「ノア、のーあ」
 膝に乗せた子供に、プラムマンはちゅっちゅっちゅと口で音を鳴らし、あやしていた。指で頬をつつくように動かし、たまに目の前でひらひらと動かしてみるが盲目であることを思い出してすぐにほっぺをつつく。ノアと呼ばれているのは、彼と血の繋がった子供ではなく日本で拾われた孤児である。戦災孤児が溢れている日本において、その全てに救済の手が差し伸べられている訳では無い。サタケが訳あって拾った子供である。盲目の子供は栄養失調であまりにも体が小さかった。それだけでなく、五感においてかなり鈍く、泣き声をほとんど出さない。その時の声も、なんだか調子っぱずれで、きええええ!と喚くように言うのだ。その声に最初は驚いたが、次第に個性だと思うようになった。あまり可愛げのある声ではないが、個性であれば仕方がない。それ以外は極めて静かであり、子供であるということを忘れるほどである。それも栄養失調のせいだろうと思い、世話をし続けるだけだ。見守りカメラに、ベッドでノアをあやすプラムマンの姿は写っている。その映像は録画され、スマートフォンに記録されているのだが、一佐としてスマートフォンを使えない場面は多々ある。だから業務が終わればスマートフォンに溜まっている録画を見るのが、サタケの楽しみでもあった。今日の録画は、耳が遠いはずのノアがプラムマンのあやす声に笑顔を見せたところが写っていた。きゃっきゃっと子供らしい声を、きーーー!と奇声に似た声だが、プラムマンの指を掴んで喜んでいる。その目は開かないが、口は弧を描き、少々だけの歯が覗いていた。映像の中のプラムマンは安心したような笑顔を見せて、どこか誇らしげに片手でスマホを抱えているらしい。映像はところどころブレている。ふふ、とサタケは思わず笑ってしまった。子供の笑顔には癒しの力がある。それにはしゃぐ恋人の顔も、緊張で張り詰めた心に沁み込むのは、わずかでも進んだ日常だ。よしとサタケはスマートフォンにチャットとメールの両方を送ると、自分の寝支度を整えるのだった。
 「ノアは笑うようになった」
 「しかし、耳が聞こえないのにどうして」
 「聞こえなくても、肌に感じるかもしれないだろう? だから話しかけるのを止めなかったんだ。それに、音を知らないだけかもしれない。指でつついて声を出せば、もしかしたらと思ってね」
 「はあ、君はそう言う事もこなすんだな…」
 「暇な老人のベビーシッターだからな」
 プラムマンはサタケのコートにブラシを掛ける。その気の利く行動を受け入れながら、もう風呂も全て準備がある気楽さを享受することにした。埃を落とし、食事をしながらプラムマンは言う。食事はシッターの女性に教えられたようで、決められた味を守った煮物などが並んでいる。全てプラムマンが用意してくれたものだ。アメリカ式の食事でいいんだよ、と伝えたこともあるが日本式の食事の豊かさを覚えたら、なかなかそちらには切り替わらないという。とはいえ、プラムマンは箸は使わずフォークとナイフとスプーンだけれど。ノアと同じだなとからかうと、少々むっとした顔をしたがすぐにノアにかかりきりになったので、その晩サタケはプラムマンの袖を引いたものだ。
 「子供がいるんだから、声を押さえる覚悟は出来ているんだろうな?」
 不満な時に、サタケは上唇を無意識に尖らせる癖がある。目を伏せて子供のように不満げな顔をする。プラムマンは思わず笑ってしまった。なので、この我儘は聞いてやらねばならない。サタケの頭を撫でてやると、そのまま頬に顎に指を落として、顎を掴むとあとは顔が近付くのだ。
 ノアがサタケのいる時にも、きいきい笑うようになったのは二週間後の事だった。随分とプラムマンには慣れたのか、見守りカメラでは足音が近付くだけでノアは手足を動かすのが分かる。ベッドを覗き込むと、肌に気配を感じるのかきうきうと声を出した。医者には耳は聞こえていないのだが肌の振動で判断しているのだろと言われた。この世に生まれた以上、存在を伝える術はあるらしい。よく見つけられましたねと褒められ、プラムマンに同時通訳するとまんざらでもない顔をした。
 「君が親みたいだな」
 「親のつもりだが? 今はな」
 「生まれた時から、ノアの親だったみたいだ。私が親なのに」
 「仕事がある以上、貴方にそれ以上の負担は強いられないでしょう。それはノアも分かっているさ」
 「どうかなー」
