22時に帰宅した13歳のヒビキが目にしたのは、玄関にある見知らぬ靴だった。男物の靴だ。どすどすと無遠慮な音で廊下を歩くと、左手にあるリビングに続くドアが開いていて、そこから革張りの黒いソファーが見えて、その上で母親が見知らぬ男とキスをしていた。ヒビキはかっとした衝動に任せてそのドアを蹴飛ばした。身に流れる父親の血がそうさせたのだと思った。ドアのけたたましい音に驚いて、母親と男が立ち上がった音がしたが知らぬ顔でヒビキは右手にある階段をだすだすと音を立てて登っていく。ヒビキ、と弱弱しい母の声が階下で聞こえたが無視して自室に入った。そのドアもけたたましい音で閉める。この世全てに苛立つ音だ。母親は困ったような顔で後ろを振り返り、見知らぬ男も興ざめしたと言う顔であった。こんなやり取りがもう数年続いている。
ヒビキの実の父親が死んだのは11歳の時だった。交通事故である。その業界の大手会社員で中古ながら一軒家を買った、その矢先の不幸な事故だった。反抗期が来ていないヒビキは、父親が好きだった。よく遊んでくれてよく笑う人だった。その父親の幻影が残る家で暮らしながら、そろそろ再婚をと考えて男を連れ込んでいる母親が、思春期の潔癖さとあいまって許せるものでは無かった。専業主婦の母からしたら、再婚は生活とう面からすれば妥当な判断だったのだろうが、幼いヒビキには父愛し母憎しである。だからか、部活にも入らずに勉強もせず家に帰らずで夜の街をぶらぶらとすることにしていた。それを母親が咎めたことがあるが、ものすごい眼差しで睨んでからはヒビキに何も言わなくなった。破壊衝動、嫌悪、ヒビキの身にはあらゆる思春期の毒が煮詰まっていた。それを表立って、何かを壊しながら道を歩くような蛮行はしなかったが、絡んで来た酔っぱらいを突き飛ばすぐらいはした。そんな日課で、たまたま通りがかった人通りの少ないコンビニ、その駐車場でヒビキは同年代と思われる水色の髪の少女が金髪の3、40代くらいの男に絡まれているのを見た。咄嗟の破壊衝動が彼女を突き動かしたのか、ヒビキは少女を助けに駆け出していた。持っていた鞄にはすべての教科書が詰まっているので、非常に重かった。武器になるのは承知のうえで、水色の少女に男が拳を振り上げた所に割り込んで鞄を横っ面に叩きつける! 男が吹っ飛んだのを確認し、すぐに起き上がれない様子を見てヒビキは急に怖くなった。まだ一介の少女である。将来自衛官を志す事も分かっていない。傍目から見れば、不良少女が不良少女を助けたのだ。水色の子が、ヒビキの手を掴んだ。立ち上がると、彼女はヒビキよりも背が高くすらりとした細身だった。
「行こ!」
彼女の声にはっとして、ヒビキは頷く。まだ男は呻いていた。防犯カメラがあれば警察沙汰になっただろうが、彼女らは目の前で身に降りかかる粉を払うのが精いっぱいだ。ひとしきり走って逃げた先に薄暗い公園があった。水色の子が、ここ金ないから照明直さないんだよと口添えする。だが勝手は分かっているようで、暗闇の向こうにあるブランコにヒビキは手を引かれて向かった。
ブランコなんて懐かしい。そう思って腰掛けると小さいブランコは骨盤を押し込むようにしないと座れない。横の細身の子は大丈夫なようで、のんきにブランコを漕ぎ出している。
「あはは、ありがと!」
「ううん、大丈夫?」
「へーき! っつっても、二発くらい殴られたかな」
へらへらと笑う彼女は制服をめくった。腹の辺りに真新しい痣が出来ていて、ヒビキは咄嗟に顔色を変えた。
「だ、だめじゃん。警察行こ、行こ!」
「だめだよ。あいつらみんじふかいにゅーだから。あれね、あたしの母親のカレシ。あーいや、今はダンナなの」
義理の父親である。義理の父親からの暴力に日常的に耐えているのか、水色の子はへらへらとしていた。
「でもあたしも蹴り返すからさ、まあおあいこって事で!」
「でも、」
「駐車場でさ、車の中であたしとセックスしようとして来たんだよ。キモくない?」
あまりの嫌悪感で、ヒビキは何回も頷いていた。
「あーあたしもカレシ作ろうかなあ。あのクソやろーから守ってくれるんなら、なんでもいいや」
「…うちも。お父さん死んでまだ二年なのにさ。男家に連れて来るの…」
