「いかないで……」
さっきから体のほうが勝手に動いてたけど、その言葉は、まぎれもなくわたしの心から出たものだった。
女の人は、ゆっくりとわたしに向き直った。
「あなたのバイタルデータは常時モニタリングされています。異常があれば直ちに対処可能です」
「えと、そうじゃなくて……」
その次の言葉を口に出すのが、なぜかとても恥ずかしかった。なぜかは、分からない。
不思議な色の瞳が、じっとわたしを見つめている。
「いっしょにいてほしい……の」
言ってしまうと、もっと恥ずかしくなった。なんだか、すごく子供っぽいことを言っているようで。自分が何歳かもわからないのに。
<前段に追加>
「地球圏の脱出には成功したものの、[[rb:遺伝子 > ジーン]]バンクに貯蔵された遺伝子の一部はすでに感染。全滅は避けられたものの、[[rb:再生 > リザレクション]]に使用可能な遺伝子はごくわずかしか残っていませんでした。わたしは地球圏脱出後、24859回の遺伝子データからの人類再生を試みましたが、成功例はあなたのみです。そして、[[rb:遺伝子 > ジーン]]バンクにはすでに使用可能な遺伝子は残存していません」
不思議な色の瞳が、人間のものじゃない瞳が――そのときなぜか、かすかに揺らいだような気がしたのは、わたしの気のせいだろうか。
「再度説明します。[[rb:これ > ・・]]はあなたとのコミュニケーションを円滑に行うための人型端末であり、わたしの[[rb:本体 > メインフレーム]]はこの緊急隔離ブロックの制御システ――」
「そうじゃなくって!」
こんな大きな声を出したのは、生まれて初めて――という表現はおかしいんだろうか――だった。思わず咳き込んでしまう。女の人は言葉を中断して、決してまばたきをしない瞳でわたしをじっと見つめていた。
「……[[rb:あなた > ・・・]]に、いてほしいの」
そう口に出してしまうと、よくわからないけど、顔どころか耳まで熱くなってきた。
でも、それは本心だった。
まだ、心は自分の置かれた状況をよくわかっていない。そして、わたしの心が、自分の置かれた状況を……つまり、人間は、人類はもうわたしひとりしか残っていないっていうことを理解したとき、そばに誰もいなかったら。
そんな孤独に、耐えられるはずがない。
だから、だれかにそばにいてほしかった。
たとえ、人間じゃなくてもいいから。わたし以外の誰かに、そばにいてほしかった。
「さみしい……の……」
顔を見られるのが恥ずかしくてうつむいていた視線を戻すと、そこにあったのはやっぱり、瞬きしない、機械の瞳。
その瞳が、すっと近づいてきて――。
「さみしいのですね」
女の人は、わたしの言葉をそのまま繰り返す。そして、すっと体を屈めて、手を伸ばして……わたしの頭を、なでた。
機械がするような……実際に機械なんだけど……迷いのない動作で、わたしの頭の上にすっと手を持ってきて、その手を測ったみたいに正確に同じペースで、三回往復させた。
「大きなメンタルストレスである不安の解消に有効なのは、接触です。不安の解消は見られましたか?」
女の人の声は、今まで通り感情の感じられない、平坦な声音だった。でも……わたしを安心させてくれようとしていることは、わかった。
実際、女の人がそうしたくれたことで、わたしの気持ちも少しだけ軽くなった……ような気がした。
「あなたのメンタルの安定化は、わたしの目的の必要事項です。この機体を用いて、より適切な処置を――」
そこで女の人は言葉を切った。それだけで……たったそれだけのことに、ひどく人間性を感じたのは、わたしの都合のいい錯覚だろうか。
「――[[rb:わたし > ・・・]]が、より適切な処置を行います」
そう言って女の人は、まるでそうすることが当たり前だと言わんばかりに自然な動作で、わたしの横たわっているベッドに体を滑り込ませてきた。
「……っ!?」
わたしがなにか言う前に、女の人の腕がするりと伸びてきて、わたしの体を抱きしめた。
「心理学者ハリー・フレデリック・ハーローがウィスコンシン大学においてアカゲザルの子を用いて行った代理母実験をご存知ですか?」
ご存知ですか、とか言われても、わたしは女の人のいきなりの行動に何も言えない状態だった。されるがまま、女の人に抱きしめられている。
