ようやく体調が回復してきましたが、日中の暑さがなんかもう災害級とか言われてて外出するのに命の危険すら覚える昨今、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
昼から夕方にかけてが特に暑いので、夕方から夜にかけての時間帯に出かけることにしました。
というわけで今日見てきたのはこれ!
ふとしたことから超能力を身に着けた子どもたちが、次第にその能力をエスカレートさせていくというお話。
ポスターの上下逆さまのインパクトと、トレーラーの不穏な雰囲気が気になって視聴。
子ども、団地、超能力とくれば言うまでもなく大友克洋の「童夢」なわけですが、本作は爆発ドカーン衝撃波ドドーンな超能力バトルはなし。
どちらかと言うと「子ども」という存在に秘められた残酷性を「超能力」というガワを着せて表現しているように思えました。
作中では主人公イーダ、その姉で自閉症のアナ、団地に住んでいるアイシャ、ベンの4人の子どもが登場します。これらの子どもたちは別にどこにでもいそうな子どもたちであり、特別トラウマを抱えていたり残虐性を秘めていたりするわけではありません。
彼らの家庭はそれぞれに問題を抱えているものの、それらの問題は普遍的なものでいわゆるフィクション的に誇張された「いかにもなにか起きそうな家庭」ってほどでもないのがミソ。
この「問題を抱えてはいるもののどこにでもいる家庭と子どもたち」がふとしたきっかけから超能力での加害行為をエスカレートさせていくからこそ怖い、というのが本作の根底にある怖さの正体だと思います。
そもそも加害行為をエスカレートさせていくベンの抱える残酷性はすでに作品冒頭で猫を殺すシーンで明示されており、しかもその残酷性は実は超能力とは直接結びついてはいません。ベンの残酷性は、善悪の区別が十分についていない子どもなら誰もが抱えているものでしょう。
個人的には、本作に登場する子どもたちが本当に超能力を身に着けていたかどうかについて懐疑的なんですよね。
あれ、子供特有の万能感や全能感、現実と空想の区別のついてなさ、あるいは他者と自分の思考の区別の曖昧さを誇張して表現したものなんじゃなかろうかと思ってます。
子どもたちが超能力を発揮するシーンは基本的に周りにはだれもいないし、彼らの超能力を第三者が明確に目撃・認識するシーンもあんまりありません。なので、本作における超能力は実際にそうした能力を持っていると言うよりも「そうしたい」「そうしてやりたい」という自身の中に鬱積した願望の現れだと思ってます。
例外となるのはベンが料理中のキッチンの鍋を動かすというシーンですが、あれも自身の中に蓄積された加害願望や母親に対する反抗心の現れなんじゃないでしょうかね。4人の中で明確に自身の親に対して明確に強い加害意識を持ってたのはベンだけでしたし。
自閉症のアナと心や思考を共有しているアイシャに関しても、彼女の初登場シーンの人形遊びと同じようなごっこ遊びに過ぎないんじゃないでしょうか。
このように考えると、本作における「超能力」って「一種の共感、あるいは感情的感染」なんじゃなかろうかと思います。特別感や自身の願望、加害衝動が4人の中で共有、反響していくのが本作の流れだと思います。
しかし、最終的に悪意に染まったベン、おそらくは精神的な負担から錯乱した母親に殺されてしまったアイシャに対し、イーダとアナは生き残ります。そしてアナが愛用しているお絵かきボードの落書きが消されて空白になったシーンがラストカットになっていることから考えると、イーダは一連の事件を通していわゆる幼年期の終りを迎え、アナは元の状態に戻ったということのように思えます。一種のイニシエーションの話だったのかな。