こんなところまで鏡で入念に見なければ分からないだろう。スミスの脇腹に小さな傷があるのに気が付いたのはイサミだった。趣味がトレーニングのイサミとしてはスミスの肉体を自然と目で追って、その着替え姿を何気なく視界に入れる事がある。もちろん、下心は少々抜きにして。いや抜きとは言い過ぎだろうか、多少はあるとして。スミスに指摘すると、既に手術などで開いた跡のようになっている傷を撫でながら、彼は答える。
 「ああ、コワルスキー中尉にも聞かれたよ。多分、ブレイバーンの時の傷だ」
 「ブレイバーンの?」
 その時イサミの脳裏にふっと蘇ったのは、憤怒を司るイーラの一撃である。脇腹辺りを直撃し、ブレイバーンは血のようなものを流しながら爆発した。その直前に外へ放り投げられたイサミは、負傷したものの爆発に巻き込まれることは無かった。だがその無情な一撃をよく覚えている。イサミは思わずその傷を指で撫でた。指の関節一つ分あるだろうか。手術であれば内視鏡手術のような跡であろう。わずかに色が違えているそこは、スミスの肉体になっていた。人間の組織である。
 「一応検査したんだけど、傷はもう回復した物らしくて内臓に損傷は無いらしい。まあでも詳しく調べてみないと分からないと言ってたけど…。ああ、でも頬にはスペルビアと殴り合った時の傷があるとか言ってたかな」
 「ブレイバーンの時の傷」
 イサミはそう繰り返し、しげしげとその傷跡を眺める。だがスミスは少々困ったような笑みを浮かべてイサミを見下ろしていた。イサミはベッドに腰掛けており、スミスは直立している。恐らく着替えを取りに行こうとしたようで、手には真新しいシャツがある。心なしか肌もすっきりとしていた。次のシャワーの番はイサミであるはずだが、スミスを見つめたまま彼は動こうとしない。だから困っていた。
 「あーイサミ。シャワー浴びとかないと」
 「ああ、そうか。ルルが映画見終えるもんな」
 彼らが乗る豪華客船の中にはシアターが常備されている。目新しい映画というよりも名作映画をピックアップしているようだが、ルルにはどれもが目新しいだろう。彼女が映画を楽しんで戻って来る間に、身支度は済ませておきたい。スミスはそう考えている。短い間の逢瀬であっても、その痕跡を残したままルルに会うのは彼女への教育上良くないだろうと考えている。イサミも分かっているが、かけらも残らなかったブレイバーンの痕跡が、まさかスミスの肉体にあるとは思わなかったのでどうしても興味深く、指が離せないでいた。
 「分かった」
 イサミは自身に言い聞かせるようにそう呟くと、シャワー室に向かう。スミスはほっと息を吐いた。その間、脱ぎ散らかした服を片付けておかねばならない。空調をきかせるのも忘れずに。てきぱきと着替えと並行して片付け終えると、そこは生活感が幾分か残るいつもの客室になった。ふうと達成感で息を吐く。分厚い窓の向こうには、青空と青い海がどこまでも広がっている。
 この旅が実り多い物になるようにと海の神が祝福するかのような青である。どうせだからこの時間帯からビールを飲みたい衝動に駆られ、備え付けの冷蔵庫にあっただろうかと覗き込む。だがそこには水はストックされているが、瓶ビールは無かった。あのハワイのバーで飲んだようなコナビールが飲みたい気分だ。オフのイサミと初めて会った場所が思い起こされる。
 「なんだよ物欲しげな顔して」
 「バーでも行かないか?」
 「昼間っから酒か?」
 「だって、こんな機会無いじゃないか。背徳的だろ?」
 「ヒーローは、昼酒なんかやらないんじゃないか」
 痛い所を突きながらもイサミは笑っている。着替えたら軽い運動がてら、船を歩いてもいいと考えている顔だ。だったらバーにだって行っていい。
 「そこはまあ、ヒーローのオフってことで」
 「自由だな。まあいいぞ。ルルの映画、まだ掛かるだろうから」
 何を見ると言ってたかなと、イサミは記憶の底から彼女の言葉を思い出そうとする。邦画だったか洋画だったかも曖昧だ。先程世界を共に救った男の荒い息と熱のこもった瞳と、熱い手しか脳から掬い上げられなかった。かつてロボットだったヒーローは、今はイサミに共犯になれと誘っている男だ。人間のルイス・スミスである。分かったとイサミが折れると、スミスはガッツポーズをして早く早くと手招きした。そこで少々せっかちなのは、ルルにも受け継がれている。簡単な手紙を残そうと思ったが、余韻に浸ることもあるだろう。どんな映画よりも映画らしい物語の主人公にエスコートされ、イサミはバーへ向かうレッドカーペットを歩き始めるのだった。
カット
Latest / 29:00
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知