『不空の加護でワルツを』
 
 大人二人では洗濯物もそう溜まらない。とはいえ汗をかいたり、狩猟で汚れた服もあるので二人分と言っても日によって量はまちまちだ。日本と違ってまとわりつく湿度が無いためからりと肌を滑る風が、谷底から空へ向かって駆け出すぼおっとした音がする。かさかさかさ、と乾いた葉が擦れる。カワダは風につられるように空を仰いだ。青空に白い雲が広がっている。今日は控えめながらにいい天気だ。洗濯物がよく乾きそうである。山頂は鋭いまでに尖り、美しい景色は日本では見られない。はあと息を吸い込む。ああ今日は良い日だなあと思っていると、上空からきいいんという風切り音が聞こえてきた。なかなかの重量である。戦闘機の音だと、カワダには身に染みた音である。南南西より角度100、目の前に下りてくるのはどこかで見たことのある烈華であった。ずしぃぃぃん、と山に沈み込む音がする。一枚岩にへばりついた高山植物がぱらぱらとこぼれ落ちて、かけらと共に崖下に転がっていく。足元にひび割れが来たかもしれないが、ここはすぐに崩れ去る訳では無い。岩の層が何層も重なって、地盤になっているのだ。地盤の心配はともかく、カワダは唐突に目前に現れた烈華に困惑していた。ぽかんとした顔で見ている。
 「見つけました、カワダさん」
 烈華から聞きなれた声が響く。ここはヨーロッパの片田舎だ。日本の自衛官が所有する烈華がここにあるはずはない。そう考えると、この景色にカワダがいる事も、洗濯物を呑気に干そうとしていることも、麓の牧羊犬がわんわんと吠えている事も少々おかしい。全てが捨てられ、全てがやり直されたかのようである。カワダは目を丸くしていたが、すぐに海将補の顔に戻った。
 「サタケか」
 「カワダ元海将、発見しました。…カワダさん。日本へ帰還せよとの通達が」
 「断る。もう辞表はとっくに出した。私は民間人だ」
 「そう仰ると思っていました。ですが」
 「私の辞表は受理されていないのか? そんな筈は無い、手順は完璧で確実に受理されている。他でもない幕僚長によってな」
 「ええ確かに。貴方の辞表は受理されています。たったの二か月で」
 「法律を遵守したらそうなるのさ」
 カワダはフフッと笑う。その笑顔に優秀さはにじみ出ている。引き止めも何もかもを振り切ったのだろう、清々しさえある。その退職後にどのような紆余曲折を経てヨーロッパの片田舎に移動したのか、サタケはTSの中で顔を歪ませる。
 「私が霧中に出撃した際もそうでした。貴方の思索で、私は罰せられずに指揮官のままで」
 「あれはハルとハイデマリーとの連携の結果さ。私だけのアイディアではない」
 「しかし、規律を無視したことへ道理を曲げずに済ませたのは」
 「サタケ、私を買いかぶるな。私だけの功績じゃないんだ」
 あおーん、と牧羊犬の遠吠えが聞こえる。サタケは苦手な大型犬かもしれないと顔を歪ませた。カワダとの交渉は難航しそうだ。そう話しているうちに、サタケはふと目の前の家屋を見やる。烈華のコックピットに窓が映ると、そこに銃口が見えた。思わず身を固くするが、すぐに銃口は下ろされて黒い肌が見えた。あっとサタケが声を上げたのでカワダも異変に気が付いたようだ。
 「ほら、サタケが騒ぐから…起きてしまったじゃないか」
 「起きてって、もう10時ですよ」
 「今はのんびりしてもらってるんだよ」
 「イサオ!」
 「イエッサー! じゃなくて、はあい!」
 家屋の向こうから聞こえてきた声は、サタケにも聞き覚えがあった。ハル・キングの声である。ああ懐かしいなあと思っている暇はサタケには無い。
 「トーマス、クラーケンをお連れしてくれ。キング海将も発見した」
 「こらサタケ。ハロルドも今は民間人だぞ」
 「お二人とも探し出せという指令が、それぞれの国家で出ております。その為にATFの面々に独自指令が出て」
 「なるほど、海自の連中が探さずにわざわざTSを使っている訳だ。ブレイバーンを秘匿した罪を消化するために」
 サタケは口を噤んだ。カワダの言う事に反論が出来ないためだ。カワダは続ける。
 「ブレイバーンの存在が現れてしまったことで、秘匿した事への責任問題が現れたのだろう」
 「それは」
 「ハルと私の責任問題になったのは耳に入っているよ。ハイデマリーまでに問題が追及されなかったのは幸いだが…もう辞めたのだ。好きな色を付けてくれればいい」
