「今夜、サシ飲みどうですか」
その言葉を、期待している自分がいた。
初めのうちは「サシ」という部分に妙にこだわって、お互いの部屋か、寮の外——大抵は、俺の行きつけの居酒屋に飲みに行っていた。
頻度で言えば、月に一回。それが二週に一回になって、ほとんど毎週になってからは、談話室が主な開催場所になった。お互いのルームメイトに出て行ってもらったり、店を決めたり。そういう手間がわずらわしかったし、外に飲みに行くより寮で飲んだ方が安上がりだ。
それに、下手な居酒屋の飯よりもよっぽど、伏見が作ったつまみの方が美味かった。決して行きつけを低く評価するわけではないが、好みをおさえつつ新しい味を提供してくれる、なんてそこいらの店で簡単にやってもらえるわけではない。
夕食の残りや翌日の仕込みの余りが、用意した酒にあわせて様々に形を変えていく。ビールやチューハイならジャンク寄りに、日本酒なら和食の味付けで。珍しくワインやウイスキーを持っていけば、横文字の洒落た名前がつきそうな肴がテーブルに並んだ。時には季節を感じさせるようなものまで出てくるそれが、サシ飲みの楽しみのひとつになっている。
「今週もお疲れさん。乾杯」
「乾杯」
学生たちはみな部屋に戻った後の談話室に、グラスのぶつかる音が静かに鳴る。打ち上げでもなければ、麻雀のように何かをしながら飲むわけでもない。酒と肴を触媒にして、二人でただ話す。それも特別な話題などではなく、本当に他愛のない、明日には忘れてしまいそうな言葉を交わすだけだ。たまに話題が途切れて訪れる沈黙さえも心地良い。この時間が、俺と伏見には必要だった。
「揚げ出し豆腐か」
「今日は駅前のスーパーで豆腐が安かったんですよ。多めに買ったので」
「そういや今朝のチラシに載ってたな」
テーブルの真ん中に、アイボリーの深皿が置かれた。隣にはしっかり大根おろし、生姜、万能ねぎと薬味が並ぶ。自然と眉根が寄った。
「手が込みすぎだ」
その言葉はおそらく、揚げ出し豆腐なんてものを出してきた時点で言うべきだったのだろう。
「でも、今日は日本酒飲むって言ってたので。せっかくですし」
悪びれることもなければ、きっと、今後手を抜くこともない。むしろ、改善だと言って余計に手の込んだものを出してきそうだ。俺が出してくるつまみの質が高くなることを指して改善と言っているのではないことなど十分に理解した上で。
「湯豆腐でも良かっただろう。そっちの方が手間がかからない」
「明日は鍋にしようと思ってたんですよ」
微妙にかみ合っていない返答に溜息を吐いた。もし明日の夕飯が鍋だとして、俺はこの場に湯豆腐が出てくることに不満を言うことはない。
考えてみると、こういう会話をして、こいつが譲歩したことはほとんどない。秋組第七回公演の料理禁止令を出した時くらいか。あれも荒療治が必要と思って強制したことだから、伏見が譲歩したわけではないし、結局こいつは料理をやめなかった。
料理が伏見にとって大切で、必要なことだとわかっている。自分がその恩恵を大いに受けていることも自覚している。だとしても、俺はこいつの料理へのこだわりを咎めることを諦めてはいけない。最終的に俺が必ず折れなくてはいけないとわかっていても、言い続けることが大事だ。でなければ、際限なく高い質を求め、時間を費やすだろうから。
つまみが美味いことに文句なんてあるはずがない。つまみが美味ければ酒もそれだけ美味くなるというものだ。しかしそこに手間暇をかける必要はないのだ。伏見は居酒屋を営んでいるわけでもなく、これは気軽な、それこそ毎週開催されるような宅飲み、の一種。そろそろこいつにもコストパフォーマンスやタイムパフォーマンスという単語の意味を理解してほしい。
「いただきます」
「めしあがれ」
ご丁寧に配膳された取り分け用の皿に、綺麗なきつね色の塊をひとつ移す。まずは大根おろし。ポン酢を回しかけ、一口大に箸を入れれば弾力のある身が、しかしふわりと切れる。薬味と一緒に口に運べば、じゅわりと出汁が染み出してくる。
「うまい」
「よかった。最近寒いですし、温かい方がいいかと思って」
「……燗酒が欲しくなるな」
生姜と万能ねぎを乗せてもう一口。飲み下してからぼそりと呟いた言葉を、伏見が耳ざとく拾い上げる。
「ぬる燗と熱燗、どっちがいいですか?」
もうその気になっているようで、テーブルの上に置いた日本酒の瓶を持って腰を浮かす。手で制し、そのまま腰を下ろせと手ぶりで伝えると、一度動きを止めたデカい体が手の動きに合わせてゆっくりとソファに沈む。
「そういう意味で言ったんじゃねぇ」
「そうですか……」
何でちょっと悲しそうなんだと眉を下げた男を眺めながら猪口を傾ける。うん、美味い。つまみとの相性も良い。
そのまま一口、もう一口と運んでは、日本酒を舐めることを繰り返す。その間も伏見は黙ったままで、何となくしょぼくれている。案外面倒な男だ。
猪口に添えられたまま止まってしまった手に、優しく手を重ねる。
「伏見」
「あ、すみません……」
「」