 むすっとしたサタケに、ノアの顔を触ってやれとサタケの手を取る。手触りで分かるとプラムマンは言うが、サタケはまだ半信半疑だった。ノアのやわらかい頬に触れてみる。二歳というが、目は開かないし耳も遠く、髪の毛も栄養失調で生えそろってはいない。小児科の待合室で出会う、走ったり立ったりする子供を見ながらそのようにはなれないのかと思う事もある。だが肌は子供のぷにぷにとした天使のようなやわらかさで、指が沈み込むと、ううとノアの頭が動いた。サタケを探すように周囲を見渡そうとする。普通の子供のように首をぐるぐる回すことは無いが、ゆっくりと確実にサタケの方を見やっている。うう、と虚空をノアの指が掴もうと動く。感覚を計ろうとしてもがいている中で、だんだんとサタケの指に近付いていき、ついにはサタケの指を掴んだ。
 「先生!」
 慌てて小児科医に告げようとして、待合室を忙しなく歩いていた看護師が驚いた顔をしたのち、ノアの行動に気付いてすぐにっこりと笑ってくれた。
 ノアが来てから一か月ほど経った。プラムマンも手伝ってくれたので、生活のリズムは随分と掴めるようになった。サタケは心残りが一つあったので、ノアをシッターに任せたのちにプラムマンを連れて出掛ける事にした。あの日にノアと初めて出会った場所である。プラムマンにもその話をしておいたので、ビル群の間に座り込む子供にはすぐにプラムマンが屈んで近付いた。また体操座りで、長く伸びた前髪から待ちゆく人々を睨むようにしている。プラムマンに気付いた子供は、怪訝そうな顔で睨みつける。まだ日本語は勉強中だ。片言だが、プラムマンは子供に話しかけた。
 「ノアのおにいちゃんは、君かな」
 「だれ」
 疑問を口にしたあとに、プラムマンの背後でサタケが顔を出したので、子供はますます怪訝な顔をする。
 「どっかにやったの」
 「違う。今日はノアはシッターと留守番だ」
 「シッター?」
 「こどものめんどうをみるひとさ」
 片言だがゆっくりとした日本語に、子供は納得しきれないようだがサタケがいるからか、敵意をむき出しにはしない。
 「なんだよ、なんの用?」
 「むかえにきた」
 「むかえ?」
 プラムマンの言葉をおうむ返しにして、子供は警戒して身を縮める。サタケがプラムマンの横に並んだ。同じように屈んで子供を見やる。
 「君も一緒に行こう。私の家に行くんだ」
 「なんで?」
 「たすけたいからさ」
 子供はプラムマンとサタケの善意を胡散臭そうに見つめる。子供はあまり善意に慣れていないようである。このままではビルの間に逃げ込んでしまいそうだが、そこまでの力が残っていないのか、ガリガリの足が子供の力の無さを視覚的に伝えて来る。今保護しなければまずいだろう。サタケは危機感を持って穏やかにだが、なるべく焦らぬように伝える。
 「ノアと一緒に暮らせるんだ。君も安心だろう?」
 「ノアと?」
 どうやら子供にとってノアはそれほど大事な存在らしい。心が動いたのが見えて、プラムマンは手を差し出すのに留めた。その手を、子供がいつ掴んでもいいように力を込めずに待っている。子供はプラムマンには警戒の色を見せているが、どうやらサタケの言う通りの生活が魅力的なのか、口の端からこぼれているのが木の屑なのか、虫の足なのか、極限状態に見えた。だから掴むしかない。出会った早々のプラムマンの手を掴むのは怖がっているのか、それを隠した強がりのように勢い良く掴むと、プラムマンも手を握り返した。枯れ木のような軽さがある。そのまま腕に子供を抱き上げると、プラムマンの肩を素直に掴んでくる。サタケがもう一度訪ねた。
 「名前、もう一度聞いても良いか」
 「…仰。あおぐだよ」
 「仰か、いい名前だな」
 プラムマンが思わず英語で口にすると、仰は怪訝そうな顔をした。英語が耳慣れないのかそわそわとし出したのを、プラムマンは強要もせずに支えるようにかかえている。その寛容さが安心したのか、すとんと子供が身を任せたのにプラムマンはサタケに目線を寄越す。どうやら誇らしげなようで、はいはいとサタケはその目線に少し笑った。
 仰は想像以上に汚れていたし、栄養も得ていなかった。生命力が強い方なんでしょうと医者は言った。孤児が二人目だと聞いたが、初老の医師はそうですかとだけ言う。慣れているのか心を殺しているのかは分からないが、仰は栄養失調の他に目立つ外傷も無く、病気の傾向はみられなかった。ただ虫下しだけは必要だった。何を食べて来たかは言わなかったので、蟯虫がいる可能性は捨てきれずだ。それ以外に困ったのは、風呂場が真っ黒になったくらいだろうか。排水溝を何度も掃除し、ようやく肌が見えるようになった顔を見て、少しサタケは驚いた。前髪は隠れるほど伸びていたのだが、その瞳が青かったのである。肌の色は黄色人種そのものだし、髪も真っ黒で日本人の特徴を得ている。だが、瞳が空の色の様に淡い水色で、まるで異国人のようだった。だが人種が多種いる国の育ちゆえか、プラムマンは殆ど気にせずに仰の髪を切ってやり、乾かした。
