Gray
洗面所の鏡の前で背伸びをして、私はもう一度その服を着た自分の姿を眺めた。名門女学校の制服を彷彿とさせる、大きめの白い襟、白いカフスがついた灰色の長袖ロング丈ワンピース。シンプルなウエストベルトは高めについており、スタイルを良く見せてくれる。鏡では見えないが、一緒に買ったビジュー付きの白靴下も雰囲気に合っている。黒髪ボブのウィッグの位置や前髪を今一度整えて、色付きのリップクリームを塗った。唇が赤く艶めくだけで、私の冴えない顔もぱっと明るくなり、柄にもなく目が輝く。あとは玄関のローファーを履いて、一歩を踏み出すだけだ。
上品でいて可憐な、そんなワンピースを着るのが私の夢だった。あの美しいシルエット、翻る裾のときめきを私はどうして身に着けることが出来ないのだろうと、幼い私は胸をぎゅっと掴まれながらワンピースを着ている女の子たちを眺めていた。そんな私も大学生になり、親元を離れてある程度自由な生活を手に入れた。大学にはワンピースを着ている人たちが特にたくさんいて、私はやはりそれを眺めていた。ただ一つ違ったことは、この環境であれば私もワンピースを着てみることが出来るかもしれない、という希望があったことだった。
入学後すぐ、何気なく立ち寄った大学近くのファッションビルでそのワンピースを見つけた時は息を呑んだ。私がずっと考え続けていた、もしワンピースを着ることができるならこんなデザインが良い、という願望をそのまま取り出したような理想のワンピースが、そこにディスプレイされていた。私は我を忘れてそのワンピースを隅々まで眺めた。どこを見ても隙が無い、嫌な部分が一つも無い、見れば見るほど、それは私が着るべきワンピースだった。
店に入ってもっともらしい理由で買うビジョンは見えず、しかしすぐにそのフロアの休憩スペースへ駆け込み、あのワンピースがディスプレイされていた店のサイトを開いた。そのワンピースはフリーサイズで、残り一着の状態でネット通販のページに載っていた。私に考えることはもう何も無かった。そうして今、私は、このワンピースを着ている。夢のような現実の中にいる。新品の布の触り心地や匂いでさえ、ワンピースが今ここにあるということを示してくれていてとても愛しい。
丁寧にローファーを履いて、玄関のドアを開ける。涼しい風がフレアの裾を掬って、それが少し足に擦れる。一連の挙動に気付けば涙が零れていた。ワンピースの限りない美しさ、輝かしさを私が纏っているという現実は、感動という枠には収まりきらなかった。
本当は昼の大学や街に繰り出してワンピースをその場にいるすべての人々に見せびらかしたかったが、ワンピースを着ている私のことは見せびらかしたいとは思えなかった。そこで、とりあえず今日はセルフレジがある深夜のコンビニへ行ってみることにした。誰とも深く関わることなく、それでいて店員さんやいるかもしれない他の数人へワンピースを見せることが出来る。夜道をランウェイにすることだって出来る。胸が更に高鳴った。
背筋を伸ばし、裾を持ち上げては離したり、袖を街灯に透かして見たりしながらゆっくり歩いていく。周りより暗い公園の真ん中まで入って行って、月光を浴びせたりもした。丁寧に織り込まれた糸の一本一本すらきらめいて見え、ボタンはもとより月の欠片であったようだった。少し不便なところに住んでしまったと思わされていた道のりもあっという間に過ぎ、煌々と光るコンビニに着く。そばに設置された喫煙所の人影がこちらを見ているように思えて、複雑な動悸を覚える。立ち止まらず、自分に自信を持てと心で唱え、ついに入店する。
このワンピースを着た人は何を買うだろうと悩みに悩み、思ったより居座ってしまった。ブルーベリー味の飲むヨーグルトと紅茶クッキーをセルフレジに通す。品出しをしながらこちらを伺っている店員は私が有人レジを使う可能性を見ていたのだろうが、その視界にワンピースが入っていると思うと喜びでいっぱいになった。ずっと手に持っていた携帯ごとレジ袋に入れてコンビニを出る。レジ袋を持つのは不服だったが、ワンピースを見てもらって何も買わないのは気が引けるかつ合う鞄を持っていないので致し方無い。次の機会に買い揃えることにしよう。
