『月の満ちゆく傍らで』
小舟が、ゆっくりと水をかき分けて行く。
橋の下から現れたそれは、荷を運んでいるのか、これから人を運ぶのか。
すっかり小舟が通り過ぎると、水面に影が落ちているのが見える。橋の影がずっと伸びている中、ぽつんと飛び出た影がゆらゆらと揺れている。
ここは日本橋。地名という意味でも、橋の名という意味でも。ただ付け加えるとすると、架かる橋は木造で行き交う人々は皆和装である。
慶安四年の頃であった。西洋の暦にすると1651年となる。天気は快晴。突き抜けるような青空が、橋の手摺にもたれる奇妙な人間を見下ろしていた。
リタはぐったりと橋の手摺にもたれかかって、ひたすら川の先を眺めている。ここにたどり着くまでの事をぼんやりと思い返しては、どうしようもない現状にたどり着き、口から胸の空気全てを吐き出した。
青山莉立は医者である。
まだ若いながら既に多数の実績を積み上げる優秀な、医者である。――ただ、リタがこれほどまでの知識・技術を持つのには、理由があった。
リタは代々、人体の神秘を解き明かす事で根源へ辿り着くことを目的とした魔術師の家系の生まれである。
故に、リタは幼い頃から魔術的・科学的を問わないあらゆる医療知識・技術を叩き込まれ、またリタもそれらを苦にせず学び追い求める才があったため、ここ数代と比べるまでもない程の成長をし当主となった。
こうした経緯がある故に、時折一般とはかけ離れた思考・言動が表に現れることがあるにはあるが……奇妙、という点は今回に限ってそこではなかった。
今のリタは、いつも通りの短い癖毛に丸い眼鏡、医者らしいと言える白衣に黒のTシャツ、スラックスにラフなサンダルという出で立ちだった。屋外にもかかわらず白衣なのは確かに奇妙――なのだが、注目するのはそこでもない。
慶応四年の日本橋である。日ノ本が閉ざされてからずいぶんと経つ。西洋風といえるリタの姿は、全くもってこの江戸の街並みには似合わなかった。
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寝て、起きたら、野っぱらに倒れていたのである。
それがリタの認識だ。
昨夜は遅くまで家の地下で作業をしていて、なんとか切り上げて風呂に入り適当な服を着て、それだけだと肌寒いような気がして特別製の白衣を羽織って、簡易なベッド代わりのソファにサンダルのまま横になって――
鳥の鳴き声で目が覚めた。妙にあちこちが痛いと気づくのと同時に感じた、濃い自然のにおい。
そうして、リタは自分が有り得ないところで寝ていたことに気づいた。脳裏にあらゆる可能性が駆け巡っていく中で、意識の外では機械的に目眩しを自分にかけ自分を害するものはいないか警戒する。
残念ながら、不意にさらわれることは幾度か経験済であった。なお、理由は割とくだらない事だったりする。
それから、それから。
ここが何処なのか知るためあちらこちらをさまよい歩いて、しばらく。
すら違う人々が、みな和装であり洋装の者は1人たりともいない事。
話し方から立ち振る舞いまで、皆が当たり前に時代劇のようであって、決して演技ではない事。
たまたま見つけたチラシ(という言い方ではなかったはず、なんと言ったか……)に『慶応四年』の文字を見つけた事。
――じわりと、大気へ妙に魔力が滲んでいる……ように、感じる事。
これからの情報から、リタは大変、大変に混乱し到底認められないようなことなのだが、それでも何とか呑み込んだ、結果。
ここが、慶応四年頃の日本であるらしいという結果にたどり着くこととなった。
一体、何故。
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リタは、事態をなんとか把握すると自身の装いが全く時代ハズレであることに気づく。通常より厚めに認識阻害をかけ直し、周りからは(例えるならば)『道端の変な形の石』ぐらいにまで存在感をぼやけさせてようやく一息着けそうだった。
それでも、これからどうすればいいのかは、全く思いつきそうになかった。
残念ながらリタの先祖が日本に移り住んだのはもうしばらくあとの時代になる。故に親戚……というより先祖を頼ることは出来ない。先祖が居ないのだから友好関係のある家なんてもちろんない。――実際は、移り住んで来たのは父方の方で、母方は生粋の日本人なのだが、そこらの家系図がきちんと残っていないため詳細は不明である。
とにかく。とりあえず頼ることが出来そうな場所が全然思いつかない。駆け込み寺というものもあるらしいが、それがどこなのか、また自分を受け入れてもらえるのかがかなり怪しいため、寺は最終手段とする。
こんなふうに、リタが橋の手摺にもたれて思考に耽ることしばらく。ぽつんと、手の甲に水滴が落ちる。
それはやがて次々と降ってきて、いつの間にか青空は雲に隠れ雨空となっていた事に、リタは顔を上げてようやく気づく。
視界の端では、慌ただしく駆けていく町人たちと、雨に濡れて色の変わっていく橋が見えていた。
いよいよ運に見放されたように思えて、リタは再び重いため息をついた。
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さすがに橋の真ん中では濡鼠になってしまう為、どこか屋根があって人気のない、そんな都合のいい場所を求め重い足を引き摺るようにしてリタは移動し始める。
ずるずると重たい足を引きずって移動することしばらく。思ったより何処も活気が絶えず、ずぶ濡れになりながら宛もなく彷徨う。たまたま道の角を曲がったところでリタはなにかにつまづいた。
思わずつんのめるが、すんでのところで耐えてすぐ側の壁に手をつき、息を吐き出した。
全身ずぶ濡れでそろそろムカムカしてきていたリタが取り繕うこともなく自分がつまづいた原因を睨みつけ――睨みつけようとしたのだが、そこに転がっていたのが物ではなく生き物……というか人間だったので、リタは睨もうとした目を丸くした。
転がっている人間は、うんうん唸って少しも身動ぎをしない。とりあえず死んでいるわけではないようでリタは胸を撫で下ろす。そしてそのまま声をかけようとして、自分の置かれた状況を思い出す。
――恐らく、この御仁は今自分につまづかれたとは認識出来ていないはず。このまま通り過ぎてもまあ、そのうちまた誰かが通りかかって助けるだろう。
診た所おそらくただのぎっくり腰だろうし、死にはしない。雨も通り雨ですぐ止む。今自分はそれどころじゃあない……。
「………………。そこの方、どうされました」
ほんの少しの良心と勘が、リタの足を引き止めた。果たしてこの勘はリタの運命をどちらに転がすことになるのか。
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ということで拠点が出来た。
何を言っているか分からない?大丈夫、リタ自身もかなり混乱している。
あの後、どうせならと時短して魔女の一撃を食らったらしい腰を治療すると、いたく感動した相手にぜひ礼をと自宅へ通された。
どうやら、この辺りではそこそこ有名な商家の旦那のようだ。
リタはあれよあれよと各部屋に通されるうちに水浸しの服を(恐らく上等であろう)和装へ着せ替えられていた。
声を掛ける直前に認識阻害をやや軽めにしたとはいえ、それでもまだこちらを認識しにくくしているはずだろうに、それでも話続ける相手にリタは曖昧な笑みで返事し続けている。