 「仰、どんな髪型が良い?」
 「なんていってるの」
 「どんな髪型が良いかって」
 同時通訳が必要なので、サタケは必ずプラムマンの横にいた。仰はなんでもいいというので、短くしてやるが刈り上げることはしなかった。仰は少々目つきが悪い傾向がある。何物も信じていないような瞳をする。その目つきを隠す方が、人間社会においてはまだ必要であろうかと思ったのだ。とにかく目に付いたパジャマは、五人戦隊の柄だった。それを着た仰の軽い体を抱き上げ、プラムマンはリビングに連れて行った。ここはサタケの家だが、もう勝手も知り尽くした自分の家のように振舞う。もうノアの食事は終わっているが、仰に見せに行ったらしい。感動の再会となるかと思ったが、サタケが部屋に入るとノアを前にして、仰は静かに見下ろすだけだった。ベビーベッドを覗く為にプラムマンが抱えている以外は、仰はきわめて静かに覗いている。
 「仰、ノアに何か言わないのか」
 「何か言わないのかってさ」
 サタケが通訳する。プラムマンは当たり前のように英語で話しかけるが、段々と仰も勝手が分かって来たのかあまり何も言わない。ただノアを見つめている。
 「よかった」
 それだけである。
 四人の生活は、それなりに大変だった。ノアが手が掛からない分、仰は手が存分にかかった。まず食事が足りないとすぐに言い出し、冷蔵庫を漁って生野菜でも平気でかじった。ウサギよりも質が悪いのは、食べられる部分しかかじらないという。ニホンザルが似たような感じだなあと思ったが、少々生々しい喩なので口には出さないでおいた。シッターと二人がかりで冷蔵庫に向かわないように押さえたら、虐待を疑われるほどに叫び倒した事がある。通報があったと一度警察が来てしまい、シッターが慌てて弁解して、その場はなんとか収まった。仰は少々巧妙な手口で、人の呼び方を心得ているようだった。かなりのひねくれ者だよとプラムマンはサタケに言った。サタケは謝罪したが、この位可愛いものだとプラムマンは特に気にしていないようだった。軍人の頃にもう少し厄介な人間はいくらでもいた、というのがプラムマンの言葉だった。そのせいか、打ち解けるのは早かった。仰は次第に力では決して勝てないと分かり、叫んでも動じないプラムマンとの上下関係のようなものが出来たという。それでもプラムマンからの加害は絶対に起きないことで信用関係も勝ち取ったのか、でも二週間はかかった。仰がプラムマンに抱えられて出迎えて来た時は、サタケは驚いた。サタケはそもそも信用した相手であるからか、最初から距離は近かったが、それでも大人との関係を築いたのはプラムマンの功績だ。しかしのその腕に引っかき傷も噛み傷もあったのに気付いたのは、サタケが彼に久しぶりに抱かれた時だった。
 「それ」
 「やんちゃだよ。思ったよりも」
 「すまない、君にそんな」
 「いや、今は落ち着いた。あの子は変わった子じゃない。ただ食事も愛情も、何もかも与えられなかっただけだ。なんとなく、分かるよ」
 「…君は本当に、ずっと俺を喜ばせるなあ。君が離れた時、俺は生きていけないかも」
 「生きていけないなら、一緒にいればいいさ」
 「ほらそうやって」
 ずるいなあとサタケはプラムマンにすり寄る。体温も優しさも包容力も、あまくつつんでくれるのに浸りながら、サタケは目を閉じた。
 ノアの検診の日だった。仰は人前で多少我儘を言って大声で叫ぶものの、それが癇癪のようにはならなくなった。医者には癇癪であるのならと抑え方を指導されたものの、全ては根気だと思われた。だがノアの事になると仰は静かになる。だから仰を連れて行き、待合室でプラムマンと仰が待っていると、ノアとサタケが診察室に入った。いつもの検診である。何ら変わりはない。だからサタケがノアを抱えて、待合室のソファーに腰掛けた時だ。
 「けふ」
 ノアが聞いたことのない声を出して、呼吸が大きくなる。息を吸ったのが分かったが、そのまま何故か一向に吐かなかった。そのうちにノアの顔が急に青ざめていて、サタケはプラムマンの袖を引く。
 「トム。ノアが」
 「すみません!」
