お出かけがしたいという我儘はいつもの事だった。世界を牛耳るマルハーゲ帝国の絶対的な権威、ツル・ツルリーナ四世の直属であるマルハーゲ四天王であっても、その部下という名誉ある立場であっても、外出への欲求というのは押さえきれぬものである。むしろのその権威の下だからこそ、あるいはその権威を気にしないからこそそういった我儘が出ることもあるのだろうか。四天王が一人OVERが出掛けるのは良い。だが今回の彼の行動原理が、彼の部下であるルビーが発端というのはいささか不安な部分がある。彼女の子供らしい見た目通りの我儘を、OVERが聞いたというのも珍しいが、よりにもよっておちょぼ口君にも付いてこいというのだから不安さは増していた。ここまでの語りの中で、不安に思っているのはどうやらおちょぼ口君だけであり、彼はその外出を止めようとしていた。
「忍が表に出ちゃダメですって…」
「ちったぁいいだろ」
OVERは悠然と答える。彼の行動は確かな自信の裏打ちがある。とはいえマルハーゲ四天王が花見の名所に出掛けるのは、いささか暢気が過ぎないだろうかと彼付きの忍びはそう考えているわけだ。城を守るのは三大文明と蹴人とガンプだけ。まあその点は大丈夫であろうとは思っている。白昼堂々OVER城を攻めようという周辺国の噂も聞かない。権威は今のところ安泰だ。だが四天王の一人がのこのこと出掛けるのは、何かあってからでは遅いだろう。しかし、前述の通りOVERには絶対の自信があるため、その自信をいかに減らさずに交渉するのかは骨が折れる作業だろうと思った。それこそ、出掛けた方が早いと思う程に。
「あー分かりました。分かりましたよ」
「やったー! じゃあルビーちゃん用意するです!」
彼女はおちょぼ口君の了承を聞くや否や、自室に飛び込んでいった。おめかしをするのに時間が掛かるのだろう。呼び出されたOVERの天守で、おちょぼ口君は上司と二人きりで居心地の悪い気まずさを感じた。いつもならそんな事は無いのだが、妙に視線が気に掛かる。OVERの機嫌を損ねているのなら、そもそも出掛けるなどという話は出ないだろう。だったらこの視線は何なのか、そう考えあぐねている時に彼がぽつりと口を開いた。
「着替えねえのか」
「え? あーそうか、そうですね! この格好じゃ忍って分かりますもんね」
「私服にして来い」
命じるようにそう言われてしまったので、おちょぼ口君も自室に引っ込むことにした。しかしおちょぼ口君は忍である。24時間365日忍である。私服と言っても殆ど着ないので、押し入れの隅にある程度の物を引っ張り出してきて、急いで着替えた。ルビーよりは先に部屋から出なければならないだろう。一瞬で着替え、いつもの刀は念のため短刀に切り変えてジャケットの内側に忍ばせておく。これで多少は有事の際は安全だ。こげ茶のジャケットに丸首の白いシャツ、ズボンもこげ茶に合わせた落ち着いた色合いのパンツにした。それだけ着替えて急いで天守に戻って来ると、上から下まで一瞥されてOVERはふんとだけ呟くと小さく笑った。
「いいじゃねえか」
「はあ」
この格好に意味はあるのかと問おうとした時、ルビーが戻って来る。淡い色のワンピースに同じ色のリボンが巻かれた麦わら帽子が愛らしい。出来たです!と彼女が言うので、着物姿のOVERは立ち上がった。長い白銀の髪そのままに紺地の絞りだ。普段着に使うような落ち着いた風合いがある。
「出るぞ」
「えーOVER様、それで出るんですか?」
「悪いか」
これ以上言うなとばかりにOVERが目を細めてルビーを見やる。だが彼女は珍しく分かりましたようと呟き、そのまま主張を引っ込めた。おちょぼ口君は首を傾げる。普段のルビーならもう少し突っかかりそうなものだが、今はとにかく二人の後を付いて行こうと思った。連れられて来た場所は、催しをやっているらしく花の香りが漂ってきた。ふと思い返すと藤棚が有名なところだ。花見見物のために観光客が大勢おり、その客目当てに屋台がいくつも出ている。日常的な祭りの場である。そこを長身がこども程の背丈の少女を連れて歩くので、人混みで見失うことはない。そもそもおちょぼ口君が上司を見失うなどのヘマはしないのだが。OVERがしばらく歩くとくるりと振り返った。そこには三歩ほど離れておちょぼ口君がいる。
