差し出されるシャンパンを断りつつ、ホールの隅を目指してまっすぐに歩こうとするものの、人混みでなかなかうまくいかない。目元を覆う仮面のせいでやや視界が制限されているのも微妙に気になる。奥のステージではクインテットが奏でられていて、薄暗いホール内から見るとそこがぼわりと滲むように浮かんで見えた。
 談笑するカップルや、いかにも仕立ての良いタキシードを着込みグラス片手に話しこんでいる紳士達。スワロフスキーやサテンのリボンで飾られた仮面のせいで顔立ちは皆判然としない。一様に楽しげな笑みを浮かべているように思われるが、その腹の底は誰にもわからない――だから貴女は気を付けないと、とごく真面目に言いのけた夫の言葉を思い出し、女は姿勢を正した。
 人の細かな、心の機微に疎い自覚はある。ここでは皆本心を仮面の下に隠している。だからなおのこと、用心しなければ。
 おひとりですか、と脇から現れた若い男――頬から顎の線がシャープで無駄のない体型をしており口元のほうれい線も見えないので、恐らく若いのだろうと思われる――に声を掛けられ、ヨルは立ち止まった。彼が意図しているのかいないのかは不明だが、進路を遮られた格好になるせいで無視もできない。
 誰もが素性を隠し、素顔も隠して、新年を迎える前夜の非日常を楽しむ。そんな趣旨のニューイヤーパーティーだった。普通はパートナーを伴うのがマナーだが、今はすべてを仮面の下に隠して楽しむ大人の社交の場。ここでは意味がない。
「すみません、急いでいるので」
「急いでどこに行こうって言うんです。パーティーはまだ始まったばかりでしょう」
「そういう事ではなく」
 かつてこのような場には大概、契約上の夫が傍にいたせいでこうして面倒な事にはならなかった。今晩はどうしても二人一緒にということができず、これから合流する手筈になっている。彼等はこのパーティーを無邪気に楽しむつもりでいるのかもしれないが、こちらは売国糞野郎殿、もといVIPの参加者を暗殺せんと企てる犯罪組織の殲滅のためにここにいるのだ。
「ああ、怒っていますか? 苛立ったところも可愛いひとだ」
 ――でも外ではあんまり見せないように。貴女の魅力はオレだけが知っていればいいので。
 ほぼ同じ台詞を言われたにも拘わらず、今は胸の裡がしんと冷えているのはどういう事だろう。言いつけを破ってしまった落胆とは少し違うような気がする。
「……とにかく、そこを退いていただけませんか。でないと私、」
 貴方をお掃除しなければならなくなりますと続けそうになったヨルの視界へ、まったく気配を感じさせないまま、眼鏡をかけた背の高いウェイターが割り込んできた。丁寧に腰を折り完全にヨルと男の間に入ってくる。
「失礼ですが、お客様。お連れの方がお待ちですので、こちらへ」
「は?」
 突然横からやってきたウェイターに何か文句を言いかけたものの、若い男はその顔を覗きこんで一瞬で黙り込む。ヨルからは死角になっているせいで、ウェイターがどんな表情で応対しているのかはまったく見えない。
 しかし不躾な男からヨルをそれとなく遠ざける腕の角度がとても見慣れたものだったので、ヨルはその背に隠れてほっと胸を撫で下ろす。いつまで経っても約束の場所へ来ないものだから、しびれを切らして探しに来た、というあたりだろう。まさかウェイターに化けているとは知らされていなかったが。
 こちらへどうぞ、と促されてヨルは大人しくウェイター――もとい、夫ロイドの後ろについてホールの隅へ向かった。
 周囲の人目を確認して、スタッフ通用口を隠す衝立の影に招じ入れられる。
「……次からはやはり、二人一緒に、と強く要望することにします」
「そうして下さい……」
 言い寄られても上手にあしらえるロイドなら問題ないかもしれないが、どうにもヨルはその手の対応が苦手だ。ロイドが事前に会場の下見を命じられたため今回はこうして別行動になったものの、作戦進行に支障が出ては本末転倒といえる。
「ところで、大丈夫でしたか。見つけるのが遅くなって本当にすみません」
「いいえ、ちょうど声をかけられた所だったので。助かりました。私、ああいう方は苦手なので」
「よく知っています」
 かつて契約上の、今は本物の夫は、何を今更と言いたげに笑っている。よくよく見れば、ロイドは特に顔や髪の色を変えて変装をしていたわけではなかった。違いはいかにも生真面目そうな眼鏡をかけ、髪の分け目が普段と逆なくらいで、驚くほどどこも、何も変わっていない。なのに先ほど割り込んで来られた時はまったくわからなかった。
 きっと西国一の伝説の諜報員の力量とは、こういう所に表れているのだろう。そう思った。
「喉とか渇いていませんか。ここから先、いつ相手方と接触するかわからないので」
「大丈夫です。お腹もすいてません!」
「結構。まずはホテル内の爆薬から処理してくるので、ヨルさんはこのまま会場内で警戒をお願いします。主な警護対象はこの三人」
 ウェイターの制服の胸元からロイドは三枚の写真を抜いた。暗殺対象になっている政界の重鎮と経済界の大物、それから彼等に招待された遠国の富豪。
「今は仮面で顔が隠れているので、素顔とかは覚えなくてかまいません。入場のさいに三人ともこれと同じデザインで、色違いの仮面を渡しました。それで見分けて下さい」
