オタクをやってると、KGBだのKKKだのKOGだのSDFだのといったアルファベット3文字のワードに山ほどぶつかることになるんですが、今日脳内データベースにまたひとつ新しくアルファベット3文字が加わることになりました。
というわけで、今回見てきたのはこれ!
Twitter(頑なにXとは呼ばない)のインドの民がみんなして盛り上がってるので見に行くことに。わたくし人形使いはひねくれもんなので世間が盛り上がってる作品には背を向けがちですが、インドの民が盛り上がってる作品に外れなし。
いやーCHAPTER1が154分、2が166分、合わせて320分という久々の長時間鑑賞でした。でも塚口に通うようになってから、上映時間1本2時間とか普通に思えてきたので要は慣れです。
さて、感想を書く際にまず言及しなくてはいけないのは本作の主人公・ロッキーことラジャ・クリシュナッパ・ベーリアを演じる「ロッキング・スター」ヤシュ氏。
わたくし人形使い、「バーフバリ」からインド映画にハマって色んな作品を見てきましたが、本作の主役ロッキーは「バーフバリ」のアマレンドラ、マヘンドラや「マガディーラ」のハルシャ、「RRR」のビーム&ラーマといった主人公とはまた違ったダーティな魅力を持つダークヒーローでこれまで見たことがなかった種類のキャラクターで非常に楽しめました。
今まで見てきたインド映画の主人公はいわゆる「正統派な主人公」であることが多いんですが、ロッキーは軽妙かつダーティなジョーク、野性的かつバイオレンスな戦闘スタイル、智謀と野望といったいわば「悪のカリスマ」なキャラクター造形となっています。これが本作のストーリーの背骨である「マフィアの成り上がり物語」と実にマッチしてて作品強度を非常に強固なものにしており、ストーリーにブレがありません。
というかもうヤシュ氏の佇まいや仕草のひとつひとつがいちいちダークなかっこよさにミチミチに満ちてるんですよね。顔立ちがすでにダークヒーローのそれだし。個人的お気に入りなダークヒーロー仕草は「捕まえた敵の手で髪をなでつける」です。あなたの好きなダークヒーロー仕草も教えて下さいね。
そして数々のインド映画がそうであるように、本作もまたインドの社会的側面が深く関係しています。本作の舞台でありタイトルでもあるK.G.F.ことコーラーラ金鉱地区を牛耳って巨万の富を築き上げるロッキーですが、そんな彼の行動原理は、10歳のときに死んだ母親が言い残した「死ぬときは富を抱えて死になさい」という言葉。
ここでいう富とは、もちろん底辺の暮らしから脱出するための金銭的財産というのはもちろんのこと、「ひとりの人間として、搾取されるだけの状態から脱出して人生をまっとうすること」という意味も含まれていると感じます。
かくしてロッキーはマフィアの世界で次第にの仕上がり、K.G.F.を支配してそこに彼の帝国すら築き上げるまでになります。そうなると当然のごとくマフィアだけでなくインド政府からも目をつけられることに。
隠して1981年のインド首相である苛烈な女傑、ラミカ・センは、K.G.F.の関連書類の焚書を命じるとともにその支配者であるロッキーの捕獲を命じるのですが、それに先んじてロッキーはなんと大胆不敵にもスーツ姿&バラの花束を携えて護衛も着けずに自らラミカの元を訪問! このシーンのあまりにもかっこよさよ……。マサラ上映だったらここで女性陣の絶叫が聞こえるであろう。
前述の通り、本作におけるヤシュ氏のダークヒーロー仕草がキメキメの決まり具合でわたくしもう序盤からメロメロだったんですが、ここで完全にとどめを刺されましたね。スーツはともかくバラの花束は反則だろあんなの……。(腰砕け)
そしてここでのラミカ首相との会話がまた皮肉に満ちていて好き。ロッキーは誰もが知るリンカーンによる「人民の、人民による、人民のための政治=government of the people, by the people, for the people」を引用し、「俺に言わせりゃこうだ。人民は買える=Buy the People」これほど皮肉の効いた言葉があるだろうか……。
もうこの一言だけで、彼が味わってきた、そして今もインド社会にはびこる搾取構造がわかるわけですよ。本作も単にマフィア社会の成り上がり物語ではなく、またロッキーもただ単にマフィア世界でのし上がろうとしているだけではない。……というか、これまで見てきたインド映画が多かれ少なかれそうであったように、インド社会における支配・被支配、搾取・被搾取構造はインドという国を舞台にする以上必ずついて回るくらい根深いものだということが肌で感じられました。
ロッキーはたしかにダーティでダークヒーローですが、しかしやはり彼もまた、インド社会の歪な支配構造を改革しようとしている人物なんですね。
しかし、そもそも本作、実は基本の時間軸は現代であり、ロッキーの物語はそこから見て過去=1978年から1981年。現代ではK.G.F.に関する資料はすべて焚書されており、わずか1冊だけ残った資料であり本作のタイトルでもある「K.G.F.CHAPTER1」を調査していた女性記者ディーパ・ヘグデとロッキーをヒーローと呼ぶ老記者アナンド・インガラギによる語りによってストーリーが進行するスタイルになっています。つまり、物語開始時点でロッキーはすでに過去の人になっていることが確定している=彼による社会改革は成し遂げられていないということが確定しているわけです。これも含めてインド社会の歪みの根深さを痛感します。
そして数々の戦いをくぐり抜けてきたロッキーのあの最期よ……。作中では、彼を最悪の犯罪者にしてビジネスマンと言うシーンがあるんですが、あれすら彼にとっては「取引」でしかなかったんだろうな……と思います。
なんというかロッキーの最期、あれは一種の政治的取引であり、彼が文字通り最期に仕掛けた罠であり、そして彼の「業(カルマ)を精算するための手続き」でもあったんじゃないかとこの感想を書きながら思いました。
そもそも「金(きん、かね)」というものはそれ自体がさまざまな争いや災いを招く業(カルマ)そのものです。それを誰の手にも渡らないように己の命もろとも海の底に沈める=鎮めるというあのラストは、なんかもう宗教画的な美しさすら感じました。
そしてCパートの「K.G.F.CHAPTER3」はファンサービスなのかそれとも本当に制作されるのか。あるいはロッキーの物語は終わっていない=インド社会の改革もまた終わっていないってことなんでしょうか。
本作はアクションが非常に充実していてそこに目を奪われがちですが、しかしその実態は非常に社会風刺的な作品だったと感じました。