ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る。
有名なフレーズは小粋なアレンジがされた音楽と共に町中に溢れている。冬、特にクリスマスの訪れを感じさせるミュージックは今月もう何度聴いたのだろうか。
会社帰り、ファウストは駅近くに併設されているお気に入りの店へ向かう。プレゼントにもぴったりなお洒落なお菓子から輸入食品まで、加えてワインも揃えられているその店は見ているだけでも楽しい。
ガラス張りの入り口には、赤と緑の季節の商品がずらりと並べられている。メリークリスマス、メリークリスマス。文字だけでもう何度言われたのだろうか。
それでも、クリスマスというのはどこか心踊るものだ。ファウストは、人感センサーによって開かれた扉をくぐり抜ける。
「……あ」
ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る。
いつもはシックなジャズミュージックかかっている店内は、今日は周りの街と同じくクリスマスソングが流れていた。テンポが落とされ、ピアノアレンジの効いたそれは、忙しなく動き続ける人々の足をそっと緩めてくれる。
今年が終わるまであと少し。クリスマスは、正月前の最後の大きなイベントだ。
ファウストは、クリスマスカラーのチョコレートを手に取った。
「なるほど。だからか」
神妙な顔でうんうんと頷いたネロは、カウンターから手を伸ばしチョコを一つ食べる。
「流されやすいのかもしれない」
「頑固なのにな」
ケラケラと笑った彼女は、不機嫌そうな顔をしたファウストのカップに紅茶を注ぐ。彼女の目の前には小さく切り分けられたチョコレートケーキのお皿が置かれていた。
銀色の細身のフォークを入れると、柔らかなチョコレートケーキがスッと切れる。口の中に入れれば、濃厚なチョコレートとふわふわのクリームの甘みが口の中に広がっていった。舌でとけていく感じは、まるで生チョコを食べているかのようである。
「これは……甘めだな」
「甘すぎる?」
「いや、くどさがない分食べやすいよ。美味しい」
新しいケーキを作ったから食べにきて欲しい。そんな連絡を受け、ファウストは仕事終わりに臨時休業のネロのお店に来ていた。
お腹を空かせていくと、いくつかのケーキやクッキーを出され、正直な感想を求められる。
甘さは控えめの方が好み、酸っぱいものはそこまで得意ではない。そんなファウスト自身の好みはあるものの、どれも美味しくいただいていく。ファウストの好みは三番目に食べたガトーショコラだ。少し硬めの生地にとろりと甘さが抑えられたとろけるチョコレートが出てくる。シンプルなデザインではあるものの、甘さも苦さも程よく、満足感のある一品だった。
「いつから食べられるの?」
「いや、まだ先だな」
はぁ、とため息をついたネロはどこか疲れていて、それでいてどこか満足そうだ。カフェに合うデザイン、味、大きさ、原価計算、広告、その他エトセトラ。どうやらやることはいろいろあるらしい。
最後に出された小さめのガレットを食べながら、ファウストはうんうん唸るネロを見つめる。静かな店内は、ファウストたちがいるカウンター以外は灯りが消され、どこかシンと静まりかえっている。そんな空間に二人でいるのはまるで小さな贅沢だ。次も呼ぶように、なんて冗談混じりで言うと、ネロは笑いながらも頷いた。
片付けられたテーブルには、季節柄クリスマスメニューが並んでいる。赤と緑で『クリスマスケーキ予約受付中』と書かれたポップは、控えめな木目の中で確かな存在感を放っていた。
「これって、まだ間に合う?」
ツン、と透明なプレートのポップを触ると、ネロはカウンターに身を乗り出す。
「まだ大丈夫。どれがいい?」
「この、白色のケーキを一つ。25日受け取りで」
「了解。……え、一つ?」
レジ横のパソコンに記入をしながら、ネロは不思議そうにファウストの言葉を返す。
「一つだよ。……あの人は海外だから」
「え、海外……?」
あからさまに驚いた顔をしたネロに、ファウストはクスリと笑う。
「どこかの誰かから招待を受けたらしいよ。詳しくは知らないけど」
「へぇ。聞かないのか?」
「あの人は秘密が多いから」
苦々しい顔をしながら、ファウストは小さなため息をつく。
昔、それも付き合いはじめのときは少しは気にしていた。しかし、一緒にいる時間が長くなるほど、それはこちらを身を案じてのことだと少しずつ理解することができる。
別に、全てを言う必要はない。フィガロはファウストのことなら大体知っているけれど、そこに理不尽さを感じることはもう諦めてしまった。
人はみんな違うのだ。全て知らなくてもいいと思えるのは余裕か、それとも怠惰だろうか。
「まあ、必要なことを言わないことも多いけどな。そのときは吐くまで問い詰めればいい」
「豪快だな……」
乾いた笑いをしながら、ネロはキーボードを打ち込んでいく。痴話喧嘩なんてよくあることだ。
しかし、ネロは知らないだろう。ファウストのいう『問い詰める』とは、ウン万円の最高級シャツの胸ぐらを掴みながら低い声でキレることだ。他にも、フィガロの一番近くて、一番知られたくない相手に聞き込みを行ったりすることもある。ごめんね、本当に勘弁して。そんな言葉が自然に出てくるぐらいに、ファウストはフィガロの弱い部分をちゃんと理解していた。
「私から断ったからな。一応、あの人の名誉のために言っておくけど」
