空を見上げると、冷たい水の粒が男の頬を叩いた。
「くそ、降ってきやがった」悪態をついて家路を急ぐ。
男は雨が嫌いだった。視界は悪くなるし、冷たいし、そのくせ動くと蒸し暑い。
それに天気が悪い日は左目と左肩の傷跡が疼いて、そのせいか戦場の夢を見る。時も場所も遠くなったはずのそこで味わった恐怖と苦痛が男を苛む。それに、ここ数か月は別の悪夢も見るようになった。
数か月前、男は雨の降る山中で倒れていたところを消防隊に発見された。夜中のことであった。その前から数日前、会社を出たあとの数日間の記憶がすっぽり抜け落ちている。村へ向かったはずなのだ。社長から密命を受け、あの村を目指して夜行列車に乗った。蒸し暑く紫煙が充満した車内。そこまでは覚えているのに。
「痛っ……」
その先のことを思い出そうとすると頭痛に見舞われる。真っ暗な冷たい山中へと時間が飛ぶ。頭がひどく痛む。まるで思い出そうと伸ばした己の手を拒むかのように。今も男の思考には濃い霧がかかったようになり、救助されて間もない頃は常にそうであったように、意識がぼんやりとしてくる。思い出せ。思い出せ。いややめろ、思い出すな。そこには何もない――。
「おかえりなさい。どうしたんだい、顔色が悪いよ」
ふらつく足取りで自宅に着き、玄関の戸を開ける。出迎えた母の心配そうな顔を見て、男は何でもないですとだけ答えた。
寝支度を終え、布団にもぐり込む。窓の外ではまだ雨が降っている。大地に降り注ぐ雨は植物の成長に欠かせない、実りをもたらす存在だ。だが雨は男に、痛みを呼び起こさせる。
誰かが叫んだ。誰かが血を流した。誰かが狂ったように笑った。誰かが泣いた。たくさんの怨嗟。怨嗟。怨嗟。
「やめてくれ」
人の形をした無数の黒い影が青い炎の中で揺らぐ。止まない叫び声。笑い声。泣き声。叩きつけるような雨の音。声。雨。声。雨。雨。雨。
「すまない」
眠る男の口から漏れる言葉は、謝罪。呼吸が苦しい。酸素を求めて喘ぐ。
「すまない、すまない」
何に謝っているのか。誰に謝っているのか。わからない。わからないまま、男の眦から涙が流れた。
山奥の里、哭倉村がその地に住んでいた龍賀家諸共に滅んだ日。男が村に通じるトンネルからほど近い山中で救助された日。その夏の日以降、悪夢はまるで逃すまいとするかのように、男の寝床に現れた。それは決まって雨の日だった。雨が降ると男の気分は落ち込んだ。悪夢を見るのがつらいのではない。悪夢を見るほどの何かが村で起こり、そこに自分はいたはずなのに、それを思い出せない自分が許せなかった。
「いうぎーっ!」
「うわああ」
その夜は晴天で、月が明るかった。何しろ隣の古寺にいつからそこにいたのか、まるでお化けのような女と包帯まみれの大男が住み着いているのを、しっかりと見たのだから。叫ぶ大男に追いかけられ、自宅へ逃げ帰った男は寝直そうと布団にもぐり込み、ややあって呟いた。
「あそこじゃ、雨の日は寒いだろうな」
夢だったのかもしれぬ。忘れようという理性的な気持ちとは裏腹に、古寺の男女の様子が気になっていた男は翌日、真っ赤な夕焼け空を飛んでいく烏を見て胸騒ぎがした。帰宅すると鞄を置き、古寺へ向かう。すると異臭が鼻をついた。遠い戦場で嗅いだ匂い。死の匂い。
古寺の中に、生きている者はなかった。女も大男も、死体へと変わっている。もともと亡者のような有り様だったが、いま足元に転がる彼らの呼吸がとうに止まっていることを男は察した。
雨と血でぬかるんだ地面の上にそのままにされた亡き戦友たちの姿が浮かんだ。せめて、弔わなければ。
骨と皮ばかりになった女の冷たい身体を持ち上げると、その腹部は膨らんでいる。もしや子を宿していたか。男の顔が歪む。曇天の下を、男は女の死体を抱えてとぼとぼ歩いた。墓地に十分な穴を掘り、そこに女の身をそっと置いて土を被せる。仕上げとばかりに、その辺に転がっていた卒塔婆を挿した。
遠くから雷鳴が響く。空がいっそう暗くなる。間もなく雨が降るだろう。
「帰るか……」
大男のほうは身体がひどく痛んでおり、動かすのは難しそうだった。雨が降り出した。冷たい雨が降りしきる中、無力感に苛まれながら、男は墓地をあとにしようとした。
そのとき、産声が響いた。
激しい雨音と雷鳴に負けじと声を上げる赤ん坊。墓穴から生まれた子。不吉な。生かしておけば災いが。だってこんなにも雨が。
呼吸を荒げる男の脳裏に、下駄の音が響いた。ひどく心地よい音。それに、満開の桜を背にした誰かの姿。覚えなどない。思い出せない。それだのに、それが大切なものなのだとわかった。
振り上げていた腕を降ろす。掌中にある温もりを、男は離すまいとするように抱きしめた。
雨は止まない。降り続いている。けれど胸に抱いた命は、男の腕の中で元気に声を上げていた。
「水木さん、今日は雨が降るみたいですよ」
「そうか。よし、散歩でも行くか、鬼太郎」
「それっていいお天気のときに言うものじゃありませんか?」
「いいんだよ。雨は雨で」
男は雨が嫌いだった。あの日までは。
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雨が嫌いな男(仮)
初公開日: 2024年03月06日
最終更新日: 2024年03月06日
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コメント
⚠️書いているのは二次創作です
村から帰還後、水木と雨のお話(映画ネタバレ有)
すばらしい旅
すべての人間が旅をするSF。旅によって人は自由になり、旅によって人を愛せる。
トチ
【紘と臣と善】夏の隙間で食べ比べ ★
臣しかいないMANKAI寮に紘がやってきて唐揚げを食べる話。善も来るよ。
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