 陶器のように白くすべらかな表面が特徴的な仮面で、仄暗い会場では目立つだろう。装飾と言えば左右のまなじり近くにスパンコールが並べられてあるだけで、派手な塗り分けや装飾過多な仮面が多いなかである意味異彩を放っている。
「それから全員女性のパートナーを連れています。不真面目なタイプではありませんから、ダンスが始まってもある意味安心かもしれません。その時間の23時までには片をつけてくるつもりですが、邪魔が入らないとも限らないので――」
「邪魔、ですか」
「はい。爆薬を設置してそれで満足しているようなレベルでは、オレみたいなのに声はかかりません」
 ロイドはにこやかに言いのけているが言葉の内容はなかなかに物騒だ。わかりにくい表現だが、<黄昏>に声がかかるだけの相応の理由がある、というあたりか。
「お強いということですね」
「そういうことです。貴女が呼ばれている、ということも忘れずに」
「……そうでした」
 東西和平が成りWISEと<ガーデン>が紆余曲折を経て協力関係となったからこそ、こうして<黄昏>と<いばら姫>による共同戦線も実現できる。彼が言うところの『もともと人使いの荒いWISE』はさておき、<ガーデン>がヨルをこのたびの作戦に指名してきたのはそれ相応の理由があるということだ。
「とは言え、貴女は<ガーデン>の最終兵器<いばら姫>。慣れない状況とは思いますが、これ以上ないバックアップだとオレは思っていますよ」
 ホテルマンのジャケットの内側から取り出されるには凶悪に過ぎるオートマチックをホルスターから外し、それから予備の弾倉を手探りで、かつ手慣れた様子で確認していく夫は、これから予測される状況を思えば不謹慎にすぎる自覚はあるものの、その、見惚れてしまう。精神科医としての姿しか知らなかったけれど、その仮面を捨て去った夫はこんな顔を隠していた。
 もう見るのは初めてではないというのに胸が高鳴ってしまってどうしようもない。
「……ヨルさん?」
 凝視されていることに気付いたようでロイドがヨルの顔を覗き込んでくる。
「あっ、えっ、すすすすみません、……改めて、お仕事中のロイドさんは、とてもかっこいいな、と……見惚れていました……」
「あはは、そうですか。ありがとうございます。ヨルさんのドレスもとてもよく似合っていますよ。こんな作戦でもなければ堂々とエスコートできたのに、悔しいな」
 事も無げに、しかし上品な光沢をのせたベルベットのドレスへほんのわずかに熱をこめた視線を注ぎ、そして、まったく警戒していなかったヨルヘ向かって一歩半の距離を詰めた。
 無防備すぎるヨルをどこか咎めるような口調に背中がぞくぞくする。
「なによりこんな日に面倒ごとを起こしてくれた輩がとても腹立たしいので、あとで慰めてください。セントラルパークの花火、すごく楽しみにしてたんですよ、これでも」
 和平後初の新年を祝うためバーリント中心部最大の公園、セントラルパークでのカウントダウンイベントが企画されて早々に、観に行こうと約束していたものだった。ヨルから申し出た約束だったが、これほど根に持つくらいには夫も楽しみにしてくれていたらしい。
 ……そう、夫はその計画がフイにされたことを非常に、かなり根に持っているとわかる。実ににこやかに言いのけているがこれは確実に、売国糞野郎殿方を一体どう料理してやろうかと、あらゆる意味であれこれ考えを巡らせているはずだ。まともなありさまで警察に突き出されることは望めないだろう、とヨルは胸の底で顔も知らぬ哀れな売国糞野郎殿へ哀悼の意を捧げる。さらに言えばこういうときの夫はまったくもって情け容赦がない。
 もっとも、イベントを楽しみにしていたのはヨル自身も負けず劣らずなので、存分にやっちゃってくださいロイドさん、と本心では考えていなくもない。和平後の混乱も収まり久しぶりに夫婦だけで楽しげなイベントへ出かけられそうだと思い、なけなしの勇気と大胆さを振るいおこしてお誘いしたというのに! なぜよりにもよって決行が今日だったのか、と恨み言のひとつやふたつ、言いたくもなる。
「ヨルさん? ……ヨル?」
「あっ、ハイ、すみません、なんでしょ、ーーう」
 ふと気がつけばヨルはいつのまにか壁際に追い詰められていて、なおかつ度の入っていないメガネを外した夫の顔がすぐ目の前で息を呑んだ。
「帰ったら慰めてくださいって、意味わかってますか? ……あんまりわかってなさそうですね」
「へ、あ、はい!?」
 正直話半分で聞いていたので、何やら斜め上に事態が急展開していたことにいまさら気付く。
「それとももっとわかりやすく言いましょうか。帰ったらベッドで、」
 実年齢よりも少し幼い、しかしたいそう造作のよい顔で笑みを強められると、今でもどうにもならなくなってしまって本当に困る。まして二人きりで過ごす夜に見せる目の色をされては、心臓がもってくれるはずもなかった。悲鳴じみた声を上げてぐいぐいとお仕着せの肩を押し戻す。
「いいいいえわかってます! わかりました! 承りました、から!!」
「……へえ。珍しいですね、ヨルさんからそういうことを了承いただけるのは」
 もう本当にこれ以上は勘弁してほしいという一心で涙目で見上げると、喉の奥で笑う笑い方をして、ロイドはヨルを開放した。
「それでは行ってきます。――っと、すみません、これを渡すのを忘れていました」
 手を、と言われて右手を差し出すと、手の平の中へコートのボタンほどの大きさの何かが転がり込んでくる。コインのようなメダルのような、でも刻印めいたものは見えず色も無機質な鋼色だ。つるりとした光沢をのせている面を返すと、裏には細かな穴が開けられてある。