 「…しかし」
 「カワダは責任を感じ自殺したとでも、終の棲家を失って償っているとでも、マスコミの好きなように色を付ければいい」
 「カワダさん。そうではなく、私が探し出したのは」
 「頼む、帰ってくれサタケ。洗濯物は、じろじろ見られて干したくないのでね」
 「……分かりました。いったん退きますが、考えておいてください」
 「次は移動する。もう会えることは無いだろう」
 カワダはそれだけ言うと、サタケは烈華に乗ったまま崖下を滑り込み、山を滑るようなルートで戻っていった。はあとカワダは息を吐く。洗濯物をとにかく干してしまおう。せっかくの美しい朝日である、乾かさない手はない。そう思いながら木と金属のバネの付いた洗濯ばさみでタオルや下着を挟んでいく。
 建物に戻ると、そこは山小屋がしゃれた内装をしている。元の持ち主は代々家に金をかけてきたのだろうと思う丁寧な造りである。絨毯が敷かれ、木目が隙間なく埋め込まれた武骨は木の素肌を靴で踏みながら、カワダは洗濯物を入れていたかごを脱衣所に置いた。そこに、もう一度声が聞こえる。
 「イサオ」
 「はあい、今行きます」
 今度は軍人らしい返事ではなく普通の返事に努めて、二階への階段を上がっていた。キングが書斎の窓から山の向こうを睨んでいるようだ。その鋭い眼光は以前ATFで見たものと変わらない。淹れたてのコーヒーが湯気を立てて二つ、一枚板のテーブルに置かれている。二つ? カワダがキングに近付くと、TSを警戒しているであろうキングは鋭い目線のままカワダを見やった。だがすぐに自覚があるのか詫びてくる。
 「すまない。警戒していたが追撃は無さそうだな」
 「いえ。サタケの事です、我々への説得を勝手にしているのでしょう。そんな悠長なことをして、上から睨まれていないといいが…」
 「プラムマンが傍にいる可能性もある。その心配はひとまず我々には不要だろう」
 まずは、とキングがコーヒーを差し出す。温かいカップに礼を言って受け取ると、カワダは不思議そうな顔をした。
 「砂糖は三つにしておいた。君は頭が痛いときは、糖分を欲するようだから」
 「ありがとうございます。でもいつの間に淹れていたんです?」
 「サタケが来た頃には淹れていたんだが…」
 「いただきます」
 温かい液体が口の中を通って食道へ、胃に溜まって腹の上から全身を温めて来る。ほっとカワダは息を吐いた。確かにキングの言う通り、少々頭の痛い状況ではあるのでその気遣いと甘味が、体に沁みとおってやさしい。
 「ハル。次の場所を探しましょうか」
 「そうだな、ここも知られたからには急ごう。次はどこに行くかな」
 キングもコーヒーを飲んだ。カフェオレにしたらしく薄茶の熱そうな液体を平然と飲む。カワダはブラックに砂糖が好みだ。ミルクは要らない。そんな二人の嗜好もお互いよく分かっているようである。キングは書斎に置いていた本に目を落とした。色褪せたガイドブックである。行き先は日本だ。その為かつい口から出たのは、視覚情報に左右されていた。
 「日本はどうだろう」
 「膝元では危ないでしょう。見つかるかもしれませんし」
 「灯台下暗しという事もあるだろう。イサオ、単なる思い付きに聞こえるかもしれないが」
 「ええ、聞こえますよ。ガイドブック、だいぶ古いものですね」
 カワダもその本に目を落とす。どうやらキングが大事にしていたものらしく、この逃避行じみた二人の駆け落ちに同行してきたのだ。この本をいつも目立つ場所に置いている。カワダが拗ねたような声を出すのは、その寵愛を受ける本にはいかなる思い出が込められているのかというやっかみだ。キングはガイドブックの表紙を撫でた。子猫にでもするかのようだ。
 「日本にいる君に会えないかと思って、昔に買った本だよ。夢想するのに使っていた、デートだとか」
 「はあ。……言い訳にするのにはロマンチックすぎる」
 「いけないか? 事実だからな」
 カワダは呆れたような照れたような中間の顔をして、困ったように小さく笑った。その顔を見ながら、ハルは続ける。
 「考えていたんだ。日本なら、風呂がある」
 「風呂」
 カワダが繰り返したのは無意識だったようだ。はっとして口を押えるが、時既に遅くキングの優しい目線を受ける羽目になる。
