今や我々は、被験者と同様に神秘体験を共有していた。研究天使の中には、涙を流しているものすらいた。
その神秘体験を前に、観察室内には声を立てるものひとりいなかった。その沈黙を破ったのは、接続システムからの警報だった。観察室内が警告灯の赤い光に埋め尽くされ、研究天使たちは弾かれたように操作卓(コンソール)に取り付く。
「何が起こっている!?」
「わかりません! 突然創造維持神側からの接続が切断されました! 再接続不可能!」
「代理体(サロゲート)は!?」
モニタに視線をやったときには、代理体(サロゲート)はすでに溶液内で激しく痙攣していた。観察室内で悲鳴が上がる前にタンク内で代理体(サロゲート)が何の前触れもなく一気に膨張、内側から爆裂した。
その瞬間聞こえた悲鳴は、一体誰のものだったのか、我々に理解できるものはいなかった。
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――最初のダァバール融合実験の結果をどう受け取るかは、我々コリエル・メンバーの中でも意見が割れていた。ある者は完全な失敗であると主張し、ある者は創造維持神との接触の最初の成功例だと言った。
「少なくとも――」
1号の声に、喧々諤々の喧騒はぴたりと止んだ。
「何の成果も得られなかったというわけではなかっただろう。特に、被検体の適合条件が判明したのは大きな成果だと言っていいのではないか」
それに関して異論を唱える者はいなかった。事実、創造維持神へのアプローチに対して何らかのレスポンスが返ってきたのは、これが初めてだったからだ。
加えて、ここで異論を唱えたところで我々はまた足踏み状態に戻るだけだ。そうして手をこまねいているあいだに上級天使が何らかの方法で創造維持神を支配してしまうことは十分考えられる。我々は世界の歪みの蔓延と上級天使、2つに追い立てられているのだ。そしてそのことは、この場の全員が理解していることだった。
「もはや手をこまねいている余裕はありません、1号。幸い、適合条件である対象喪失体験を抱えた人間は無数にいる。誰もが歪みと欠落を抱えた、この世界ではね」
「……」
私の言葉を、1号はすぐには肯定しなかった。
私にはわかる。1号にはまだためらいがあるのだ。倫理観という名の。
そこに囚われている限り、我々は人間としての軛を振りほどくことなどできない。背負った翼は、いつまでも偽りのままだ。
「1号、ためらっている余裕はもはやありません。すでに適合条件に合致する民間人のリストは出来上がっています。あとは……」
「私が許可を下すのみ、ということか」
1号がしばしの逡巡のあと、ついに口を開いた。
「……よかろう。実験を続けてくれ。すべての責任は私が取る」
「よくぞご決断くださいました」
これで我々コリエル・メンバーのやるべきことは決まった。あとは実行するのみだ。
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結果として、ダァバール融合の適合条件に合致するものは無数に見つかった。いつしかダァバール融合実験は、民間に流出した噂を通じて一種の「治療」として知られるようになっていた。
その「治療」の結果はさまざまだった。本人にしか理解できない救いを得る者もあれば、新たなバロックを得るものもあった。そしてまたある者は、精神と肉体に不可逆的な変化をきたし――。
いや、問題なのはそこではない。
たしかにダァバール融合の適合条件は対象喪失体験を抱えていることで間違いないはずだ。事実、その条件に合致する被験者を集め始めてから、創造維持神側からのレスポンスは明確に増えた。しかし、その先に、つまり神の言葉(ダァバール)を得るに至った事例は、未だにない。
私自身も、被験者の視覚情報から得られた各種映像は、単なる被験者の幻覚、歪んだ妄想に過ぎないのではないか、そう思い始めた。
一時は大きく進展すると思われたダァバール融合実験は、ここに来て再び進行を遮られていた。
一体何が問題なのか。何が足りないのか。
被験者の適合条件は間違ってはいないはずだ。では、何が足りないのか。
――足りない。足りないのだ。喪失の深さが。
親族や恋人、社会的地位や財産を失った程度の欠落では、神の言葉で真に補完されるには足りないのだ。
神の言葉を得るためには、もっと深い喪失を、欠落を抱えた人間が必要だ。
では、どれほどの欠落が必要なのだ? そもそも、そんな欠落を抱えた人間が存在するのだろうか?
そんなことを考えながら、私は観察室のモニタでもう何回目かもしれないダァバール融合実験の様子を眺めていた。被験者の視神経に直結したモニタには吹雪のようなノイズが吹き荒れている。今回は、このままなにも得られず実験は終わってしまうのだろうか。そんな慣れにも飽きにも似た諦観を覚えた、その瞬間。
それがただの幻聴だったのか、それとも突然のひらめきだったのか、あるいは本当に――神の囁きだったのか。それは私には分からない。
大型モニタに映るホワイトノイズの中に、私はひとつのメッセージを、感じ取った。
なければ、作ればいい。
当然のことだ、と私は思った。神への供物を用意するのは我々の務めではないか。
そうだ、簡単なことだ。大きな欠落を、神の言葉によって補完されるほどの大きな欠落を抱えた人間がいないのならば。
作ればいい。
もっとも大きな欠落を抱えた人間を、神に捧げるにふさわしい欠落を抱えた供物を作るには――引き裂けばいい。
誰よりも深く結びついている者を、引き裂けばいい。
そう、いる。
ああ、今まで何故気づかなかったのだろう。神に捧げるべき供物は、すでに我が教団の中にいたのだ。
生まれながらにして、誰よりも深く繋がっている、あの兄弟が。
<別パート>
――救われたい。ただそれだけだった。
自分の半身そのものだった、兄さんを失った欠落。
自分が生き残るために、兄さんを殺した罪悪感。
それが常に、僕を捉えていた。まるで、蜘蛛の糸が、哀れな獲物を絡め取るかのように。
そして僕は、もうそれに絶望することも抵抗することもしなくなっていた。もはや、欠落と罪悪感は僕の存在そのものだった。
それから救われるのなら、何を惜しむというのだろう。そもそも、僕には失うことを惜しむようななにかなんて残ってはいない。捧げられるようなものも、もう僕は持っていないかも知れない。
でも、僕にこのダァバール融合の適合者としての資格があるのなら――それで僕の欠落と罪悪感が癒やされるのなら、この身を惜しむ理由なんてなにもなかった。
「……1号さま。兄さんは僕より先に、創造維持神と接触しているのですよね」
「……」
そう聞くと、1号さまの顔に深い苦悩の皺が刻まれた。
「まだ話していただくことはできませんか」
「聞くべきではないことだ、お前にはまだ……」
それ以上は追求せず、僕は話を中断した。
「――とにかく、少なくとも僕はいつでもダァバール融合の被験体として使っていただいて結構ですよ」
まだなにか言いたそうな顔の1号さまを置いて、僕は会議室を出た。
以前は、こうして自由に教団内を出歩くこともできなかったから、自分の部屋や処置室、浴室以外に行けるところは限られていた。まして僕は正式なコリエル・メンバーだ。セキュリティのかかった場所も自由に通行できる。
そんな中、僕が好んで行く場所があった。
下ではなく、上。屋上へ向かうエレベーターだった。
誰にも咎められることなく屋上にまでたどり着いた僕は、IDカードを使って屋上への扉を開ける。
扉の先には、広く青い空。