「これは?」
「オレから一方的にしか喋れませんが、通信機です。何かあった時はそれで連絡をしますから、なくさないよう持っていて下さい」
 見れば夫の右耳には補聴器のような、ごく小型の片側だけのヘッドホンのような機械が掛かっていた。<ガーデン>の清掃は基本的に一人で行われる。そのためこうして誰かと通信の必要が発生したりする事はあまりなかった。夫の職場はむしろ複数人で対処にあたるほうが普通のようで、単独任務を振られるほうが珍しいし少ないですよ、と言われたことがある。
「わかりました。お気を付けて」
 爆発物を無力化、ないし時限装置を解除したうえで、ホテル内に潜伏している売国糞野郎殿を探し出して各個撃破がこのたびの流れだ。すぐに戻りますよと言って、ロイドはホールのバックヤードから非常用階段に向かって姿を消した。
 ヨルをホールへ残して、ロイドは非常用階段を上階へ向かって登っていく。設計か建築物関連の知識をもつ者でもいるのか、爆発物は建屋の重量がかかる梁や柱に効率的に仕掛けられてあった。おかげで逆にやりやすい。知識がない者は手当たり次第だったり予想もしない場所に隠してくるので、単純に見つけるのが面倒なのだ。
 内懐から黒革の手袋を抜いて両手にかけ、最上階のフロアへ出る鋼鉄の扉を開ける。スイートがならぶ廊下を抜けて、脇目もくれずにエレベーターホールへ向かった。二機ずつ並ぶホールの天井には換気口をかねたエレベーター保守点検用の作業用ハッチがあり、そこから天井裏やエレベーターの機構部分へ行く事ができる。
 新年まであと数時間という時間帯なので、エレベーターはどれも動いておらず静かなままだった。ホールの傍らに置かれたスツールを拝借して作業用ハッチのロックを外し、天井裏へあがる。
 エレベーターの保守点検用にも確保されている空間のため、人ひとりが立って歩けるほどの高さは確保されてあるのがありがたい。足元からさしこむホールの明かりで、エレベーター四機それぞれの吊り下げ部分に時限式の爆薬が仕掛けられているのが見えた。
 東国ではメジャーな型の爆薬なので解除するのはそれほど難しくない。さすがにホールからの光量では明るさが足らないのでペンライトを点け、そのまま口へ加えて時限装置の解除にとりかかる。順番にコードを辿り、決まった順にニッパーで切断して無力化する作業はある程度の緊張感が伴った。残り時間を示す時計が間違いなく停止しているのを見届け、証拠として残しておくためにも撤去までは行わずそのままにしてホールへ戻る。
 腕時計で現時刻を確かめ、もう一度非常用階段に向かいワンフロア分降りた先は客室が設定されていない空白の階だった。バックヤードの作業用エレベーターか非常階段を経由しないと入れないフロアになっており、まるまる倉庫やリネン室として使われている。
 誰もおらずひたすらにだだっ広い素通しの空間、その壁際に作業用エレベーターがあり、やはりその目の前の天井には先ほどと同じように保守点検用のハッチが設けられている。
 梁や柱のほかにもこうしてエレベーターを爆破するのは客の避難の脚を奪う目的もあるのだろうが、こちらの作業用エレベーターへも爆薬を仕掛けている犯人グループの意図を想像してロイドは苦い表情になった。どちらかと言えば、密閉率が高いその構造を利用してエレベーター付近のものを内部から吹き飛ばすことを狙ったのではと推測できる。そう思える程度には、この作業用エレベータの機構に仕掛けられた爆薬量はほかより群を抜いていた。
 客どころか従業員ももれなく瓦礫の中へ沈めたいらしい。
 いかにも下衆のやることだ、と脳裏で吐き捨てて手早くコードを処理し、次のポイントへ――と非常階段へ向かおうとした瞬間、誰かの足音が扉の向こうから聞こえた。従業員か、それとも犯人グループの誰かか。建屋全体を貫く鉄筋コンクリートの柱やごくごく一部を仕切っている壁のほかには、ここにほとんど身を隠す場所はない。
 一番近い柱に隠れて様子を見ると、出入りの業者を装った犯人グループのメンバーが二人、紙袋を手に入ってくる。ライターで扉周辺を照らしながら、照明のスイッチを探しているようだ。
 爆薬を確認に来たと言うよりかは、何か、爆破時刻までの暇つぶしという雰囲気がある。カウントダウンイベント向けにならぶ露店ででも確保してきたのか、焼けたパンとソーセージの匂いがした。小さくスイッチが入る音が聞こえて、天井付近に並んでいる蛍光管が一斉に点灯する。
 扉の近くに座り込んでそのまま腹ごしらえを始めた二人組の背中に、ずいぶん暢気なものだとロイドは溜息を吐いた。とりあえず退いてもらわなければ外に出られない。
 幸い標的のほかには誰もいないので、一切遠慮する必要はなかった。管理官には可能なかぎり生きての捕縛を命じられているが、そこはまあ、臨機応変に、という便利な言葉の存在に前もって感謝しておくことにする。
 黒革の手袋に緩みがないかを確かめ、足音を立てずにゆっくりと柱の影から出た。距離は十数メートル、こちらに対し背中を向けているうえコンクリートの床へじかに座り込んでおり手の届く範囲に武器はなし、――立ち上がって懐か腰から銃を抜くまでには二秒か三秒、充分と判断する。