「少年」
喫煙所の方からそれなりに大きな声がして、私は思わず声の方を向いてしまった。黒いオーバーサイズのパーカーに黒いズボンに黒髪ロングの、黒ずくめの女性が笑顔でこちらを見ていた。私は冷や汗が止まらなかった。男なのにワンピースを着ていることがバレている、絡まれた、馬鹿にされる、そんな私の絶望をよそに彼女はさらに話し掛けてきた。
「とても綺麗なワンピースだね。くるっと回って見せてよ」
通りすがりの私への要望としてはおかしいのだが、不思議と彼女からは想定していた悪意を全く感じなかったため、私は思い切ってその場で片足ターンした。フレアがふわりと広がり、見事なシルエットで咲き誇るのが分かった。その瞬間に私自身も、咲いた、という感覚がした。回り終わった後私は数瞬目の前の女性のことを忘れ、裾を触りながら恍惚に浸っていたが、彼女の大袈裟な拍手でコンビニの前に引き戻された。
「少年によく似合っているよ。見せてくれてありがとう」
そう言うと、彼女は言いたいことを言い終えたという素振りで目線を下に落とし、持っていた煙草を咥えた。そこで帰ることは容易だったが、私は思わず訊きたいことを声に出してしまった。
「私、男性だって分かりますか」
彼女は再び私の方を見て、煙を吐いた。
「あれ、少年は男の子だったの」
本当に分かっていなかったといった口ぶりだ。
「え、ええ、少年と呼ばれたので、てっきり見抜かれたのだと」
「ああ、僕は少年と呼ぶ時男女を気にしていないから……気に障ったかな」
「いえ、ただ、……おかしく映ったのではないかと思って、不安だったので」
違和感があった訳ではなかったことに安堵しつつ、それでも声が小さくなってしまう私に、彼女は煙草を灰皿に捨てて近寄ってきた。煙草らしからぬ甘い香りがする。
「きれいだよ。とても」
彼女は私に目を合わせて、ゆっくりと言った。私は単純にもその言葉に深く安心させられてしまった。正直こういった人は好きではないと思っていたが、目の前の彼女に関しては不思議な魅力があると感じていた。
「少年、この後予定はあるの」
「いえ、無いです」
「そうか、じゃあ家においで」
その言葉を聞いてから、失敗したと思った。
「な、何するんですか」
「少年にメイクしたいと思って」
彼女はあっさりと答えた。私の経験が浅いからかもしれないが、裏の意図があるようには思えなかった。
「すみませんが私は女装がしたいという訳ではないので……ウィッグを被っておいてなんですが」
「僕も女の子らしくさせようとは思っていないよ。そうだね、その素敵なワンピースが持つ無限の表情のうちの別の一つを、僕が少年に見せられたらいいなと思ったんだ。どうかな」
彼女の言葉はすっと胸に入ってきた。きっと私と同じようにワンピースを大切にしてくれているからだろう。確かに、私のもとに着てくれたワンピース、様々な着方をしてあげたい。私はワンピースに身を捧げる心地で返答した。
「そういうことなら、行きます」
「やっぱり少年は僕の後輩だったんだね」
通ったことのない住宅街の中を彼女……これからは先輩と呼ぶことにしよう……に着いて歩いていきながら、私達は自己紹介をした。と言っても、先輩が私と同じ大学に随分長く在籍している、という情報しか教えてくれなかったため、私もその大学に入ったばかりであることしか言わなかった。
「私が年上だったらどうするつもりだったんですか」
「この辺の大学生に僕より年上の人なんてほぼいないよ。それに、仮に年上だったとしても、少年のことは少年って呼ぶのがしっくり来る」
先輩は私の顔を覗き込んで微笑んだ。感じてはいたことだが、先輩は距離が近い。
「煙草の匂いが付くので、離れていただけると」
「ああ、ごめん」
先輩は素直に身を引いた。
「煙草らしくない匂いですね」
「苦味は得意じゃなくてね、甘いのを見つけてきて吸ってるんだ。フィルターも甘いんだよ。……さあ、着いた。少し待って」
先輩の家はコンビニから近かった。オートロックの鍵穴に先輩が鍵を挿して、透明のドアが開く。ほんの少しいけないことをしている気持ちになりつつマンションの中へ足を踏み入れた。