以蔵は通販が好きではない。歳の割には昔気質(かたぎ)だとは思うが、通販サイトのレビューよりも店員から直接商品のことを聞いた方が信頼を感じる。
しかしそれはそれとして、下調べにスマホを使うこともある。
ベッドに寝転がりながら、Amazonアプリの画面をスワイプする。その検索窓に入力されているのは『オーブン』の四文字。
立香は料理が好きだ。
より正確を期せば、以蔵の身体を己の料理で作り上げるのが好きだ。
味覚と視覚の合わせ技で以蔵を魅了するため、この家にも調理器具が増えた。
無水鍋、フライヤー、泡立て器、フードプロセッサーなど……これらを使う時の立香は満ち足りた顔をしている。正直以蔵にはどう使われるものかがわかっていないが、一人の時でもキッチン周りを掃除するようになった。
そして、オーブンである。
アプリが教えてくれるオーブンの種類は数え切れない。値段もピンからキリまである。
安物買いの銭失いは避けたい。その場ではお得だと思っても、使い勝手が悪かったりすぐ壊れたりするのでは長期的に損をする。
正直、機能のことはわからない。これまで以蔵は炊飯や炒めものなどの簡単な調理しかしてこなかった。
判断材料として、立香がこぼしていた願望を思い出す。
ピザやラザニアを焼きたい。魚の塩釜焼きにも挑戦してみたい。ケーキも焼きたい。今の設備で作れるレアチーズケーキもおいしいが、焼くという選択肢があればより豊かなティータイムを過ごせる。
惚れた女の望みを叶えられずに何が男か。
立香と交際を始めて五年になる。
大学の心理学科を卒業し、児童に関わる会社に就職して三年目になる立香は、今や子供からも大人からも頼られ始めているという。以蔵にストーキングを働いていた女子学生はもういない。
立香の将来設計はどうなっているだろうか。
頭がよく、職場でも期待されている立香を、家庭に縛ることはしたくない。せっかく大学で学んだことを封じさせることになる。以蔵は知識を貪欲に取り入れる立香も好きだ。
と同時に、立香が電車内のデジタルサイネージで表示される結婚雑誌や式場の広告に目を向けているのも、横で見てよくわかっている。
以蔵との将来を望んでくれているのが嬉しい。
心身ともに立香を大事にしたくて、自然とギャンブルは控えめになった。だから、勢いをつけてしまえばある程度の性能のオーブンでも一括で買えてしまう程度の蓄えがある。
問題は、どこに置くかだ。
立香がストーカーをしていた頃から、ずっとこの1DKに住んでいる。ダイニングキッチンの空間がある程度広いからなんとか立香を招いてもやっていけているが、どうしてもキッチンは狭い。これ以上調理器具が増えるなら、場所を工夫しないといけない。
今調べているのは主にオーブンレンジだから、現在の電子レンジから買い換えれば最低限の場所は確保できるだろう。
しかし、以蔵の心に暗雲が差す。
(もし――もし立香がおらんようになったら……)
立香が以蔵の許から去る。
想像するだけで、心臓が凍りつくほどのショックを感じてしまう。
それでも、臆病な以蔵は考えずにはいられない。
この家の調理器具を使っているのは立香だが、名義上すべて以蔵のものだ。
立香がいなくなれば、これらは無用の長物と化す。以蔵が持っていても何の足しにもならない。
とはいえ、立香も別れた男のために使っていた道具など持っていたくもないだろう。
主人から捨てられる道具たちのわびしさが、恋人から捨てられる己とオーバーラップする。
立香の痕跡をありありと感じながら、孤独に耐えなければならない。
調理器具は、どれも週に二度の可燃ごみの日に出せるものではない。オーブンに至っては、粗大ごみの手続きをしなければならない。