 弾数はできるだけ温存したいので、銃のかわりにさきほどまで握っていたニッパーを掴み残りの数メートルを一気に詰めた。底の固い靴音に気付いた二人組が頬にケチャップをつけた間抜け顔で振り返り、目を剥くのを妙に冷静な気分で観察する。片方の顔面、眉間を狙ってニッパーを投げ、もう片方には右腕の投擲の勢いの流れで側頭部めがけ回し蹴りを叩きつけた。コンクリートが打ちっぱなしの壁までそのまま吹っ飛んだ黒髪の男を視界の端に認め、何か言葉らしい言葉にならない叫び声を上げて銃を構えようとする眼鏡の男に向き直る。
 眼鏡のフレームは歪みレンズも割れ、盛大に鼻血を噴き出しているせいでリボルバーを支える手はいっそ笑えるほどぐらついていた。トリガーへ指がかかる前に思いきり腕を伸ばして銃口を天井へ向けるようまとめて捻り上げ、がらあきになった鳩尾へ膝頭を埋め込み沈黙させる。
 ずるりと冷たい床へ崩れ落ちていく血塗れの男を無感動に見下ろし、ついでに手からも離れていったリボルバーを拾い上げた。悪い意味で使い込まれており、必要な手入れもあまりされていない。往年の名モデルと評価される銃なのに勿体ない、と目を細めた。
 何者だこの野郎と突然背後で濁った罵声があがる。それから、オートマチックのスライドを引く金属音。あのまま意識を手放していたほうが幸福だっただろうに、と思いながらロイドは管理官への言い訳を考えた。ここは正当防衛が適当か。男の運が良ければ命を拾うだろう、もっとも、その幸運は限りなく望み薄だが。
 男の失策は、ロイドを確実に仕留めたかったら無駄口を叩くまえにさっさと引き金を引いているべきだったという一点に尽きる。仕事道具の手入れもしないような三下連中が、射撃速度で諜報員に勝てるとは思わない事だ。たった一発、ぱんっと破裂音がして静寂が戻る。
 その場へ無造作にリボルバーを放り出し、ニッパーも回収して、黒髪の男の生死も確認しないまま非常階段への扉を開けた。眉間に弾痕を穿たれたうえでもなお生きていられたら、その時はその時だろう。
 扉には外から鍵をかけ、非常階段をさらに降りていく。イベントが行われているフロアの踊り場まで来たところで上を見上げると、そこにも爆薬が仕掛けられていた。非常階段も潰す執念の入りようにいっそ感嘆する。この執念の何割かが仕事道具へのメンテナンスに生かされるようであったなら、少しくらいはWISEや<ガーデン>を困らせる事もできたかもしれないものを。
 予定外の対応を迫られたせいで五分ほど予定が押しているはずだ。あとは低層階の柱と梁に仕掛けられたものがいくつかと、最後にホールへ戻りがてらイベントホールの真下、犯人グループが押さえた部屋に寄ってそれでロイドが行っておくべき処理は終わる。
 爆破の予定時刻は新年を迎える零時。恐らくは盛大な叛逆の狼煙代わりにしたかったのだろう、今となっては順々に火花の一つも散らせない役立たずと化していっているが。
 建屋を貫く柱に巻きついた爆薬と、そこを折ればこの階より上の重さが支えられなくなるだろう梁に乗せられた爆薬を思う。仕掛ける箇所が思わず感心するほど適切なわりに、いろいろ杜撰な所が目に付くのがどうにも気になってきた。緻密な計算が得意そうな犯人像に対し、個々の構成員が暢気すぎると言うか、いい加減すぎると言うか。それとも東西和平が成った時点で、よからぬ計画をめぐらせる輩も多少平和ボケしたという事だろうか。……それはそれで良いような悪いような。
 ニューイヤーを待つ装飾や大型の花器、柱にぴったり寄せられた荷解きを待つ荷物等々に偽装された爆薬の時限装置を手際よく解除してゆき、最後のポイントへ向かう。犯人グループがみずから押さえ、真下から標的を消し飛ばすために置かれた最後のもの。事前の情報通りであるならば、その部屋には今犯人グループの数名がたむろしているはず。
 バックヤードからルームサービス用のワゴンを一台拝借し、外していた眼鏡をかけて手袋を替える。黒革の手袋でルームサービスのワゴンを押すホテルマンなぞ聞いたことがない。
 平日ならば周囲の客室では宿泊客が寛いでいる時間帯だが、今晩は違う。セントラルパーク以外にも新年を迎えるイベントを行っている場所は多く、実際、隣区のコンサートホールでは夜を徹してのスペシャルコンサートが行われておりそれを観るために部屋を取った客も多かった。ベストの中には投擲用の薄いナイフがいくつかと、上着の裾へ隠れる位置にもタクティカルナイフがひとつ。白のナプキンをかけた左手にそれを持ち、部屋のチャイムを鳴らした。……こんな日の夜に銃声でわざわざ騒動を起こす理由はない。
 中から誰何の声がして、軽く視線を下げながらマニュアル通りの返答をする。
「失礼いたします、お客様。ルームサービスをお持ちしました」
「ルームサービス? ……頼んでいませんが」
「今晩、当ホテルへ宿泊の皆様へのささやかなプレゼントでございます。どうぞ暖かいうちにお召し上がりください。ただいまお部屋の中へお持ちします」
 すらすらとそれらしい口上を述べて、ロイドは客室内部の反応を待つ。デラックスツインの客室は入ってすぐ左手にウォークインのクロゼット、右手にシューズボックスと鏡。鏡の向こうはバスルームへの入り口で、客室は大きく張りだしたバルコニーからバーリントの街が見える。警戒すべきはクロゼットとバスルームからの奇襲と、バルコニーからの逃走――と、そこまで考えを巡らせた所で扉が開いた。
