塚口の1週間限定の映画は気がつくと終わってるので、今日は慌てて上映最終日に行ってきました。
今回見たのはこれ。
現在塚口では「塚口印度化計画」(なんだそりゃ)として、「RRR」をはじめとするさまざまなインド映画を上映してるんですが、本作はそれをきっかけに知った作品。
18時以降は酒浸りながらも、型破りな性格と指導で生徒に絶大な人気を誇る大学教師・JD。そんな彼は、大学における生徒の選挙活動がきっかけで起こったトラブルの責任を負い、3ヶ月の謹慎処分を言い渡されます。その謹慎期間のあいだに、彼は学長の依頼を受けて札付きの不良たちが集まる少年院に臨時教師として派遣されます。
……というあらすじとトレーラーで、わたくし本作の内容をいわゆる「破天荒教師の学校改革もの」だと思ってたんですが、その側面は冒頭の大学パートまで。まあ上映時間が179分あるので、この大学パートだけでも映画1本作れそうなんですが。
まず大学パートの感想を書きますと、学生と学校側、そして昼間部と夜間部、男子生徒と女子生徒で学生生活の改善を求めて対立している中、JDは学校のおエライさんにとっては目の上のたんこぶ的存在で、生徒たちにとってはカリスマ的存在。
前述の通り、普通だったらこれだけで1本映画が作れそうなくらいテーマが詰め込まれています。そもそも学生選挙の導入の可否という見方によっては時代遅れにも感じられる問題が校内の闘争の原因になっていたり、男女差別的発言があったりと冒頭パートだけで文化的格差、特に政治的な側面での「政治ひいては社会参加の機会を与えられない」という格差を強く感じる内容でした。そして冒頭で示されたこの政治的な側面は、終始本作の要所要所で
そこから少年院パートに入るわけですが、ここからは最初に思いこんでた「破天荒教師の学校改革もの」というよりは、暴力、犯罪、そして贖罪という側面が色濃く出ているノワール映画的な側面が強く出ている展開となっていたのにかなり面食らいました。
特に意外だったのが、予告やトレーラーでJDと対立するキャラクターして紹介されているバワー二。
わたくし見る前には、なぜかバワーニはいわゆる少年院のワル共を束ねるリーダー格の少年だと思ってたんですが、実際にはバワーニの少年院のワル共を束ねるリーダー格の少年時代は冒頭部分でとうに過ぎ去っており、本編では彼はすでに少年院どころかギャングのリーダーにまで上り詰めており、少年院を裏から支配し数々の組織的犯罪を行うまでになっています。
そのため本作は、導入部分からすると「破天荒教師の学校改革もの」として展開していくように見えて、実際前半部分はそうなんですが、JDは中盤から後半にかけてはなんというか「学校改革どころの話ではないあまりにも根深い社会レベルの闇」に直面することになります。
少年院に収容された少年たちにはバワーニによって計画的に酒や麻薬が与えられ、犯罪の片棒を担がされたり、幼い子供にまで罪を着せて身代わりにしたりといった完全に学校問題の枠を逸脱したレベルの病巣がはびこっています。そして中盤ではJDに助けを求めていた幼い兄弟が犠牲になってしまうという……。
本作の主人公であるJDは「病巣のはびこる少年院に赴任してくる」という段階では少年院を救う救世主ポジションのように思えますが、実は彼もまた過去のトラウマから酒浸りになっているという問題を抱えています。そして、自分に救いを求めて決死の覚悟で連絡をしてきた兄弟からの電話にも気づかなかったことから酒を捨て、少年院の正常化、ひいてはその裏にはびこるギャング組織の壊滅に邁進するようになります。
この「夕方以降は酒浸りで寝てる」という部分が前半ではコミカルに描かれていた分、それがもとで致命的な、取り返しのつかない失敗につながるという展開は落差があってかなりショッキングでした。
本作のポスターのキャッチコピーは「みんなまとめて更生だ!」ですが、彼が作中で「俺はあのとき一度死んだ」と言っているように、その「みんな」の中にはJD自身も含まれていると感じました。本作は彼の更生の物語だったと言ってもいいでしょう。
そんな中で、「みんな」の中に含まれていない人物もいます。本作の悪役であるバワーニです。
彼は本編中ではすでに更生の余地のない「悪」として完成してしまっている人物。しかし、冒頭で示されているように、彼もまた歪で、作中でJDが言う「更生の余地のない歪んだ社会」の犠牲者なんですね。しかもその様子は映画の本当に最初の部分で示されているので、ある意味で本作の主役はバワーニ、さらに言うならバワーニを生み出した社会構造自体とも言えるんじゃないでしょうかね。
そしてJDとバワーニは、明らかに対となるキャラクターとして描写されています。両者は相関図的には実は直接的な因縁や関係はありません。しかし、両者とも指をパキパキ鳴らす仕草、服の襟元で口元や拳を拭う仕草、両者とのその思想の行き着く先は「政治を変えよう」、そして何と言っても両者のダンスシーンが明らかに対になっているというような演出上の共通点があり、これは実質このふたりはひとりの人間のふたつの側面と言ってもいいと思います。恩師と出会い救われたJDと救われなかったバワーニ。彼らが分かたれたふたりの、正反対の立場にいる人間として作中世界に存在すること自体が、前述した「更生の余地のない歪んだ社会」がその地盤として揺るぎなく存在することの証左となってるんじゃないでしょうか。
今までいろんな……と言えるほどではありませんがインド映画を見てきた結果、インド映画の根本には「因果と運命」があると感じています。そして本作もまた「因果と運命」の物語でした。
「俺はあのとき一度死んだ」と言ったJDはまさに生まれ変わったように生き方を変え、少年院にはびこっていた悪を倒すものの、自身は次の戦場に送られるかのように刑務所に送られ、バワーニはかつて自分が処刑した少年たちと同じように吊るされて死ぬ。
失われた命は帰らず、結局のところJDもバワーニも自身が言っていた「政治レベルでの社会変革」を成し遂げるには至らなかった。
しかしながらJDの行いによってこれからの社会を担う立場にある子どもたちや学生たちは確実に変わり、彼の意思を受け継いでこれからの社会を変えていくでしょう。……と同じように、バワーニが属していたような「悪」は当然彼以外にも山ほど残っており、第二第三のバワーニは当然のごとく出てくるのはまた確実というハッピーエンドとは言えないけれどバッドエンドでもない、しかしながらビターエンドとも言えない、あえて言うなら「俺たちの戦いはこれからだ」エンドなんじゃないかと思います。因果はめぐり運命は続く……。