ジワジワ、シュワシュワと何処からか蝉の声が聞こえてくる。命懸けの大合唱は小さな命を繋いで行くために必要不可欠である事は分かっているが、その声はクラクラするような暑さを更に助長していく。理不尽だと分かっていても、ちょっと静かにして欲しい。
「……あっつ……」
思わず口から零れた言葉も、蝉の声に掻き消される。いくら夏だとはいえ、都会のど真ん中なのにこんなに蝉の声がするなんて。しかももう夕方だ、そろそろ落ち着いてもいい頃じゃないか。…そんな事を考えながら歩いていると、ふと、違和感を覚えた。…この道、さっき通らなかったか?気の所為だろうか、道路の向こう側のあのカフェ、さっきも見たような…?
「…ヤバいかな…」
暑さに頭をやられてるんだろうか。これは早急に涼める場所へ避難するべきかもしれないが、残念ながらこの辺りの土地勘は無く、パッと見入れるコンビニも無い。ビル群のガラス窓は傾きかけた夕日を反射して照らしてくるし、日中散々熱されたアスファルトから放熱されて更に暑さを増す。鞄の中の水筒の中身はとっくに空で、自販機も見当たらない。こんな街中なのに、そんな事あるか?真夏の人間に厳しすぎやしないか。……あぁ、駄目だ。せめて早く屋根のある場所へ行かないと、本当に熱中症になってぶっ倒れそうだ。
革靴の底がアスファルトを叩く音がやけに響くような気がして、意識が散漫になる。頬を滑る汗を拭くのも億劫で、早く涼しい場所に行きたくて、ただ無心で足を前に出す。
ジワジワ、シュワシュワ、ジィジィ。煩い蝉の声が、頭の中を埋め尽くしていく。気が付けば、視界が不明瞭で。まるで霧が立ち込めているように、数メートル先が見えなくなって。…あ、これ、本格的にヤバいかも。どうしよう。
ジワジワ、シュワシュワ、ジィジィ。ジワジワ、シュワシュワ、ジィジィ。段々頭が痛くなってきた。煩い、うるさい、頼むからもう鳴かないでくれ。頭が酷く痛む。気持ちが悪い。早く楽になりたい。もう歩きたくない。早く、はやく、楽に、
「オニイサン。大丈夫?」
ヒヤリ、と頬に冷たい何かが触れる。
「ぁ……ぇ…?」
「一人?こっちおいで。迎えに来たよ」
「あ……」
「大丈夫、ちゃんと店まで手ぇ引いて連れてったるよ。離さんでな」
「……は、ぃ…」
穏やかな声が語りかける。冷たい手が私の手を握って、ゆっくりと引く。立ち上がって、一歩を踏み出す。冷たい手のひらからゆっくり、ゆっくりと、何かが染み渡ってくる感覚がする。…あぁ、心地良いな。誰かと手を繋ぐのなんて何年振りだろう、こんなに心地良いものだったっけ。
「お兄さんも災難やね」
「え…?」
「今日みたいな日は、『あっち』と『こっち』の境が曖昧になるんよ。ゆらゆら揺れる陽炎に紛れて、境目が見えにくくなる。お兄さんはそこに踏み入っちゃった感じ」
「えっと……?」
まだ頭がぼんやりとしていて、彼が何を言っているのか上手く理解できない。そういえば、この人は誰なんだろう?