「そちらの、奥のテーブルでよろしいでしょうか」
「いいや、ここでもらう」
 扉を開けてすぐ、クロゼット前の狭い通路上での受け渡しを求められ、ロイドはワゴンを脇へ寄せるついでに素早く室内を一瞥する。右手の壁の向こうの複数の気配と、夜景を眺められる位置のソファにスーツ姿の男が一人。バスルームへの扉のガラス窓は真っ暗だ。ワゴンの下段から、ナプキンが懸けられたケーキ箱ほどの大きさの荷物を取り出しながら、あくまで明るく、それでいて機嫌を逆撫でしないような口調で続ける。
「気の置けないご友人と迎える新年ですか。それも、よいものですね」
「うん? ……ああ、まあ、な」
 咄嗟にどう言い繕ったものか迷ったのだろう、言葉を選んだ瞬間に、中身が空の箱を応対役の男の顔へ叩きつけた。わぶっ、と困惑した声に反応してスーツの男が立ち上がるのを横目に、ロイドは客室ドアのすぐ横にあるスイッチで室内の照明を落とす。
 ばちんとブレーカーが落ちるような音と同時に、真っ暗になった室内で上がった声は三人分。クロゼットかバスルームからの奇襲の可能性はそこで消えた。すでに頭を箱で覆われ視界を奪われている応対役の男はその場へ残し、脳裏に叩き込んだ客室見取り図を頼りに、ソファの男と死角にいるはずの二人を無力化するためタクティカルナイフを抜く。バルコニーからのごくわずかな街明かりを背に、スーツの男は手探りで侵入者の気配を探ろうとしている。その手と、テーブルの上に銃や武器はなかった。
 二歩半で通路を抜け、動かされていなければミニバーのカウンター上に設置されているはずのクリスタルガラスの灰皿へ手を伸ばし――やや奥だが冷たく堅い感触が指先をかすった。暗闇に浮かぶシルエットで身体の向きを判断し、手にした灰皿で後頭部を殴打。ぎゃっ、と短い悲鳴にベッド付近にいたはずの二人が身構える気配がする。煙草の吸い殻が散ったのだろう、煙の匂いと灰がもうもうと舞い上がり、悶絶しながら転がる男が激しく咳き込みはじめた。
 何が起こっているのか混乱しているのだろう、箱をひっ被せられた応対役がぎゃあぎゃあと何かしら喚いている。それを完全に無視しきってベッドから起き上がろうと手をついたその腕をすくうように払い、もう一度ベッドの上へお戻り願った。腕を背面へねじり上げたうえで背の真ん中へ膝で自重をかけ、ナイフを突き出してきた残りの男の腕をタクティカルナイフを握った手で払う。遠慮なく体重をかけた膝の下で何か鈍い音が聞こえた気がしたがそれも無視した。別に肋骨の二本や三本、折れた程度で人は死にはしない。
 そろそろ夜目が利いてきたのか、腕を払われバランスを崩した男が体勢を立て直し、もういちどロイドへ向かってナイフを振り下ろしてきた。迷いなく分厚い刃で受け、ぎゃりぎゃりと短い鍔へと滑らせて外側へ勢いを逃がす。金属の焼ける嫌な匂いな鼻をついた。
 肩透かしを食らったように再度体勢を崩した男の足元を払い、ベッド下へ沈める。派手に腹から転倒したもののぎりぎり意識を保ったらしく、這いつくばる男が闇雲に空を掻くのを眺めながらベストのポケットを探り、サムカフ(指錠)を取り出す。
 先に自由を奪ったほうの男は背の真ん中をを膝で押さえ込まれているせいで身動きどころか呼吸もままならないはずだ。ただでさえボリュームのあるデュベに溺れそうな勢いで顔を押しつけられているので、もしかしたら窒息寸前かもしれない。
 比較的元気なほうから順にサムカフと猿轡をかけ、何がそんなに難しいのかよくわからないが、いまだ空き箱相手に空回りしている男のところへ戻る。突然何の見通しもきかない暗闇に閉じ込められたあげく正体不明の敵に仲間が次々倒されたとなれば半狂乱に陥るのも無理はないが、それにしても少しお粗末すぎやしないだろうか、と色々な事を棚に上げてロイドは溜息を吐いた。
 思いつくままの罵声をあげて手足を闇雲にばたつかせている男を毛足の長い絨毯の上に転がし、被ったままの箱を蹴り飛ばす。そこで部屋の照明を点け、今度は突然の明るさに悲鳴をあげた応対役の腕を捻り上げて後ろ手にし、やはり同じようにサムカフをかけて拘束した。
 うるさいので絨毯へ顔をねじ込ませたまま腕時計を見ると、上のホールでダンスが始まるまでにあと二十分。それまでに戻るというヨルとの約束は破らずに済みそうだった。返答は最初から期待していないが、一応の手続きとして尋ねておく。
「爆薬はどこにある」
 絨毯に思いきり顔を押しつけられているせいでもごもごとうまく声が出ていないが、それでも爆発物の在処を吐いているわけではないことはすぐにわかった。覚えていろだのこのままで済むと思うなよだの。もう星の数ほど聴いてきた負け惜しみに軽くうんざりしながら、ロイドは箱にかかっていたナプキンで応対役の男にも猿轡をかける。
 在処を吐かれなくてもおおむねの予測はついていた――と言うよりも、見回してみた所それらしき荷物が見えないということはクロゼット内かバスルームか、それともバルコニーか、だ。爆薬は湿気を嫌うので高い確率でクロゼットだろうと当たりをつけて扉を開くと、大振りなボストンバッグの口があいており、そこから爆薬に接続されたアナログの時計が顔を覗かせている。
 三分で処理して戻れば首尾としては上々のはず、と工具を探りながらロイドは考えた。
 警護対象は不真面目なタイプではないのでダンスが始まってもある意味安心かもしれない、とロイドは表現していたが、実際三名の警護対象者達はとても『お行儀』がよく、ヨルにとってはとてもやりやすい仕事だった。