「へいへい」
ネロは笑いながら少し不貞腐れたファウストにへらへらと笑いかける。
きっと、これは余裕だろう。ネロは単純に優しいな、と思った。
「だから、空港に行くことにした。せっかくだから何か渡したいんだ。何がいいと思う?」
「へ?」
ぐわんと、突然の急カーブにネロは間抜けな声を出す。
至極真面目な顔で、ファウストはそんな彼女をじっと見つめる。仲の良いカップルの惚気から急に己に矢印が向き、彼女は目をパチパチと動かした。
「えーと、食べ物?」
「ああ、物は嵩張るからな。搭乗前に口に突っ込もうと思う」
「やっぱり豪快だな……」
入力を終えたネロは笑いながら、ファウストと向かい合うようにカウンターにもたれかかる。
「手作り?」
にやり、と笑いながらファウストを見ると、彼女は目をパチパチと動かす。
「いや、買うつもりだが。市販の方が美味しいだろう」
至極当たり前のようにファウストは言い切る。そういえば、ネロはファウストから料理の話や美味しいお店の話は聞くことはあれど、お菓子の話はしたことがなかったのを思い出した。
しばし黙り込むネロに、ファウストは少しだけ不安げにこちらを見つめてくる。何か、おかしかったか。そんな問いかけを含んだ瞳に、ネロはゆっくりと笑い、そして首を振った。
「違うって、こういうのは気持ちなんだよ」
あんたの彼氏サン、そういうの好きそうだし。そんな勝手な偏見は心に秘め、ネロはファウストににこりと笑いかける。
「ほら、バレンタインとかさ。学生時代作ってなかった?」
「ああ、百個ぐらい」
「百!?」
冗談めかしく笑いながら、ファウストは長い筒状のものを空中に作り出す。
「冷凍の長細いクッキーの生地があるんだ。それを包丁で切って、クッキングシートの上に並べて、オーブンでチン。それを詰めたら終わりだよ」
「へぇ……」
目をきらりと光らせるネロに、ファウストはふふふと柔らかく笑う。昔から、こちらが料理の話をすると、こうやって目を輝かせていた。いつもはどこか気だるげで、やる気がなさそうで。それでも、こうやって好きなことには一直線。
目は口ほどに物を言う。その言葉が、彼女にはぴったりだ。
業者ってこういう気分なんだろうな。そんな軽口を言いながら、ファウストは温かなカップを手を伸ばす。気の利くネロが、そっと用意してくれたものだ。
「その、なんだ。だから、手作りといっても切るぐらいでしか作ったことがないんだ。誰か一人にちゃんと作るのは、こう、なんだろうな。少し……、照れ臭くて」
俯きながら、どこか恥ずかしそうに。落ち着いていて、凛としている女性の、普段はなかなか見ることのない姿。
話を聞いていくと、ファウストは彼に料理は振る舞ったことはあるものの、お菓子は作ったことがないらしい。甘いものより食べ物、手作りより味が確証されているもの。そんな現実的な考えを述べられ、ネロは心の中で頭を抱えた。
「あんた、絶対作った方がいいって。んで、初めてって言ってみなよ」
「初めてではないが……?」
そうじゃない、そうじゃない。怪訝な顔をするファウストに、ネロは手を振る。
初めて、というのは一度しかない。その価値を、重みを、特別な相手であるほど人は欲しくなるものだ。その感情は湯煎したチョコレートよりももっともっとドロドロで、熱くて、大変なものだ。
健気なファウストは気がついているだろうか。それとも、気がついていないだろうか。できれば気がついていてほしいが、気がついていてほしくない気持ちもある。
ネロは笑いながら、ゆるりと首を振る。
天然で、危なっかしくて、そのくせ頑固で。今も理解していないふわりとした表情に、ネロは心の中で心配のため息をつく。
全く、呑気なものだ。こんなにも縛られているのに。それとも、それにすっかり慣れてしまったのだろうか。ファウストから彼氏うんぬんの話が出るほど、なるべく関わりたくない気持ちが強まっていくばかりだ。
ファウストが彼氏を友達に紹介するタイプでなかったことに感謝しながら、ネロは未だ理解できていない彼女に向き合う。
「違う違う。あんたのために初めてお菓子を作ったってこと。多分、喜ぶから」
「そうか……?」
どこか疑り深く、それでいて少しだけワクワクするような。真顔であるものの、そんな感情がチラリと見え隠れする。
理論的と感情的。そんな二つがアンバランスに成り立つ彼女の心は、どこか不安定で、それでいて安定していて。それでも、放っておけない何かを感じられる。
もしかしたら、お節介の性なのかも。ネロは笑いながら、小さなタブレットをすいすいと動かす。
「調理器具なんて、今どき百均でも売ってるしさ。とりあえずなんか作ってみなよ」
「…………分かっ、た」
長考のあと、ファウストは弱々しく声を出す。未だ悩んでいるのだろうか。いつものようなスパッとした返事が無い。
もしかして、あまり乗り気では無いのだろうか。恐る恐るネロはファウストの顔色を伺う。
「……わお」
小さなその声は、きっとファウストには届いていない。
ウェーブの髪を耳にかけ、どこか恥ずかしげに俯き、表情は固く強張っている。それでいて、楽しそうで、でも楽しくなさそうで。感情がぐるんぐるんと揺れ動いているのがありありと伝わってくる。
これは、乗り気の反応だ。きっと、多分、おそらく。
「……その。私が簡単に作ったものでも、あの人は喜ぶか少し、不安で」
控えめに笑い、どこか不安げな表情。そんなファウストに、ネロはコクコクと頷いた。
「絶対喜ぶから」