そのまま進むことも下がることもできなくなっていたわたしを無理やり動かしたのは、燭台の炎の向こうに揺らめく、見覚えのある影だった。
廊下の曲がり角から顔をのぞかせていたのは、少年だった。
少年がこちらに一歩踏み出す。古びた床板がぎしりと鳴るのが、不自然に大きく聞こえた。
燭台の炎の向こうにあったは、見慣れた少年の顔。
だけど、見慣れたはずのその顔に、わたしは安心することができなかった。壁にかけられた黒い毛と鉤爪の生えた手から滴っているのが血だということに、気づいてしまったから。
それが何を意味するのかを、考える余裕はわたしにはなかった。わたしが反射的に一歩下がるのと、少年が素早い動きで一歩踏み込んでくるのはほど同時だった。
「ひ……!」
思わず悲鳴を上げてしまったわたしに構うことなく、少年はわたしが知っているあの地下室での弱りきった姿からは想像もできないものすごい力でわたしをの手を引っ張っていく。その途中でわたしは燭台を取り落としてしまい、いきなり暗闇の中に放り込まれた。けれど、少年はまるでこの暗闇の中でもはっきりと目が見えているかのように迷いのない足取りで
わけも分からず引きずられていくその途中で、壊れたテーブルの下に倒れているおじいさんとおばあさんの姿が暗がりの中に見えたのは、気のせいだっただろうか。
少年は立ち止まることなく、わたしを家の外に引っ張り出した。そこでようやく、わたしは声を出すことができた。
「ちょ、ちょっと待って!」
少年の手をなんとか振りほどいたわたしは、動機の収まらない胸を押さえて少年の顔を見ようとした。
けれどあたりはもう夜中で、少年の表情はよくわからない。でも……わたしはそれにどこかホッとしていた。少年の表情が見えないことに、安心していた。もし今、彼の表情を見てしまったら、わたしは……。
何も言えないでいるわたしに、少年は何も言わずに何かを差し出した。恐る恐る受け取る。
それは一枚の羊皮紙のようだった。でも、暗くて何が書いてあるのかわからな――。
その時、突然の熱気がわたしの頬を叩いた。家が――燃えている。さっき落とした、燭台の炎だ。わたしが見ている前で、あの優しいおじいさんとおばあさんの家はみるみる炎に巻かれ、夜の暗闇を照らしていく。
そして、その炎はわたしが持っていた羊皮紙も、はっきりと照らし出した。
「――っ!!」
そこに書いてあったのは、わたしと、そして少年の人相書き。お父様の署名。
もうそれだけで、わたしはすべてを理解した。わたしたちは、わたしは逃げ切れてなんかいなかったんだ。
頭の中で、ここ数日の、おじいさんやおばあさん、そして少年との幸せな暮らしの記憶が、今目の前で燃え尽きようとしている家のように、燃えて燃えて、灰になっていく。なくなっていく。
力を失った指先から落ちた羊皮紙が、風に飛ばされて炎の中に消える。