 元々華やかな場所でも羽目を外す性格ではないのだろう。元々の素性を隠して非日常を楽しむ趣旨であるというのに、この空気に乗じて別人を演じると言うよりは、珍しいシチュエーションを純粋に楽しんでいるという印象が強い。善い人なのだろうな、と思う。政界や経済界に深く根を張れば逆恨みのひとつやふたつ珍しくもないはずだが、それにすら誠実に真摯に向き合ってきたのかもしれない、たぶん。
 伴ったパートナーが細君か恋人か、あるいはただの友人かなどヨルにはわからない。しかし時折なにごとか顔を寄せて小さく笑いあっている様子を見るにつけ、なぜこんな人達が命を狙われなければならないのだろうと寂しい気分になる。クルーズ船の上で守り通した、名前どころか国も過去も捨てて他国へ逃れた小さな家族のことを思い出した。
 ほかの客から違和感を抱かれないよう時折ソフトドリンクのグラスを受け取る以外には、特に特筆すべき異変も想定外の事態もなく、時計の針は進む。そうこうしているうちに、夜会巻きに結った髪の中、耳のすぐ後ろへ隠したコイン状の受信機からかつかつと固い音がした。
 髪を直すふりをして耳に当てると、爆薬の処理を終えたので戻る旨を夫が伝えてくる。こちらから声を送ることはできないそうなので、そのまま知らぬ顔で結い髪の中へ戻した。
 時刻はそろそろ23時を迎えようとしている。さて、娘のアーニャはもう寝ただろうか。一人で留守番くらいできると自信ありげに胸をそらしていたが、それでも家族水入らずで過ごすはずのこんな夜に一人にしておくのは忍びないため、せめて寂しい思いはだけはしないようにと弟のユーリを呼んでおいてある。以前こんな時には夫の友人である煙草屋の店主をよく頼ったものだが、今年はなにやらどうしても外せない先約があるとのことだった。なんでも知り合って長くなる夫の後輩の誰だかとつい最近関係が一段階進んだのだとか、何とか。
 連絡から数分経った頃合いで、夫がホールへ戻ってきた。約束通り、ダンスが始まる前に片付けてきた有能さに改めて感嘆する。外していたはずの眼鏡をかけている以外はどこも服装が変わっておらず髪も乱れていないので、苦労もせず終わらせてきたのだろう。警護対象に目礼をしてからその場を離れる。
「お疲れ様でした。本当にダンスが始まる前のお戻りでしたね」
「……それ自体はいいんですが」
 息もいつも通りで、やはり急いで戻ってきた様子はない。それなのにロイドの表情は険しかった。
「正直、変に拍子抜けしています。こんなに簡単に済む相手なのかと」
「ロイドさんがとっても有能だっただけという事では……ない、のですね」
「爆薬を仕掛けただろう人物像と、実際出てきた人員のレベルが全くそぐわない。それこそ<ガーデン>が貴女を出してくる必要性を全く感じないんです」
 事前に想定していた懸念事項はただの取り越し苦労だった、と考えればそれ以上の事はない。すべてを丸く収めて事件は闇から闇へ葬られ、真相は最低限の人間が知るのみで世はすべて事もなし、で終わるのが一番だ。しかし夫が感じているのはそれだけでは片付けられない違和感なのだろう。
「――あまり複雑なお仕事をしてこなかった私にはよくわかりませんが」
 <ガーデン>でのヨルの果たすべき務めはずっと、指定された相手を全力でもって<お掃除>する、それだけだった。何も考えず何も余計なことを詮索せず、ただ右から左に移していくような。目の前の売国糞野郎殿が何をして<お掃除>の対象になったのかはもちろん、想定外の戦力や罠があったとしても片っ端から破壊し障害を踏み越え、なぜ想定外の事が起こったかなんて一切考えなくてよかった。
 けれど夫は違う。最終目標だけ設定され残りは自分の頭脳を駆使しろ、なんて丸投げな指令は当たり前にある。なら彼のこれまでの経験と勘を信じるべきだと、そう思った。
「ロイドさんがそう思われるならば信じるだけです。ご指示さえいただければ、そのように。ご期待に沿えるかはわかりませんが、きっと<いばら姫>としてお役に立ってみせます」
「それは――責任重大だ」
 いいように手駒として使え、というヨルの発言に彼は何度か瞬きをして、そして最後に緊張を解いたように笑う。
「爆薬が役に立たなくなったことを知れば直接殺しにくるかもしれません。またはこのホールをまるごと人質に取るか、従業員を盾に交換条件でも出してくるか……爆薬をなんとか無理矢理使って死なばもろとも、もわりと可能性高めですね。色々自棄で来られるのでこれは素直に嬉しくありませんが。しかしやはり、そのどれもがどうにもレベルが低い」
 爆破の予定時刻は日付の変わる瞬間、1月1日午前零時のはずだった。ということは犯人グループに残されているのはあと一時間と少しで、そろそろこちらの存在に勘付いていると考えるべきだろう。
「ロイドさんは、その、何と言いますか。爆薬を置いた方をとても高く評価しておられるのですね」
「ええ、かなり頭のいい犯人です。大きな建物の設計を手掛けてきたか、土木工事や建築現場での経験がある可能性は高い。効率的にこういった建屋を損壊し、かつ人的被害を出すための方法を知っている、ある程度の学のある人物、と」
 そこまでヨルへ犯人像を説明してから、夫は口元へ指を当てて考え込む。数瞬の間があって、ここから先はあくまで現時点でのオレの推測として聞いてください、と前置きしてから彼はさらに続けた。
