目に蟹が登って来た。これは夢である。小さな蟹である。手のひらの半分以下のサイズである。だが爪は器用に肌を掴んであっという間に顔に登って来てしまった。蟹が口の横を通り抜けていく。鼻を通り抜けていく。あっという間に目に辿り着いた。蟹は小さな鋏を振り回し、眼球にずぶりと刺す。黒目の隅をちょきちょきと切って、そのうちに黒い眼球が切られてふわりと広がった。黒目は球体であるはずなのに、黒い部分だけがひらりと眼球から離れて、四角のうすっぺらい布になる。ひらり、と黒い布が舞った。黒目が無くなってしまった。蟹が今度は眼球に入り込むようにして来た。この蟹があまりにもちっぽけなのに、どうして人体に入り込むことが出来るのだろう。これは夢だ。夢だからだ。昔どこかで、反社会的勢力が人を殺すのは蟹だと聞いたことがある。飢えた蟹が人を殺すのだ。そのせいでこの夢が出て来たのだろうか。だから目を覚ませばいい。そう思うのに、どうしても蟹を振り払えない。もうこの手も蟹に食われてしまったのだろうか。そう思った時、背中の向こうの虚無感にぞっとした。はっと目を覚ます。
「リュウジ、どうした」
プラムマンの声がして、サタケはふっと意識を取り戻した。すとんと身に戻って来た感覚に、指を握る。力が入る。血の気が戻る。現実だ。目の前のプラムマンを見てサタケは息を吐いた。不眠症を患ったサタケのために、プラムマンは友人として駆り出されている。自然に訪れるはずの眠気を誘うために色々と苦心しているのだが、なかなかどうして。うまくいかないのが実情である。だが不眠治療を施す前から改善し、今では短い時間だけでも唐突に眠りに就けるようになったことだ。それは日中に訪れない。おそらく仕事があるからであろう。こうした夜、業務を終えた時間帯に友人と語らっている時、唐突に眠気はやって来る。
「すまない、少し夢を見たんだ」
「そうか。眠れるようになった証拠だな」
「良くはないよ」
泣き言を漏らすようにサタケは呟く。先程見た夢が良い睡眠につながるとは思えない。こんな夢の連続で疲れが取れる訳がないはずだ。だが夢の内容を漏らすほどに子供ではない。サタケは目元を押さえた。プラムマンはもう寝る準備に入っているようだ。サタケは寝台にまだ横たわっていないので、これから寝台に入るのだがここで眠ってもいいのだろうか。だが、一人で部屋に帰って寝台に横たわるのが恐ろしい気がした。また蟹が出て来たらどうすればいいのか分からない。かといってプラムマンとこの恐怖を分かち合い、払えるとは思わない。だから素直に横たわり、目を閉じることにした。
「何か隠しているのか」
「隠していない」
サタケが目を閉じてから語り掛けてくるのは初めての事だ。目を開こうかと思いながら、見えない向こうでプラムマンが手で制しているのが分かった。だから目を開かないで続ける。なんだか子供の頃に戻ったかのようだ。
「悪い夢でも見たんだろう」
「…よく分かったな」
「分かりやすいさ」
「言ったら笑うと思う」
「笑わん」
「笑うよ。…蟹に襲われる夢だった」
「蟹か。日本人らしいな」
「小さな蟹だよ。それに黒目を奪われて、それで」
「それに身体を食われるのか?」
「…よく分かったな」
察しのいい男である。人生経験の差だと言われればそうだが、蟹に食われる夢を見る人間はそんなに多くはないだろう。ただの寄り添う優しさかもしれない。サタケはまだ目をつむっている。
「それで目を覚ましたのか」
「そうだ」
「だったらもう一度眠ってみろ」
「また出たらどうするんだ。今度は君は起きないだろう」
「寝てみて、出たら出たさ」
サタケはいったん口を噤んだ。
「君はたまにそうやって突き放すことがある」
「寝てみなければ、未来の事は何も分からない。そういうものだろう」
プラムマンは暢気である。自分の事を背負わせるのは嫌だと思ったが、こんなに暢気ならプラムマンに背負ってもらいたいくらいだ。
「君のところに蟹が出るのを願うよ」
「眠れないからって、私に呪いをかける気か?」
「日本ではそれをおまじないと言うんだ」
呪術、まじない、それを簡単にしたのがおまじないという単語だ。元々の禍々しさを薄めて、薄めた子供じみた言葉だ。本来の意味を考えたら口にするのは憚られるであろうが、今はその意味を分かっていながら使いたい気分なのだ。そこでふと、プラムマンの気配が急に目の前に色濃く落ちた。覆い被さった気がした。その証拠に額に何かがぺたりと付いた。唇の感触だろう。分かっていながらサタケは尋ねた。
「…何をしたんだ」
「祝福だ」
胸中に淀む呪いを打ち消すかのように、神の祝福があらんことを願ったのだろう。まるですべてが帳消しになった気分だ。そして子供扱いされた気分である。不服であるが、サタケはそのまま目を開かなかった。眠ることにしたのだ。プラムマンの寝息が聞こえる。今度蟹が登ってきたら、額できっと消失する。そんなバカげた願いを枕に、身を守る剣として抱きながら眠る事にするのだった。