夏の気配が薄れて、次第に秋の風が吹いているのを肌で感じる。ユニヴェールで最後の夏休みが終わった。天気予報では上陸しそうな台風のニュースが流れはじめ、今日は1日雨が降ることを伝えていた。
組長仕事が片付いたら、今日の夕方は立花と少しだけ会う約束をしていた。ロードナイトの仕事のため丹頂先生に呼び出されたメッセージを送ると「課題をやるので図書館にいます」と返事が帰ってきた。
夏休みが終わると、さっそく秋公演の稽古が始まる。配役について大詰めの調整を行って、もう明日あさってにはロードナイト生に発表しようというところだった。先生と台本の最終確認をし、使用することになる楽譜を人数分揃えると今日はひとまず仕事が終わった。図書館まで歩いていくと先程までは弱かった雨が、風景に白くモヤがかかるように勢いを増している。寒くはないが、変わっていく季節がはっきりと分かる。
中に入ると、図書館の広い机にぽつんとひとり立花が腰掛けて、ノートに書き込んでいる後ろ姿がすぐに見つかった。贔屓目なしに、立花は目を引くからすぐにどこにいるか分かる。
ほんのすこしのいたずらのような気持ちで後ろから手元を覗き込む。きょうの授業の課題だろうと軽い気持ちで覗き込むと面食らった。並んでいる文字は、課題からかけ離れている。ノートの端にふたつみっつ自分の名前らしきものが書かれているのを見つけてしまったからだ。
御法川基紘、一部間違っている。基「絃」が正しいのだが、「玄」のところが「広」に変わっている。軽微な間違いよりも、立花の書く手書きの字で自分の名前らしいものが書かれていることが胸をざわめかせている。整った、自分の書く字とは違う丸みのある字だ。
ノートに集中している立花の隣の椅子を引き、腰を掛ける。立花は目線をノートからこちらに向けて、はっと気づいたように手でノートを覆い隠した。
「み、御法川先輩。早かったですね」
「うん……ちょっと貸してみ」
立花の手からペンを取り、彼女の書いた自分の名前の下に至って普段どおりに名前を書く。昔から字は読めるように書くように教育されてきたから、ありがたいことに綺麗だと言われることもあった。角ばった文字が立花のものと比べると神経質に感じる。
「ここは、糸に玄米の「玄」。この広とか、糸へんが弓へんになってたり、よくあるよ」
立花の一部間違っていた漢字の下に書き慣れた名前を解説するのは初めての経験で少し照れる。
「玄米……いいですね、覚えやすいです。間違えてすみませんでした。これでもう覚えました」
「いや、よく間違えられやすいから。変換でも出づらいから子供の頃から何度も間違えられてるし」
御法川が自虐的に笑いながら言う。立花はノートの文字を見ながら、ほんのり赤い顔をしていた。
「ところで」
ペンをノートの上に置き、耳打ちする。立花の耳は色づいていた。こっちも、すでに耳が熱い。なんならペンを握っていた手まで熱い。
「なんで俺の名前書いてるんだ?」
「……言わなきゃ駄目ですか」
「正しい漢字教えたから俺にも」
「だ、だめです」
立花は申し訳程度に開いていた教科書と、名前を書いていたノートを閉じて、荷物を片付け始める。焦った様子に思わず笑みがこぼれてしまう。
「雨降ってるから、寮まで送ろうか? 外白っぽくなってる」
将来、その丸い字でいろんな書類に名前を書いてくれる日が来るとしたら、そんなに嬉しいことはない。いつか今日の間違いが、一生の思い出話になったら。御法川は二人の前に大きな傘を開いて、日の落ちた雨の下に並んで出た。