今はまだ黒い少女たちの姿は見えないが、下手に袋小路に逃げ込んでしまってはまた追い詰められてしまうだろう。事務所に戻るにしても、夢中で走ってきたせいで今自分がどこにいるのかもよくわからない。
こうしている間にも、人混みの中からあの黒い少女たちが姿を現しそうだ。雑踏の中を足早に歩きながらも、逃げられているかどうかすらわからない。無意識に懐を探りタバコを探すが、さっきの取っ組み合いのときに落としてしまったようだ。
舌打ちしたとき、いきなり手首を掴まれた。みっともないくらい両肩がはねてしまう。恐る恐る視線を向けると、そこにはロングの黒髪に青のインナーカラー。この人混みの中で仕掛けてくるのか!?
反射的に身構えるが、スタンガンもナイフも飛んではこなかった。代わりにその黒い少女は私の手を引っ張っていく。走り疲れていた私は、その細腕の力に抵抗することもできず引きずられていく。
私は黒い少女に引きずられるまま、雑踏から引きずり出された。引きずられながら周囲を見回すと、遠目にぽつぽつと点のようにあの黒いゴスロリ衣装が見えた。まだ諦めてはいないようだ。では、私を引っ張っているこの少女は一体?
「おい! 私をどこに連れていくつもりだ!」
足をもつれさせながら少女に向かって叫ぶが、少女は返事を返さない。その足取りは明らかにどこか特定の場所に向かっているふうだ。
私は少女に引っ張られるまま、疲れ切った体を引きずるようにして走っていく。
どのくらい走ったか、私たちは人気のない公園にいた。黒い少女たちとの取っ組み合いを演じたときにはまだ夕方だったが、いつの間にか日は沈みつつあった。
ほとんど倒れるように公園のベンチに腰を下ろす。硬い木製のベンチが、今は救いだ。暗くなりつつある空を仰ぎながら、私は目の前にいる黒い少女に声をかけた。
「お前、あの少女たちの仲間なのか? いったい何者だ? なぜ私を助けた……」
少女も流石に息を切らしており、かがんではあはあ言っている。その顔は長く垂れた前髪に隠れて見えない。一体誰だ、この少女は?
少女はようやく呼吸を整えたのか、顔を上げた。その両目は、あの黒い少女たちと同じ、青と緑のオッドアイ――ではなかった。どこか見覚えのある、栗色の瞳。
「あはは、まだ分からないの?」
そう言って少女は自分の髪に手をかけ――ウィッグを外した。ウィッグの下から現れたのは、瞳と同じ色の栗色のショートカット。
「ルビ……!? お前、ルビか?」
子供っぽいその笑顔は、明らかにルビだった。私は思わず目を擦ってしまう。なぜルビが?
驚く私に、ルビは手にしたウィッグを弄びながら得意げに笑って見せる。
「感謝しなさいよね、ピンチを助けてあげたんだから」
「変装してたのか?」
「まあね。あの子たちはみんな同じ格好をしてるんだから、仲間になりすますのは簡単だったよ。カラコンは間に合わなかったけど」
その口調は明らかにルビのもので、私は腹の底が抜けるような安堵を覚えた。が、それを顔に出すと弱みを握られてしまいそうなので、努めて無表情を装ってルビに問いかける。
「お前……しばらく姿を見せないと思ってたらなにやってたんだ?」
「なにって、キツネの仕事の手伝いだよ」
「仕事の手伝いだ?」
ルビは大げさに肩をすくめて話を続ける。
「だからぁ、今回の事件の手伝いだって。『prophet』のファンの子たちのグループに潜り込んで情報収集してたの」
「お前なあ……少しは自分の身の危険ってものを考えろ」
「ふーんだ。ゼロ地区うろつくのに比べたら全然だよ」
「……で、その手伝いとやらの収穫を聞こうじゃないか」
「何から話そうかな……。そう、最初に私が怪しいって思ったのは、あのとき……最初に事務所に『prophet』の〇〇が来たときだった。すぐにわかったわ。この子は本物じゃないって」
「なんだと? どうしてそう言い切れる?」
「あの子がふらついたとき、私が抱きとめたでしょ。体に触ってわかったわ。あの子、男の子だった」
「……」
まったく気づかなかった。確かに、あのアイドル衣装はたくさんのリボンとフリルで体型がわかりにくいものになっていたし、声も声変わり前の少年であれば男だとは分からなかったのも無理はない。顔立ちもメイクやウィッグでどうにでもなるだろう。
「お前、それに気づいてて黙ってたのか、今まで」
「だって、相手はバロックかもしれなかったんだよ。キツネはバロック相手に『あなたはバロックです』って言う?」
「……」
正論ではある。だが、ルビはクライアントである〇〇が帰った後、彼女――ではなく彼か――がバロックではないと断言したはずだ。
「だが、お前はあのときクライアントはバロックではないと言ったよな。あれはどうしてだ」
「バロックだけど、バロックじゃないの」
ふと視線を落として、ルビはそんな謎掛けのようなことを言った。
「キツネは今まで、別の人がまったく同じバロックを持っているケースって見たことある?」
私もそれなりにバロック屋を続けており、ほかのバロック屋との交流もあるが、ルビの言うようなケースには遭遇したことはない。同じような傾向のバロックを持っているケースはあっても、別人がまったく同じバロックを持っているケースは私の知る限りひとつもない。
なぜなら、バロック――歪んだ妄想は原理的に個人の中で完結しているものだからだ。同じバロックを複数人が共有することはありえない……はずだ。
「あの子だけじゃない。あの子と同じように〇〇と同じ衣装を着て、同じ格好をしてる女の子たち全員が、自分を〇〇だと思いこんでいた。ううん、思い込もうとしてたんだよ。私はそれを確かめるために、あの子たちの中に紛れ込んだんだよ。このやり方はキツネじゃできないでしょ?」
「……」
こいつは無鉄砲で気まぐれだが、時おり私が必要としている情報を見透かしたかのように持ってくる。まるで私を導くかのように。
「……では、彼女らは全員が『自分こそが本物の〇〇である』というバロックを手に入れるために私に依頼してきたと言うのか? いや……クライアントは本当の自分のバロックを燃やしてくれと言っていた」
「そうだよ。あの子たちのバロックはまだ、バロックとして完成してない。だから私は事務所に来たあの子をバロックじゃないって言ったの。あの子たちのバロックは……」
そこまで聞いて、私はすべてを理解した。あの黒い少女たちが、私を追いかけてきた理由を。
バロックだ。私の持っているこのブリーフケースに収められた、プリントアウトされたバロック。これこそが彼女らの狙いなのだ。
「そういうことか……! 彼女らは最終的に自分たちの手で『本物の〇〇』というバロックを焼き捨てることで、自分こそが……いや、自分たち全員が〇〇だというバロックを完成させようとしているのか」
ルビがうなずく。
これは……今までにないケースのバロックだ……いや、これは本当にバロックなのか? これだけの集団が同じバロックを共有するということなど、自然発生的に起こることなのか?
その疑問を口にする前に、私は周囲から漂ってくる異様な気配にベンチから腰を上げた。
それまで人気のなかった公園の茂みの向こうに、滑り台の影に次々と姿を現すのは、黒い少女たち。
全員が同じ黒いゴスロリ衣装、黒いロングヘアのウィッグ、青と緑のオッドアイ、そして――同じバロック。
少女たちは路地裏で私を襲ってきたときと同じように、手に手にスタンガンやナイフなど物騒なものを構えている。しかも、今回は路地裏のときとは比べ物にならないくらい人数が多い。しかも、見回せばすでに我々は囲まれている。