろからやって来る。
「朝から面倒なことハしたくないノ」
「いいじゃないですか。たまには必要ですよ。あ、先生おはようございます」
ジャンヌは恭しく頭を下げる。自然で、溌溂として朝日のような女性である。乃保は少し不貞腐れているようではあるが、マリアにはおはよとだけ言った。ジャンヌは小首を傾げる。
「新入りさん…でしょうか」
じいと乃保が眼鏡の奥から零夜を警戒するのが分かった。ジャンヌは友好的だが、乃保は少々猜疑的だ。マリアはにこやかに零夜を紹介する。
「ええ、昨日から来たの。零夜くんよ、よろしくね。仲良くしてあげて」
「番号は?」
アタリが尋ねる。
「08よ」
そこで素っ頓狂な疑問の声を挙げたのは、乃保だった。え、と本当に虚を突かれたようである。ジャンヌもアタリも同意見のようで顔を見合わせる。コクリコは首を傾げていた。
「りりかおねーちゃんのでしょ?」
「リリカ…?」
「それはおいおい説明するわ。さ、顔を洗ってきて。外で待ってるから」
マリアはそう言って外に出て行く。零夜は不思議そうに眉をひそめた。監視対象であるはずだが、ここで剃刀や鏡を使って自殺する恐れを感じていないような口ぶりだ。どこにも行かないという確証がある口ぶりだ。洗面所には大きな窓があり、人間がその隙間から三人程身を乗り出せるほどに幅がある。それが開いている。まるで訓練された象のように、鎖はもうないのに飛び出すことはしない。アタリ達も誰も、そんな事を思い付きもしないようだった。談笑しながら彼らも洗面所から出て行く。零夜もこのままではいけないので、静かに顔を洗い始めた。清潔な石鹸にタオル、かみそり、歯ブラシ、コップ…常備されている物から必要な物を取り、タオルで顔を拭う。冷たい水である。配水管が腐っているだとか、そんなことは絶対にない清潔な水である。零夜が顔を上げると、いつの間にか鏡に映る背後には、一人の男性が立っていた。中年男性である。足音などは微塵もしなかったのに、零夜は驚いて振り返った。
「すまん、驚かせたか。新入りだろう」
落ち着いた声で彼は話しかけて来る。むじゃきさや気さくさは無いが、最低限の成人としての問いだ。零夜がそうだと頷くと、彼は自己紹介する。
「ルチアーノだ」
それだけ言うと彼は手を零夜と一個離れた向こうで、手を洗い出した。その手は綺麗に見えるのだが、ルチアーノはごしごしと石鹸で丹念に洗うと、さっさと洗面所を出て行く。潔癖なのだろうか。零夜が洗面所を出ると、マリアが待っていた。
「勝手が分からなかった?」
「いえ」
「ふふ。困惑してるのね分かるわ。ここの噂はひどいものだもの、糞尿が撒き散らされてるだの、奇声が常に発せられてるだの…」
外の評判を知っているのかマリアはおかしそうに笑った。零夜は黙って聞いている。
「でもね、もっと知って欲しいわ。ここはユートピアよ、Voidollが作りたい世界は、きっとこんな美しいものなんだと知って欲しいわ」
「美しいもの…?」
零夜には疑問である。前評判を完全に信じた訳ではないが、これでは行動原理がめちゃくちゃである。AIへの叛乱をもくろむ零夜にとって、この施設はAIの獅子身中の虫になりえるのだから。だがマリアが案内したのは食堂だった。
そこは年中日が差し込む場所であった。一面がガラス張りだが暑すぎず寒すぎない気温に保たれ、太陽のふとんに常にくるまれているかのような安心感のある空間である。食堂とマリアは紹介したが、リビングのような場所でもあるようでコクリコは走り回っているし、談笑している人々の顔は皆穏やかだ。そして建物を取り囲むように山の中に見事な庭園があり、まるで取り囲むように薔薇やユリなどの美しい花々が周囲を覆っているのが分かる。その中に池があるようで、たまに反射する水面が見える。愛らしい生垣によってその手入れが行き届いていることが分かる。花々に囲まれ、日光を独り占めし、それでもひっそりと建つここは、静謐に充ちている。ユートピア、桃源郷というのが相応しい場所だった。
「美しいでしょう?」
マリアが誇らしげに言う。メグメグはコクリコに付き合って遊んでいて、きゃっきゃっとはしゃぐ声がガラスの中で天使の歌声のように聞こえる。声が響きすぎもせず、かといって吸収されもせず…すべてが調律されて整っている。そう感じざるを得ない建物だった。鳥の糞一つガラス張りの屋根に見えない。食堂はまるで教会のようでもあった。透明な教会だ。そのせいか食事をするために並べられた木の細長いテーブルが規則的に並ぶのは、教会の修道院の食事処にも見えた。木のテーブルに飾り気は無いが、朱色のテーブルクロスが敷かれ、そこで皆食事をしている。
「さ、零夜も受け取って」
マリアが零夜を連れて行ったのは、食堂の端にある給食所であった。そこで働くのはロボットのように見えた。ガードールと呼ばれる汎用機械である。ガードールは零夜をスキャンするとメニューの盛り付けを開始した。食事の加減を決めるようだった。
「すごいでしょう、こうやって決めてくれるのよ」
マリアがそう言っている間に、食事の入ったトレーが差し出される。赤いスープに、白いパン。牛乳パックにサラダにヨーグルト、それにソーセージにハムにベーコン、スクランブルエッグ。
「あら、私より豪華じゃない?」
マリアが受け取ったのはハムやソーセージがてんこ盛りだった。歓迎も含まれているのだろうかとロボットを窺うが、ガードールには表情が無い。だからそれ以上分かるものは何もなかった。マリアに誘われて空いている席に座ろうとした時だ。
「そこはリリカちゃんの席だ!」
突然の大声に、零夜もマリアも顔を上げる。見ると、オレンジ色のパーカーを着込んだ青年が一人、立っていた。マルコス’55である。アタリもパンをちぎっていたし、コクリコもスプーンをスープの器に落としてしまった。しんと息を呑む中で、マリアが取り成そうとする。
「ごめんなさい、気付かなかったわ。それじゃこっちに」
「そこも、リリカちゃんの席」
「…そうね、じゃあ庭で食べましょう。ちょっと狭いけれど、いいわね?」
是非もなく零夜は頷いた。マルコスの剣幕には誰も触れないが、とにかく零夜達がこの場を離れれば収まるのかもしれない。互いを傷付けない為に距離を取るのは、実際にあり得る事だ。ここは精神病院なのかと疑わしい部分はあるが、唐突な激昂と零夜に向けられたマルコスの激しい憎悪。その二つが、この桃源郷の取っ掛かりになればいいと零夜はじっとマルコスを見つめる。庭園での食事は素晴らしいものだった。甘い花の香りに包まれ、風が心地よく、いつも人気なのよとマリアが言うのも頷けた。花のかおりがついたパンを飲み込む。この美しい世界を、零夜は少しずつ知らなければならなかった。