「類似の事件や同一犯の過去の記録があれば年齢や性別をはじめ色々絞り込めたでしょうが……とりあえず、年齢はまだわかりません。主犯の一人で全ての準備を済ませたとするなら爆薬を仕掛けた場所からして性別は男、または身体能力が高めで長身の女性。もしかしたら元運動選手とかかもしれない」
 この機に乗じて政界や経済界の人物を暗殺しようと思うほど怨みを募らせてきた――という人物像をWISE側では想定していたようだが、どうも少し違うらしい。
 怨恨だけなら色々お粗末なのは説明がつくものの、もともと理知的な、どちらかと言えば理数系の人物のはずだということをロイドは懸念しているようだ。
「ただの怨恨による犯行、なんて情緒に支配された理由とは思えなくなってきたんですよ。いかにも短絡的で感情的な犯行なんですよと言わんばかりで、冷静に最適解を求める最初の犯人像から時間が経つごと乖離してきている」
「……なんとなく、仰りたいことはわかります。最初の印象とは全然違う人みたいってことですよね。そして犯人にそう誘導されてきたんじゃないかとロイドさんは考えている、と」
 言葉を選び選び夫に確認するように言うと、オレよりよっぽど上手にまとめて下さいましたね、とロイドはどこか自分の考えに納得したような顔になる。
「そう、ヨルさんが言った通りです。怨恨による犯罪だと思い込まされてきた気がする。そしてこちらにそう思い込ませれば、何かしら犯人の特になる事があるはずなんです。それが何なのかがわかれば先手を打てるかもしれない」
 その推測はそのまま、わからなければこの先、後手に回る可能性が上がるということを示していた。
「……油断、なんて私が思いつくような簡単な理由じゃないですよね、きっと」
 やや自嘲する呟きにロイドは、そんな事はありませんよ、と真面目な顔をして続ける。
「貴女の視点はオレが考えもつかないものばかりなので、とても参考になります。もしヨルさんが犯人の立場だったらどう考えますか、こういう時。敵に対し本来の自分ではない姿を示したい時って、どういう状況でしょう」
「そういうのはロイドさんのほうが考えるの、お得意なのでは」
「残念ながらその場合の回答は一種類しかありません、オレは何から何まで嘘でできている諜報員なので」
 頭の出来がよろしいのは圧倒的に夫のほうなので、そんな言葉にヨルは首をかたむける。示される解答がなんであれ、夫の答えは自分のものより必ず優れているとヨルは思っていた。だから、この解答は考慮するに値しないと言いたげに彼が表情を曇らせるのをとても不思議に思う。
「オレが犯人の立場だったとして、本来の姿を示さないのは『そうするのが当然だから』です。……幻滅しましたか?」
 恐らく疑似家族であった頃のことを言っているのだろうと考えた。
「いいえ」
 幻滅などするはずがない。諜報員とは本当の名前はもちろん自分自身も、本音も、自身を作り上げる想い出もなにもかもを殺して、ほかの何かのために死力を尽くす人のことを言うのだとヨルは思っている。少なくとも夫はそういう痛苦を長いこと一人きりで呑み込んで、ついには伝説の諜報員とまで呼ばれるに至ったはずだ。それをどうして、幻滅などできようか。
「ロイドさん、今のちょっとずるい言い方をなさいましたよね。その答えの前には、名前も何もかも捨てて、というのが入るはずです。それはとても辛くて苦しく、寂しい過酷なものだと私は思います。誰かの、何かのために過酷な仕事に耐えることは並の覚悟では務まらない――そうでしょう?」
「……いいかげん忘れてください、その台詞……改めて考えると我ながらどの口が言えたものかと」
「忘れるわけがありません。あの時私がどんなに嬉しかったか、ロイドさんはもっともっと知っておくべきです。これからも、何度でも」
 夫相手にこういう形の勝利をおさめられるのはとても珍しいので、ヨルは会心の笑みを浮かべる。
「すみません、話が少し逸れました。改めて訊きますがなにか思いつくことはありませんか」
「そうですね……」
 我に返ってあれこれと考えを巡らせるも、ロイドを納得させられるような解答は思い浮かばない。どれもこれも子供の言うようなものばかりで、自分の事ながら少し落胆した。
「申し訳ありません、やはり私程度ではさほど説得力のある内容が思いつきません。油断とか、こちらを試しているのではとか、遊びのつもりなのではとか」
「……」
 傷つけないよう上手な言い回しで夫がそれは望み薄であることを指摘してくれる、と考えていたヨルの予想はあっさり裏切られた。最後の最後で何か、ロイドの目の色が変わった気がする。
 ホール内の照明がゆっくりと落ちてきて、ステージではダンスの最初の曲が流れはじめていた。やはり定番のワルツで、心得たように会場のあらゆる場所でカップルが手をとりあい中央へ出てくる。
 優雅な旋律にのせて円を描くようにステップを踏みはじめる数多の人影。きらきらしく飾られた仮面がホール中央に集められた照明をいそがしく弾いている。まばゆく、華やかな、それでいてどこか毒の香りを漂わせる退廃的なワルツ。
 踊る男女の群れを視線だけで捉えながら、ロイドは何か考えているようだった。急に目の前の夫がどこか遠い場所に行ってしまった気がして上着の袖を掴むと、すぐに柔らかく握りかえされる。
