今後のシッターは不要になると話した時、元看護師のシッターはひどく顔を歪ませた。いつもは子供に接する職業とは思えない程の無表情で、疲弊した顔には化粧の跡がない。職を失うとなったら途端に給金が惜しくて、つい顔に出たというところか。だがいつもロボットか幽霊かのような彼女の人間らしい表情に、サタケは今更ながらちいさな好感を持った。普段からそうだったら良かったのにと思って、つい口から好意的な言葉が口に出る。完全にシッターを頼まなくなる訳ではない、と調子の良い言葉の薄っぺらさを見破ったのか、彼女はどんよりと顔色を曇らせて俯く。だが縋りつくでもなく、ただ一言だけそうですか、と呟く。手にしている茶碗に写る顔は、随分と暗くて柳の下の幽霊像のようである。いつ会ってもそこまで毛の量が多くなく、癖のある黒い髪が額から垂れていて幽霊そのものだ。この傷付いた日本に生きる亡霊である。亡霊でも、生きるのには金が要る。だからサタケの好待遇のシッターで生計を立てていたのだろうか、彼女の背景を何も知らないけれど、恋人が来日して家に引き取った子供の世話をしてくれるからといって、簡単に切っていい相手ではないのかもしれないと後悔が登る。すると横から、優しい声音が彼女に語り掛けた。
「一、二か月は来てくれないだろうか」
それは英語であった。ここはサタケが暮らす日本である。それなのに滑らかなネイティブイングリッシュに話しかけられ、彼女は訝し気な眉で顔を上げた。サタケが咄嗟に通訳する。すると彼女は目を白黒させた。
「なにぶん、子育ては詳しくない。それも目の見えない子供相手なら…だからしばらくは、やり方を教えて欲しい」
「私が教えられるのは、日本語でだけですよ…?」
言語の壁を心配するのは島国の日本人らしい。他国との境がはっきりとしているので日本語以外の言語を必要としないのだ。
「翻訳アプリがあるから、それで頼みたいです。俺もなるべくは、家に帰るようにするので」
「ですが」
彼女にとって給金は惜しいはずだが、毎日英語と接するという日々を天秤に掛けると、少々だけ給金を失う方に傾いているようだ。なので、サタケも頼むことにした。横にいるプラムマンの申し出がシッターへの同情からか、あるいは本当に不安だからか分からないが、確かに準備期間も無しにいきなり盲目の子供の世話ができる訳がない。給金を失えない彼女の意思はぐらついている。今の日本で、再就職は苦労すると聞いた。オフィスに勤めようにも、ビルごと吹っ飛ばされて燃やされて、マンションに住もうにも大穴がぽっかりと空いていて、多くの人が仮設住宅に暮らしている。国からの補助が出るといっても、リモートワークなどの浸透により田舎に越していた人材だけで、失われた首都圏が復活できる訳ではない。まず誰が生きていて、誰が亡くなったのかがすら分からない。それは蒸発なのか、遺体があるのか、このどさくさに紛れて夜逃げしたのか。役所も日々満員御礼で、公務員様々だと皮肉を言われ、それでも対応出来ずに日々残業を強いられている。自衛隊とて、災害派遣の為に駆り出されているが救助するべき人々はほとんどおらず、暴動が起きているのを警察の手が足りなくて駆り出されるくらいか。消防も警察も、病院も役所も、国も、どこも手が足りないのに、路頭に迷った人々は不平不満を口にして余っているちぐはぐさだ。高級住宅街以外は、女性は一人で歩くなと言われる始末である。それも、強盗や空き巣が出ているからどこも安全ではない。首都の混迷の中で、食い扶持を失う彼女はプラムマンの補助に回ると了承してくれた。男性一人に女性が一人、というのも彼女の不安材料であるようだが、見守りカメラの存在で決意を固めたようだ。
「助かります」
プラムマンが穏やかにそう言うのを翻訳し、彼女は安堵をため息として茶碗の中に落とす。だが少しの不安はつきまとっているようだ。その頭の中は、次の雇われ先について思案している事だろう。そのうち彼女が帰って、ようやくプラムマンの顔を見やるとサタケは笑みをこぼした。
「君は優しいな」
「本当に不安なだけさ」
それだけ言うとプラムマンは奥の部屋に引っ込む。サタケも追うと、寝室のベビーベッドに眠る拾い子にちょっかいをかけていた。指に触れ、頬に触れ、あやすように唇を尖らせて音を立てる。良き父親のような姿である。子供は無反応だ。だがそれでも、ここに敵意の無い人がいるぞと伝えるように触れるのを止めない。
「食事も、君がやるかい」
「そうだな。しばらくは私の仕事になるから」
「本当に家族の方には説明したのか? ご両親とかは、なんて」
サタケが問い詰めるように一歩踏み出して、プラムマンの肩をとんと掴む。何度聞いてもはぐらかしてきた質問だ。来日したその日からずっと尋ねているのに、プラムマンははぐらかすように何も答えなかった。だからちゃんと説明を、と口にしたサタケの唇に、向こうが振り返ると同時に口付けになった。子供は静かである。素早く後頭部を掴まれ、肩を押そうとしたのに唇を吸われ、舌がきっちりと侵入を拒んでいた歯を撫でられると、力が抜けて唇が重ね合わさり、舌が絡まり合った。むう、ん、と吐息がこもり口付けをしながら壁に押し付けられる。サタケの背が壁に押し当てられて逃げ場が無くなったところで、舌が上顎や歯の裏を撫でて来る。プラムマンの肩を掴んだ手が、押しのける筈だったのにいつのまにか彼を離さなくなっていた。子供の目が見えていない事が幸いだが、大人二人の足音だとか壁に当たる音だとか、そういったものにも静かだ。不可抗力で、でも恋人との時間を得た喜びで舌を絡めていたら、ひとしきり満足したのかプラムマンの顔が離れる。ベビーベッドからは遠く離れていた。それでも静かな子供に、息を乱しながらサタケはプラムマンを睨む。
「…こんな事で誤魔化されないからな」
「さあて、そろそろ食事の時間だ」
「トーマス」
家とか所有物とか、そういったものは本当に大丈夫なのかと問いたい。確かに米国にはプラムマンの実家がある筈だ。曰くつきのゴーストハウスである。あれは所有者を認めた者以外は排除する。それを手放すように日本に来て良いのかと、サタケはそれだけは気がかりだった。土地があるとかヨットを持っているとか、資産の問題ではない。だがプラムマンは口笛ひとつでどこ吹く風だ。
「可愛いベイビーの食事はどこにあるんだ。教えてくれリュウジ」
「…ノアの食事はこっちだ」
「ノアはきっとお腹を空かせている」
「どうかなあ」
何せ盲目の子供は、何も言ってくれないのである。排泄の時に不愉快なのか少々泣くが、寝入っていたら聞き逃しそうな声しか出さない。もしかしたら耳も悪い可能性もある。ちょうど医者に行きたいと思っていたところだ。プラムマンという人手を借りて、サタケは拾い子を育てようとしている。ひとまず、命の危機を脱するほどまでは。
「キスだけで誤魔化されないからな」
ペーストを上機嫌に解くプラムマンを見ながら、サタケは不服そうに呟いた。だが貪るようなキスをされるのは、彼にとって役得であった。息を止めるかのような甘い誘惑に抗えるようになるには、同居生活に慣れて彼の唇に飽きなければならない。…当分は誤魔化されそうである。サタケは鼻歌を歌うプラムマンをじとりと見ながら、自分も子供の様子を見ようと後を付いて行くのだった。