「実験においてハーローは、針金で作られたものと布で作られたものの2種類の母猿の模型を用いました。アカゲザルの子によるこれらふたつの母猿の模型に対する接触には有意差が見られました。アカゲザルの子は後者のモデルにより頻繁に接触していました。針金のモデルのみに哺乳瓶を設置してミルクを飲めるようにした場合でも、この傾向は変化しませんでした」
平坦な声でそんなことを説明している女の人と、わたしは密着している。わたし以外の、誰かのからだ。
不思議な感触だった。
アンドロイド……機械だって言うから冷たく硬いのかと思っていたら、やわらかかった。少なくとも…そう、針金で作った模型よりは。
顔をぎゅうっと押し付けられている胸はふかふかで、やわらかい。でも、その奥に心臓の音は聞き取れない。もぞもぞと顔を動かして耳を押し当てても、何も聞こえない。その代わり、かすかに低い唸りのような音が聞こえた。
ああ、このひとは、わたしとは違うものでできてるんだ……と、わたしは思った。
抱きしめられながら、わたしは上目遣いに女の人の顔を見上げる。
瞬きしない、機械の瞳が、じっとわたしを見下ろしていた。
「この代理母実験からは、アカゲザルの子は生存に直結する食料や栄養よりも、愛着対象との接触を優先するという結果が得られました」
「だから……あなたも、こうしてくれてるの?」
「肯定します」
変わらないはずのその平坦な声が、わたしにはなぜか、ひどく嬉しかった。
わたしはまた女の人の腕の中でもぞもぞと動いて、女の人の胸に顔をうずめた。
確かに、暖かかった。その暖かさに惹かれるように、わたしは自分も、女の人の背中に腕を回した。
「ね……」
「はい、わたしは質問を受け付けます」
「あなた……名前は? なんて言うの? あなたの名前、知りたいな……」
「この機体……わたしには、パーソナルネームは設定されていません。[[rb:本体 > わたし]]は緊急隔離ブロックの制御システムであり、固有の名称はありません」
「そうなんだ……」
なんだか、さみしい。[[rb:この人 > ・・・]]の名前を、わたしはどうしても呼びたい気持ちになっていた。そうすることで、わたしが知っている自分以外の誰かと、つながることができるような気がしたから。
「では」
わたしが名前をつけてもいい?と聞く前に、女の人のほうが先に口を開いた。
「便宜的に、『システム』と呼称ください」
「うーん……」
なんだかあんまり……って感じ。そこでわたしは、こう付け加えた。
「じゃあ……縮めて、『シス』って呼んでいい?」
そう言ってから、わたしは妙に恥ずかしくなって視線をそらした。
そらした視線を元に戻すと、女の人の……シスの、瞬きしない瞳が、じっとわたしを見ている。
その瞳の奥、瞳孔? レンズ? が、キュッと縮んで、ちかちか点滅した。なにか、考えてる……?
「――パーソナルネーム登録完了。以後、[[rb:本機体 > わたし]]は『シス』とお呼びください」
よくわからないうれしさがこみ上げてきて、わたしはシスの体にぎゅっと抱きついた。温かい、けれど、わたしとは違うものでできてる、でも、あたたかい、からだ。
「……ね、シス」
「はい」
「なでなで、してほしいな……」
「[[rb:命令 > コマンド]]を受理しました」
平坦な声でそう返事を返して、シスはわたしの頭をなでてくれた。
シスの手が、同じペースで往復するたびに、わたしの不安は少しずつ溶けていくようだった。
「あなたが眠るまで、こうしています」
「うん……」
その言葉が引き金になったみたいに、わたしは少しずつ眠りに落ちていく。
たったひとりの人類。
たった一人の人間。
遺伝子から再生されたっていう、誰でもない、わたし。
そんな孤独の中で、機械でできているはずのシスの体だけが、たしかなものだった。
まどろみの中、シスが話してくれた、針金でできた母猿と布でできた母猿の実験のことが、ぼんやりと頭の中に浮かんできた。
シスは……機械でできたこのひとは、布と針金、どっちなんだろう。
考えても、わからなかった。
けれど――。
その温かさは、わたしを安らかな眠りに導いてくれるのに、十分だった。