ドアに処理券を貼って、三階からエントランスへ運ぶのは手間だ。このマンションにはエレベーターもないから、重いオーブンを抱えたら腰を痛めるかもしれない。
心が傷ついているのに身体まで損なわれたら、ますますふさぎ込むのは想像に難くない。
立香の名を呼びながらみっともなく泣く己が、ありありと想像できる。
二度と立香を抱きしめることができなくなるとしたら。細身でありながら柔らかさも感じられる身体に触れられなくなるとしたら。
以蔵は生きていけそうにない。
まだ買ってもいないオーブンのことを考えただけで、こうなってしまう。
身体ばかり鍛えていても、メンタルはちっとも強くならない。「筋トレはすべてを解決する」などという者もいるが、少なくとも以蔵には当てはまらない概念だ。
立香と別れたくない。離れたくない。
できることをするしかないが、どこかで立香の地雷を踏んでしまうかもしれない愚かな自分のこともわかっている。
それでも離れないようにするためには、拘束力のある契約を結ぶ必要がある。
「立香……結婚しとうせ……」
独り言がこぼれた。
そういう形で安心を得たい。
『縛る』と言うと表現がよくないが、周囲に二人がつがいの生き物であると示せれば、立香が以蔵の手の届かない場所へ行く可能性も少しは減るだろう。
「アホなわしを、許いとうせ……」
ダイニングキッチンから、重いものの落ちる音がした。
「え、え……」
震える声もする。
以蔵は反射的に起き上がって飛びつくようにドアを開けた。
ダイニングキッチンのテーブルの前で、立香が手を口に当てて立ち尽くしていた。その足許には、中身の詰まったビニール袋が放られている。
「え、以蔵さん……」
すべて聞かれていた。
そう気づいた瞬間に、焦りが全身を駆け抜ける。
「おまん……どいて、音も立ていで入りよった」
「その、休みだから以蔵さん寝てるかもな……って思って」
(こんっ……べこのかぁっ……!)
詰(なじ)りかけて、危うく口を押さえる。
立香に合鍵を渡しているのに都合が悪くなったら罵るなど、この上なく筋違いだ。
(落ち着けわし、何言えばえい……)
幻聴だった、気にするな、と言えばなかったことにならないだろうか。
いや、確かに聞いていた立香にそう言い逃れをするのは不誠実でしかない。
必死で考えを巡らす以蔵を、立香は見上げた。金色の瞳はうっすらと、しかし隠しようもなく期待に輝いている。
(ほがな顔、されたら)
気づいたら、以蔵はそのしなやかな脚にすがるように膝をついていた。
「り、立香」
「はい」
その左手を取って、ベージュのマニキュアが塗られた爪に唇を落とす。
「おまん、オーブン欲しいち言うちょったろう」
うなずく立香に視線を向ける。顎のラインは下から見ても余分な肉のない。
「わしが買(こ)うちゃる、オーブン」
「うん、ありがとう……?」
不思議そうに返す立香の薬指に指を滑らせる。
「ここにも指輪させちゃるき、やき……わしと、結婚してつかぁさい……!」
たっぷり五秒、時が止まった。
無言に焦れて口を開きかけた以蔵の視線の先で、立香の頬がほころんだ。花弁の大きな花が咲くような表情に、以蔵は心を奪われる。
「うわ……やだ、嬉しい」
同時に金色の瞳も潤む。
「わたしと離れたくない、って言ってくれるんだね」
「おまんと離れるらぁて考えただけでわしは死ぬ」
大げさなほどの以蔵の言葉に、立香は形のいい唇から「ふふ」と笑声を漏らす。泣き笑いの表情が美しいと思う。
「考えちょった。おまんをわしん手許から離さんために何ができるか……」
「だから、わたしが以蔵さんから離れるなんて、ありえないって」
「世ん中にありえんことはない。やき、わしはおまんと契約したい。もしもん時んために、わしがおまんのもんやち示したいがじゃ……」