「はあー最低だね。家じゃなくて外でやって欲しいわ」
水色の子は快活なようで、口の端々に毒はあるがヒビキの代弁者だった。腹に溜まっていた嫌悪感や絶望が、この友達の言葉で昇華されて、いつの間にかヒビキは泣いていた。
「なんで泣くし?」
ほらとハンカチを渡された。母親が持たせてくるんだよと言うので、水色の子の生活環境は決して悪くないように見えるのに、どうして母親はそんな男を選んだのだろう。ヒビキは自分の事に上乗せして、余計に泣いてしまった。
「またさ、会える? あたしヒビキ」
「いいよん」
そう言って二人でつるむようになってから、同じように家に居場所がない”友達”は簡単に出来た。ヒビキはあまり誰ともかかわらないようにしていたが、水色の子は結構人懐っこく、次々に友達をヒビキに紹介していき、ある日の友達は手首いっぱいにリストカット跡がある子だった。その子の彼氏というのが、当時13~15歳のヒビキ達より少し年上のグループで、夜の街でよくつるむのだという。そこの集会はコンビニの前で行うらしく、そこは安全だよと彼女は可愛らしい顔で言った。ヒビキ達にとって安全とは甘美な物だった。家に安全は無い。ヒビキは身の安全が保障されていても、水色の子や他の友達は保証されていなかった。だからといって、母親がいるところに友達を連れて帰るのは嫌だった。まだ母親の顔があまり見られなかったのだ。だから彼女らは安全に飛びついて、それぞれの家から少し離れたところのコンビニでたむろするようになった。
そこにいたのは、見た目はガラの悪いグループだった。中心的人物は、無数のピアスにタトゥーが強さの象徴のように目立っていた。だが半家出少女のようなヒビキ達には優しかった。だから彼の一声で、彼女らに手を出そうとする不埒者はいなかった。それがかえって居心地がいいのか、それなりに若い子供達もいた。それでも彼らは、昼間の抑圧を晴らすかのように大声で騒ぎ、はしゃぎ、酒を飲んだ。酒が飲めないヒビキ達はコンビニのレジからの死角になる場所でうずくまっていた。水色の子はいつの間にか煙草を覚えていた。ヒビキには勧めて来なかった。ここにいるのは、自分の傷の舐め方が分からない者ばかりだった。その煙草臭さをかぎながら、手を握って喧噪を眺めては、「うるさいね」「うんうるさい」と笑い合う。その瞬間が何よりも癒しであった。
ヒビキの人生に新たな転機が訪れたのは、コンビニでたむろするようになってから半年後。連れ子がいる父親が出来たのだ。ヒビキに決定権も拒否権も無かった。父親は自衛官で、学生時代から連れ添った妻は若くして病死したという。その連れ子はヒビキと8歳離れて、細くて色素の薄い子だった。
「ご挨拶して」
母親が久しぶりに強い口調で言うので、ヒビキは顔をしかめたが母親が珍しく頭を無理矢理下げさせた。なんて古風な。そして亭主関白なんてこの令和の時代に!? そう思ったが母親のけじめだったらしくヒビキが顔を上げると、父親と息子も頭を深々と下げていた。通過儀礼だったようだ。ヒビキは面食らう。それからの生活は一変した。父親はそこまで家にいなかったが、ヒビキに説教もしたし夜の街にいたら探しに来て、あろうことか連れ戻された。心配してくれる人がいるのだと、友達からは少々の距離を置かれた。だって彼らは大人を信じられない集まりだったから、信じるに値する大人の行動には敏感で、ヒビキを次第に遠ざけようと努めてきた。世界が違うのだと彼らは言っているようだった。ヒビキはまだその友達と一緒に居たかったのに、最後には水色の子も実の父に引き取られるために引っ越すと言い出した。リストカットの子がほほえむ。
「大丈夫だよ。ヒビキちゃん達を恨んだりしないし」
「でも、友達といたいよ…!」
「あのね。ここにいるのは嫌いな人たちなんだよ、大人が。それと、大人に愛されない自分もね。みんなそう。だから愛されてる子は、ここに来たらダメなの。だからダメなんだよ」
そう諭されてしまい、隣にいた水色の子が素直に引いたのが分かった。いつの間にか煙草を辞めている。水色の子はいつものような笑顔で、なんでもないように言った。
「でも、あーしみんなとのこと忘れない。すっげぇ楽しかった」
「あたしも、楽しかったし嬉しかった。だからほんと、感謝してる」