「後ろを歩くんじゃねえ」
「いや、でも何かあったらいけませんし」
「何もねえだろ。とっとと来い」
忍としては城主につきっきりというのは違和感があるようだ。だが城主は真横に来て一緒に藤棚を鑑賞しろと、そう言うわけである。解せない内容であるが命令は命令だ、渋々と隣を歩くとルビーはOVERの横にぴったりと付いていた。護衛であれば彼女だけで十分だろう。それでもおちょぼ口君を真横に置くという事は、ここは観光地ではなく何か重要な場所なのだろうかと思案を巡らせて緊張の糸を四方八方に広げる。だが、どこまで警戒してもそこはあくまで観光地だった。どこまでも観光地だ。おちょぼ口君は顔に反して細い首を傾げながら、とにかくOVERの横を付いて回る。そのうち緊張の糸がほぐれてきたのか、藤をたまに見上げてみたりした。垂れた藤は可憐な花を付けている。その様を眺めながら、舗装された道を歩く。まるで家族の憩いの時間だなと思った。現に子供連れと何組もすれ違っている。賑やかな声も聞こえて来た。ここを次は攻めるのかなと考えながら、藤を見つめるOVERの目とかち合う。へらりとおちょぼ口君は笑った。
「あ、次の侵略の下見ですか?」
「違ぇよ」
「むーおちょぼ口君、鈍いです!」
「テメーは黙ってろ」
いつものOVERの口調である。威圧的で近寄りがたい雰囲気だ。だが先ほどかち合ったまなざしは、少しだけその色が和らいでいたようであった。じゃあ何だろうとおちょぼ口君は首を傾げたまま、結局藤棚の散策コースを歩き倒し、屋台で食べ物を買い、何事もなく帰路についた。この外出の意味は…?と最後までおちょぼ口君は首を傾げていたが、それでもまあ充実した日であったと言えよう。
その後の事である。周辺にある二国が領土拡大の為に争いを起こすというのがおちょぼ口君の耳に入った。そのまま傍観していてよかったが、OVERに念のため報告した際にはその場所を特定せよと告げられ、それがちょうど深夜辺りにあの藤棚のある場所近辺で抗争するという事までが判明した。深夜の抗争ということは忍のような暗殺部隊ないしはお抱えの部隊が衝突するのだろう。月がいっとう高く上り、あとは陰っていくばかりの時間帯に彼らは街で武器を取り出した。全面戦争でないことが救いだ。とん、とおちょぼ口君が見張りであろう男の頸椎に手刀を食らわせて気絶させる。面倒事だなあと考えながら、OVERがその抗争を止めてこいと言うのだから仕方がない。人数はそこまで多くはない。この調子で全員を気絶させられれば、まあお役は果たせたと言えるだろう。マルハーゲ帝国の名を出して、留まってくれればいいのだがその望み薄な可能性よりも、確実な手段を取った。暗闇の中のカラスアゲハのように、一人、二人と減らしていくうちに段々と夜闇の中での組織の在り方が見えて来る。マルハーゲ帝国の介入は、部隊のトップに伝えるぐらいでいいだろう。じりじりと接触を図り、ようやく目の前に隊長クラスと思われる人間を前にしたとき、襲い掛かられて面倒になって返り討ちにしてしまった。だからにっこりとおちょぼ口君は笑う。
「マルハーゲ四天王が一人、OVER様がこの藤棚を気に入ってるみたいでね。だから止めに入ってる。争いはやめられないだろうか」
「お、俺の一存で出来る訳が無いだろう!」
「そりゃあ、そうか」
まあふんじばってしまえばいいだろう。そうして月から太陽に変わるまでの間に、業務は終了した。そういえばとふと、この藤棚の事を思い出す。慣れない私服に、人混みでの観覧。穏やかな時間の中で珍しく殺気を感じなかった上司の姿を思い出す。そして最低限の護衛。もしかして、あれは特別な用事だったのか? あるいはデートのような。うわあ、とおちょぼ口君は頭の後ろをかいた。今更ながらその目的に気付いてしまった。しまったどういう顔して戻ろう。気を抜くと、体から湯気が出るような気がする。そうして感傷に浸っていると、突然背後に気配を感じて振り返った。潰し損ねた部隊の一員だろう。彼が振りかぶる前に振り返ったので、ぎょっとした顔が見える。おちょぼ口君の刀の方が早かった。
「目障りだ。消えろ」
芝桜の上に血痕が飛び散る。おちょぼ口君は闇でそれを見られなかったが、可憐な花に確かに血潮が飛び散り、まるで模様のようであった。かくして藤棚は守られてめでたし、めでたし。