立香はかがんで以蔵の頬に手を寄せた。その手は心なしか震えている。
「以蔵さんはわたしのもの?」
うなずく以蔵の鼻頭に、上から涙が滴(したた)る。
うまく笑えていないかもしれない。しかし、この大きな感情を伝えなければいられない。
「おまんがわしをまっとうにしてくれた。おまんにわしができるがは、一生一緒におっておまんを護ることばぁじゃ……ほれに」
「それに?」
「おまんの作る飯が食いたい。オーブンがあれば、もっとおまんの思う通りんもんが作れるがじゃろう?」
「うん……」
「わしん身体、おまんの飯だけで作りとうせ……」
以蔵は立ち上がり、骨がきしむほど立香を抱きしめた。
先ほどまでの悲観的な考えはどこかへ行ってしまった。
我ながら、単純で御しやすい男だと思う。
それでも、そんな男を立香は愛してくれる。結婚の申し込みを受け止めてくれる。
以蔵も泣きそうだ。
「オーブン、どこ置こうね。今も結構物があるし」
「引っ越すがはどうじゃ。二人で決めた家で、おまんの使いやすいようにすればえいき」
「うん……うん」
立香は以蔵の胸に顔を埋めた。その身体は女性の平均身長からはみ出していないはずだが、以蔵からすれば吹き飛びそうに小さく、柔らかい。
この腕に閉じ込めて、護らなければ。
もちろん、その尊厳を損なわないように。
「仕事は続けぇ。働いちゅうおまんが、わしは好きじゃ。家事も二人できっちり分けてやる。手伝うらぁて甘っちょろいことは言わん」
「以蔵さん、家事とかできるの」
「わし一人ならどうでもよかったけんど、おまんがおるなら話は別じゃ。わしだけふんぞり返っちゅうわけにはいかん」
「以蔵さんって亭主関白だと思ってたのに」
「わしもそう思っちょった」
以蔵が言うと、立香は腕を以蔵の腰に回した。吐息ひとつでも、その幸福がわかる。
「オーブンは引っ越したら買おうね。今買っちゃったら場所に困るから」
オレンジ色の髪を撫でると、立香は武骨な手に頭をすり寄せてくる。
そのしぐさだけで、胸が暖かい気持ちでいっぱいになる。
このニコチンとタールと世俗に汚染された肺から、こんなに綺麗な感情が湧くものなのか。
立香は、危うく人の倫(みち)を滑り落ちるところだった男を救ってくれた。
その女に報いるためには、何をしても足りない。
「のう立香、まずは家探すかえ。家賃補助のことがあるき龍馬に相談はせんといかんけんど、基本的にあいつはわしに甘い」
その際限のない甘さが時に怖くも感じるのだが、今は都合のいいように受け取りたい。
「うん。やっぱり新しいおうちもこの辺になるよね」
「事務所から離れるわけにはいかんきの。そん代わり、広うてしんきな家にしちゃる」
「無理のない範囲で、生活に支障のないようにしよ? 以蔵さん、張り切っちゃうとその辺緩くなっちゃうから」
「わしん奥様は、もうわしを操縦するがが上手じゃな」
「旦那様のことならわかるようになりたいから、ね?」
奥様、旦那様。甘美な響きだ。一滴も酒を入れていないのに、酔いそうになる。
立香は抱きしめていた以蔵の腰を軽く叩いた。
「ほら以蔵さん、することはたくさんあるよ。全部リストアップしよう」
「買(こ)うてきたもん冷蔵庫にしまうとこからじゃの」
以蔵が手を緩めると、立香は床のビニール袋を手に取った。
「いっこいっこ数えて、全部終わった時に振り返って『幸せだったね』って言いたい」
「そん時おまんは白いべべ着ちゅうろう」
「以蔵さんもタキシードだよね」
「わしにほがな洒落たもん似合うと思えんにゃぁ」
「似合うよ、わたしの旦那様だもん」
軽口を言い合いながら、並んで幸せへの階段を登る。
まずはささいな共同作業からだ。以蔵はビニール袋を持って、袋の中の白菜を立香に手渡した。