ヒビキも続けた。その会話を新しい父親は止めようともしなかったし、遠くで待っていてくれた。水色の子の父親は反対方向にいたが、同様だったらしい。ばいばいと手を振って別れた。連絡先は交換してあるが、水色の子だけだ。リストカットの子も、中心人物も教えてくれなかった。彼らはヒビキが、戻れる子だと知っていたのかもしれない。それからの消息はヒビキには掴めないままだ。
そこからヒビキの生活には新しい父親が中心になった。口癖のように彼は言った。他人のせいを選ぶな。自分の責任と自分の足で立ちなさい。ヒビキには特に口酸っぱく言ったが、母親にも同様に言っていた。連れ子の弟はそれはそれは愛らしい子で、お姉ちゃんお姉ちゃんと懐いて付いて来た。ヒビキも次第に溺愛していたが、実の母のように病気に冒されてしまったのが五年後の事である。その時ヒビキは18歳だ。防衛大に入学することを決めた年だった。TSの開発が進み、実用化が決まった年でもあった。日本のニュースはそれで持ち切りだ。
「お姉ちゃん、あのロボットに乗るの?」
「んー? それはどうかなあ」
自衛官になる。それは前からのヒビキの夢でもあったし、復讐でもあった。口酸っぱくて小うるさい父親よりも出世して、見返す。それだけがヒビキを突き動かしていた。父親と出会った頃の思春期の嫌悪と破壊衝動は、圧倒的で絶対的な男との力の差で容易にねじ伏せられてしまった。それからなりを潜めて弟を可愛がるうちに、母とも和解しヒビキは全てがうまく回っていったのだ。だが破壊衝動が消え失せたりはしなかったし、父親がうざいと言う気持ち、また他人の父親の悪例ばかりを見てしまったせいで、自然と男を蔑むような気持ちは消えない。とはいえ、弟は別である。次第に、異性に対する悪感情を弟は吸い上げてくれていた。
「ぼくさ、お姉ちゃんにあのロボット乗ってもらいたい!」
病気に冒されて真白の顔の弟は、目をきらきらさせてヒビキに言う。分かった分かったとヒビキは笑う。テレビの向こうでは、TSについてまるで映画やドラマの世界だと賞賛の声と、金がかかりすぎているという批判の声が半々だ。傍目にはヒビキには更正したのだろう。だが腹の中はまだ渦巻いているものがあって、まともだと言われる度にくすぐったい。
「お姉ちゃんなら出来るよ」
「そうかなー。じゃあ、いっちょ頑張るね!」
「うん! そしたら、ここの病院の窓に迎えに来てよ!」
「そ、それはどうかなあ」
ヒビキは苦笑いした。そこまで私用は出来ないだろうが、もし出世したら出来るかなあとうすぼんやり思う。弟の病が治ったのは翌年の事で、そこでヒビキには懸念材料が何も無くなった。あるといえば、彼女はすぐに寮生活だったから、まだ街にいるであろう家出少女を気に掛けても業務に没頭するしかなかった事だろう。あのグループは元気だろうか。そう考えるとすぐに父親が頭の中に出て来て、説教じみたことを言ってくる。
「他人のせいを選ぶな。自分の責任と自分の足で立ちなさい」
「…うるさいな、分かってるよ」
一人ごちる。それでも努力の末に掴んだTS部隊への編入は、家族は泣いて喜んでくれたし、意外な事に父親が泣いていた。男社会でよくやった、よく頑張ったと泣いていた。なんでお父さんが泣くのよ、とヒビキも泣いていた。そこでようやく家族らしくなった気がして、嬉しかったなあ。
「リオウ三尉、目を閉じるな!」
サタケの叱責が飛んで来て、はっとヒビキは目を開ける。スペルビアとの交戦中である。サタケは片手を、ヒビキは足を切られたようで動けない為にサタケが前に出て片手で庇うように立ち向かっている。そうだ目を閉じてはいけない。絶望的な状況においても、自分の責任と自分の足で立たなければならない。イサミはまだ来ない。スーパーヒーローが来るはずだと願ってはいけないのだ。まだミサイルも撃てる、まだ戦う術はある。諦めてはならない。父の言葉が急に沁み通った気がした。イサミはその後来てくれた。だが自衛官である以上、スーパーヒーローが登場するとは限らない。だが現にヒーローは登場して、なんだか急にわき役になったような気持ちではある。それでも、自分に出来る事がある筈だと願って、その後のヒビキの活躍は知る通りである。そうして全てが終わった後、ヒロがヒビキを呼び止めた。