「細かい事はうちの主人に聞けばええよ。俺も現世の事は分からんこともあるし。ほら、こっち」
「……うん……」
よく分からないけれど、とにかくこの人に着いて行けばいい。誰なのかも、何処へ行くのかも分からないけれど、きっとこの人は大丈夫な人。なんだか、そんな気がする。
霧の中を手を引かれるままに着いて歩くと、少しずつ、意識が鮮明になってくる。いつの間にか頭痛は引いて、気持ち悪さも無くなった。彼が紡ぐ小さな鼻歌が、何処か懐かしいような気持ちにさせる。
「ほい、到着。甲斐田ぁ、お客さん1名様〜」
「はぁい!ちょっと待っ…いったぁ?!」
「何しとるんあいつ…とりあえず入って。その辺の椅子適当に座っとって」
「あ、はい…お邪魔、します…」
彼が部屋の奥へ消えていく。一人になって、ぐるりと周りを見渡した。…本屋?随分と古い背表紙がずらりと並んだ棚が所狭しと並んでいる。その奥には、何やら骨董品のような、古めかしいもの達が。お客さん、と言ったという事は、ここは店なのだろうか?
「いったた…もー、この店物多すぎやって……あ、どうもどうも、いらっしゃいませ。今飲み物持ってきますね」
「あ、いえ、お構いなく…えっと」
「不破さんが連れてきたなら、境に迷い込んだ人かな?気が付いて良かった」
「不破、さん…先程の、和服の?」
「そうそう。さっきの人、不破湊さん。扇の付喪神様、うちの守り神でもありますね」
「…え?」
つくも、がみ。…付喪神?守り神?…うん?
「あ、僕は甲斐田晴。この店の店主やってます、一応ね」
「あ…えっと、加賀美インダストリアル代表取締役、加賀美隼人…です」
「加賀美さんですね、宜しくお願いします。…不破さーん?何してるんですー?」
「甲斐田ぁ、この前景君持ってきた菓子何処いった?」
「え、あれ不破さん食べちゃったでしょ」
「んー?せやっけ」
「そうですよ。…あ、はい。冷たい麦茶です」
「ありがとうございます…あ、あの」
「はい」
「…その、…付喪神…とは…?」
あまりにも普通に会話をしているのでスルーしかけたけれど、完全にスルーはやっぱり出来ない。付喪神ってなんだ。あの人が、神様?普通に歩いて喋ってるのに?
「あ、付喪神をご存知無い?えっとですね、付喪神っていうのは」
「あ、いえ、付喪神は分かります。大切にされたものに宿る神様ですよね」
「そうそう、そんな感じ」
「その付喪神が…そちらの、不破さん?」
「はい」
「…神様」
「神様です」
「……えーっと…」
駄目だ、思考が追いつかない。まだ暑さにやられた頭が冷えきって無いんだろうか。
「甲斐田、んな当たり前みたいに言うなって。お前にとっては当たり前でも、加賀美さんは普通の人やから」
「え?…あ、そっか。最近あんまり普通の人来なかったから…そうか、そうですね、普通は分からないのか」
「ごめんな、こいつイマイチ普通の人間の感覚とちょっと離れとるから」
「…えぇ…いえ、えっと…なんか、すみません…?」
「んじゃ、改めて自己紹介しとこか」
不破さんが私の前にある椅子に座り、袂から扇子を出す。ゆっくり開かれた扇子には、鮮やかな絵が描かれている。とても美しい扇子だ。
「これが俺の本体。ずっとずっと昔、関西のある扇子工房で作られたのが俺。作った人の名前が不破だったから、苗字は不破。俺が付喪神として顕現できるようになった時の持ち主の名前が湊だったから、名前は湊。因みにこの容姿も湊の姿が元やね。一応ここの前の前の店主に買われてから、ここで守り神やらせてもろてます。どうぞ宜しく」
扇子を緩やかに仰ぎながら、美しく微笑む不破さん。その微笑みはとても艶やかに見えて、思わずドキリとしてしまう。
「んで、こっちが甲斐田晴…まぁさっき挨拶しとったから分かるか。今の俺の主人な」
「前店主の祖父から店を受け継いだだけですけどねぇ…」
「ほんでも店主は店主やろ」
…なんだか不思議だ。目の前にいる神様は、全然神様なんていう感じがしない。普通の人間と同じように、瞬きをして、笑って、言葉を発している。
「…加賀美さん」
「はい?」
「気分の方はどうですか?」