 慌てて受付に話すと奥から看護師が出て来る。そのただならない様子に看護師の顔色が変わると、先生を呼んでと誰かが叫んだ。ベテランであろう看護師にノアを託すと、急いで診察室の奥にある処置室に向かう。酸素吸入! 血中酸素濃度計って! 先生! ばたばたとした足音が聞こえる。プラムマンと仰も心配そうに席を立ち、処置室を覗こうと首を伸ばしていた。何か機械のぴーこん、ぴーこんという音が聞こえる。何か緊急事態なのかがよく分かる。親御さん、親御さんと呼び出されて診察室前に座り込む。まだ機械音が聞こえる。これはドラマとかで聞いたことがある。心拍数ではないか? 心音や血圧ではないか? 頭の中がぐるぐると回る。サタケが先ほど抱えた時、一体何が起きたのか。ただ何もしていない。いつものように抱え、いつものように診察をして、食事もいつものようにして、今更喉に詰まるような物は何もない。なんで。なんでなんでなんで。
 「リュウジ」
 プラムマンの手が、いつの間にか尖ったサタケの肩にかかる。落ち着けと言わんばかりだ。仰も不安げな顔をしているが、いまいち危機感がないようだ。
 「落ち着け。先生に任そう」
 ぴーこん、ぴーこん、ぴーこん、ぴーこん、ぴーこん。耳に滑り落ちる機械音がやかましい。いつまで経っても鳴りやまない。………。
 「申し訳ございません…!」
 初老の医者が深々と頭を下げた時、プラムマンは腰掛けたまま顔を両手で覆った。額に指が食い込み、爪痕が立つ。ノアの死を告げられたのだ。原因は不明である。ただ突然気道が詰まり、突然意識を失い、そのまま眠るように亡くなった。だがノアに喋る言葉が無いので、苦しんだかは分からないじゃないかとサタケは咄嗟に思う。だがそれを口にするのは止めておいた。医者を責めるのはお門違いである。憎むのなら連れていった神を恨むべきだ。天使を勝手に連れて行った、神を。
 「ノアちゃんは苦しまずに…」
 それはノアに聞かなければ分からない。だがぼたぼたと涙をこぼすプラムマンに、仰が近付くと強く強く抱き締めた。仰は震えている。泣かなかった。サタケも何故か涙がこぼれなくて、ただ期待をして立ち上がったソファに、愕然と共に座り込むのだった。
 
 「それじゃあ、また休みが取れたら来てくれればいいから」
 プラムマンがそう言って仰の手を引く。仰はサタケを見上げる。その顔はふっくらとして、背には真新しい子供用リュックがある。愛されている子供のような顔をしていた。ここは空港である。サタケはプラムマンと仰を見送りに来ていた。これから、二人はプラムマンの家に向かう為に飛行機に乗るのだ。あれから仰の親族探しは難航し、ノアの行方もなかなか見つけられなかった。葬式をきわめて簡潔に済ませ、ノアの骨は仰のペンダントに入っている。本当はダイヤモンドとして作ってあげたかったが、どうやら軽すぎて骨や髪が足りないし、下手に親族に引き渡すのに形を変えない方がいいだろうとなった。すべては親族を見つけるまでの処置である。サタケには業務があるし、かえってプラムマンが慣れた家で面倒を見る方がサタケの手間も減るだろうということで合意したのだ。だが、この日が来るまでに決意したことがサタケにはあった。
 「トーマス。ちょっと言いたいことがある」
 「どうした?」
 「私も、自衛官を辞めるよ」
 プラムマンは目を細めた。一過性の物ならば止めるつもりだ。誇りも国防も人生も、すべてがサタケの人生において必要だったはずだ。
 「実は言うと、考えていた。もう少し、この世界では。君と一緒に居たくなった」
 そこまで実直な告白を受けて、一過性だと片付けるのには心が浮かれてしまった。引き止める言葉が浮かばなかったプラムマンは、負けだなと自覚する。
 「その決定は私は覆すことが出来んな。もちろん、よく考えてくれ」
 「ねーまだ?」
 仰が英語で繰り広げられる会話に面倒くさそうに体を揺らす。
 「分かった分かった。それじゃあ、また日本に来るかアメリカで」
 「ああ。仰、いう事を聞いていい子でな」
 「わかった」
 仰の頭を撫でて、サタケは穏やかに笑う。この頭の感触は、きっと国防だけに捧げていた人生では得られなかったものだ。
 「それじゃ」
 名残惜し気にサタケが呟くと、同じ気持ちだとプラムマンも目線を合わせる。そして子供の手を引いてカウンターに向かうのを見送って、サタケは日本に残る事にした。まだ子供たちの親族探しも、自身に与えられた任務もある。この手の感触を忘れないでいたら、もう少しこの世界は変わるかもしれなかった。 
 
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初公開日: 2024年07月30日
最終更新日: 2024年07月30日
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