「ちょっと時間良いかな」
「いいけど。どうしたの」
「いやあ、ちょっと…」
歯切れの悪い返事で誤魔化されたが、人気のない廊下にヒビキはヒロと二人きりになる。真っすぐな深い緑の瞳が、ヒビキの瞳を覗き込んできた。
「迷惑かもしれないが伝えたかったんだ。ヒビキ、君が好きだよ」
「えっ」
寝耳に水というところだ。いや、ヒロとはブレイブナイツで同じ部隊を経験し、イサミとスミスに近しい者同士で愚痴を言い合ったこともある。戦場で背中を預けたという大きな共通点もあった。
「ずっといいなと思ってたんだけど…この戦いで、諦めない姿勢も、前向きなところも。なんだかどんどん好きになった」
「…ふぇ」
「ただどうこうとかじゃなくて、君には。ちゃんと言いたかった。時間、ありがとう。それじゃ」
いつの間にか、ヒビキの胸の前で自身を抱きしめるように手が交差していた。唐突な異性からの告白は経験がないわけじゃない。でもやりたい事が定まったヒビキにはノイズであったり、少々過去の経験が尾を引いていたりで、そこまで心が動かなかった。弟のようなところを見せるイサミは、異性というより友人だった。だからここまで胸が高鳴ったことは殆ど無い。あれ、もしかしてドキドキしてる? 自分を茶化すような言葉が思い浮かんで、ヒロが去っていく背を見送って。…見送って? 他人のせいを選ぶな。自分の責任と自分の足で立ちなさい。目を閉じるな、前を見ろ。これが少女漫画の主人公なら、ドラマティックにここでヒロを見送って母国に帰るのが一番のトラジックな立ち振る舞い。日本で自衛官をやり続けて、TSに乗り続けて父の鼻をあかす。他人のせいを選ぶな。自分の責任と自分の足で立ちなさい。それじゃヒビキ・リオウ。貴方が取りたい自分の選択は?
自分の足で立つのなら、自分の行動に責任を伴うのなら、きっと愚行である。でもヒビキは走った。ヒロの背にしがみつくようにして、爪が彼のシャツに引っかかったかもしれない。引き止めるのに必死だった。彼女は大した距離でもないのに、大きな息を切らす。ヒロが驚いて振り返って来た。
「ヒビキ、どうした?」
「どうしたって、…もー! 考えさせる時間を与えないでよ…」
「考える時間は必要だろう」
「いらないの。いらないの、こういう時には!」
「お、怒ってる?」
「ちょっとだけね…ずるいよ、ヒロ。そういう別れ方、カッコよすぎじゃない…?」
なんだかドラマのワンシーンのようだった。傍観者として眺めていると、陳腐なシーンだなと思う。でも実際に自分がそうされた時、胸の高鳴りが破裂しそうなほどだった。恥ずかしいとか考える前に、嬉しさで。
「俺の考える精いっぱいだったよ。でもさ、ヒビキ」
「言わなくていい。言わなくていいけど…ヒロが考えるほど、綺麗な女の子じゃないよ」
「俺だって君が考えるほどカッコつけたがりじゃないさ」
ほら、とヒロの手が背中に向かって差し出される。その手はバトンを受け取るような格好で、時折震えていた。
「ちょっと情けない」
そう言って笑うヒロは、いつも控えめだが優しい所がある。そんな彼の良さは、この濃密な時間で幾らでも知る機会があった。
「……わたしも、ヒロの事好きかもしんない」
「What!? 玉砕覚悟だったんだぜ?」
「こんな風に嬉しかったの、初めてだから。実は、ちょっとよく…分かんない」
ヒビキはそう言って、ヒロの背に隠れるようにしがみついたままだ。その手の触れる所から汗が噴き出て、次第に濡れていく。不快じゃないのかとヒロは思うが、ヒビキは不快じゃなかった。ヒロは何かを言おうとしてやめ、もう一度勇気を奮い立たせて声を出す。ほんの少し声が震えていた。噛み締めるように、彼は言う。
「お姫様を、抱きしめても?」
「いいよ」
ヒビキがヒロの背から離れると、向き合った。やばいこれ思ったより恥ずかしい、そう考える前にヒビキはヒロにすっぽりと抱きすくめられた。こんなの前のお父さん以来かもしれない。今のお父さんは、もしかしたら、やらないまま会えなくなっていくのかな。急な寂しさがヒビキの手を、ヒロの背に回させた。新たな新しい異性との触れ合いに、思春期の自分が少しだけ戻ってきたようでなんだか気恥ずかしい。でも、なんだか嬉しいのだった。