 「魅力的だろう?」
 「ふ、風呂はなくとも生きられはします」
 「日本人として生まれたんだ。君は入りたいはずだ、今もな」
 「う」
 海外においてはシャワーが多い文化である。足を伸ばせる風呂という想像は、カワダの頭を駆け巡って掻き消そうとするがなかなか消えなかった。入りたいというのが本音で、それを認めるまで少々の時間が掛かったもののカワダはううむと唸る。
 「入りたいです…年を取ると血行が悪くなるので」
 「よろしい。では日本で探そう、ここのように山間で美しく、人気のない場所を」
 「でしたら、家が見つかるまでは宿を取りませんか。湯治といって長期宿泊するやり方がありますし、観光ついでに」
 「いいだろう。金が余ればいいがな」
 「それは貴方の金銭感覚次第ですよ」
 にこにことカワダは笑う。風呂が余程嬉しいのだろうとキングは思った。もっと早めに口に出せばよかったのだ。だがアメリカ合衆国に滞在するのは懸念があり、日本とて同様だ。逃避に疲れたといえばそうかもしれないが、カワダの為にも日本にいてやりたいと願うのは恋心ゆえか。早速別荘地や空き家を検索する為PCにかじりつくカワダを見ながら、キングは空いたカップを二つ片付けに一階のキッチンに向かうのだった。
 全ての原因は自分にあると背負わされる気分はどうだろう。重みなど感じなかったが、心は体から離れてべちゃんと地面に叩きつけられた。そのまま地面にめり込んでどこか知らない所に埋没していくのを、ただ眺めていることしか出来なかった。重みは心が背負ったのだろうか。ブレイバーンの存在を秘匿したものの、全世界を駆け回ったバーンビッグブレイバーンの存在で明るみに出てしまった。まだ大衆にこの事実が浸透するのは時間が掛かるが、既にマスコミは嗅ぎつけている。あれは何だ、我々は何に侵略されたのだ、どうやって我々は勝利した!? その武器とは!? 兵器は!? 隠されている兵器があるのか!? 我々のあずかり知らぬところで! 我々のあずかり知らぬところで!? 我々には知る権利がある! 我々は把握する権利がある! 我々は……! そのような主義主張をフラッシュと共に浴びせられた大統領や首脳に面目も立たず、残務処理に追従した日々の中で、カワダと再会したのは偶然だった。あるいはキングが気が付いていなかったのかもしれない。気が付いたら、カワダが目の前にいた。お久しぶりです、そういつもの穏やかな笑みで立ったまま挨拶を交わし、キングが椅子に座った時だ。カワダとは二言三言言葉を交わしたほどだが、突然彼は立ち上がり、キングの耳元で囁いたのだ。
 「逃げてしまいませんか」
 それからこころが纏った重力を脱ぎ捨てて、キングの体に戻って来るまでは時間が掛からなかった。私と。そう彼は呟いた。キングだけを逃がすのではなく、カワダも共にすると言ったのが決め手だった。一人だけなら逃げていなかったかもしれない。とはいえ処理も全てやった。出来ることはすべての責任を負った。その上での自主退職である、引き止めがあまり無かったのはその為だ。二人は縁もゆかりもない場所で静かに暮らすことを選択していた。キングは狩猟免許を取り、たまに狩猟に興じている。カワダは日がなチェスに費やして、たまにキングを巻き込んで戦法を練っては試している。海に行かなくていいのかとカワダは尋ねたが、今はいいと言うのがキングの言だった。カワダが眼鏡をかけたままキングを呼び寄せる。二人の書斎がそれぞれあるので、キングがそこに顔を出すとカワダはPCの画面を指さした。
 「ハル。この物件はどうでしょう。渡航にまた時間が掛かるでしょうし」
 「そうだな。早めに決めてしまおう。住めば都というしな」
 「貴方がいれば、どこでも都ですよ」
 「それは、嬉しいな」
 キングの手が優しくカワダの頬を撫で、頭を撫でる。子供みたいに、と笑う彼がいればどこだっていい。この逃避行に逃げ場がないのなら、きっとカワダの隣が安息だ。空き家が増えてますからねえと日本の事情を口にしながら、カワダは何軒かの空き家を探している。その真剣さを邪魔してはいけないから、今度はクッキーでも持ってこようかとキングはキッチンに下りるのだった。
 
 
 
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