「……やはり、貴女の視点はオレにとって貴重ですよ、ヨルさん。少しわかってきた気がします」
「え? ……本当に?」
「はい。恐らく犯人はこちらを揶揄っている。頭のいい、目立ちたがりな賢い犯人ならやりかねない事です。ならば――お望み通り、こちらも少し遊んでやりましょう」
 聞き分けのない子供を嗜めるような口調、とも思えた。しかし色々と人としての躾がなっていない輩に教育的に指導してやろうか、という冷酷なものでしかなかったが。
「ところでヨルさん。ラストダンスのステップはまだ覚えていますか、ワルツの」
 諜報員の冷酷な顔はどこへやら、一瞬でいつものようににこやかな表情に戻ったロイドから尋ねられ、ヨルは姿勢を正す。
 ごく少数の知人を招いた結婚式で、ユーリと踊ったラストダンスを思い出す。父親役を頼もうと思っていた複数の人物に打診してみたものの、悉く断られたのは当時はなかなかに落ち込んだ。あとで揃って『こんな見当違いの所を当たっていないで唯一の肉親から打診してみるのが筋だろう』と思われていたことが判明したのは、今では笑い話だが。
「えっ、あ、はい、たぶん……恐らく、ですけど」
「結構。大丈夫ですよ、パートナーはきっと手慣れておいでなので。多少オレがつまらないって点はありますが、こんな犯人のお相手を全部丸投げしてきたWISEに後で文句でも言っておきます」
 夫の中では何かがあれこれと決定事項になったようだが、犯人相手に『遊ぶ』などと言い出したのでヨルは若干ついていけていない。
「あの、ロイドさん、ワルツって一体……私は一体何をすれば」
「諜報員としては目立つのは御法度なんですが、言い直せばこれは売られた喧嘩でもあります。受けて立たなければ相手は手慰みにするように誰かを殺しはじめるでしょう。……ヨルさん、これは、最初から『ゲーム』だったんですよ」
「『ゲーム』」
 どこか浮世離れしたようなフレーズにも思える単語を口に乗せると、なぜだか、すっと背すじが冷えた。
 今彼は何と言ったのだったか……ゲーム? 人を建物ごと爆破して吹き飛ばすような犯罪が? 最初から遊びのつもりだったと?
「……ゲームって、そんな。だって、ここに呼ばれてる大多数の方々は、何の関係もない人ばかりで」
「ええ、だから、犯人の考えていることを理解しようと思わなくていいです。知る価値もない、ゲスの考えることなので」
 警護対象者のところまで戻ってきて、ロイドは彼等に何事か小声で伝えている。いかにも大人の遊びに手慣れていそうな遠国の富豪が何度か楽しげに目を瞬かせ、それから心得たように首肯した。
「ヨルさん、こちらへ」
 何が始まるのだろう。
 おそるおそる手招かれるまま前へ進むと、丁寧に腰を折り富豪の男がヨルの手を取った。
「え。――あの、ロイド、さん、これは」
「めいっぱい目立ってきてください。大丈夫、今晩のヨルさんとても綺麗なので、簡単ですよ」
 夫の笑顔がなんだか怖い。色々な意味で。
 ごくごくまともな意味で遊びを知っている、かつ真面目な人物であることを把握できていなければこんな真似はできなかっただろう。犯人がこちらを弄ぶつもりでいる間は、衆目の前での派手な殺しで水をさす事もしないはず、という目算もあった。
 諜報員が耳目を集めるのは御法度を通り越して悪手もいいところなのだが、ここは誰もが仮面で素顔を隠す場所だ。素顔さえ見えなければいい。見られたとしてもこの顔と<黄昏>の名が結び着いてさえいなければいいのだ。結び着いてしまった者は、まあ、それはそれ。
 曲がひとしきり一巡したようでホールの中央は広くスペースがあいており、そこに一組のカップルが進み出る。見るからに仕立てのよいタキシードの男と、美しい黒髪をシンプルな夜会巻きにしたベルベットのドレスの女。深紅の薔薇を抱くように歩く男の足取りに迷いはないが、どこか不安げに手を引かれる女が双方仮面で顔を隠しているせいか妙に見るものの背徳感を煽る。
 どうみても年齢が離れている事もあって、よもや人に憚られる関係なのか、それとも女が物慣れないだけなのか、あるいはむしろこのカップルの存在さえ主催の仕込みによる演出なのか。見る側によってそれぞれ想像するバックストーリーは変わるだろう。
 犯人の目を惹くためとは言えヨルをほかの男に託す立場なので本音としては心底面白くない。さらには妻を餌にするやり口に自分のことながら腹が立つ。しかし場に出せる手持ちの札を考えるかぎり、採ることのできる選択肢も少なかった。
 自分が餌になる方法があれば理想的だったのだが、いかんせん当初は目立たぬことを優先したのでそれも難しかったのが惜しい。これからはそこの可能性も踏まえて任務のプランを練ることにしようと、そう考える。
 いまいちど優雅なワルツが流れてきて、タキシードの男のリードでカップルが踊りはじめる。何度かヨルの足取りに怪しい所はあったが、そこはやはり経験値の差だろう、見事に富豪の男がカバーし何事もなかったように表情も動かさない。
 ちらちらと仮面の奥からヨルがこれでいいのかと言いたげに視線をよこしてくるが、ダンス自体の出来はむしろ二の次で、ヨルが目立ってくれさえすれば目的は達成される。
「あまりこちらを見ないように。ダンスに集中して下さい」
 聞こえるかどうかはわからないがそう通信機に吹き込むと、やや間があってヨルは意を決したようにしっかりと前を向いた。途端にステップが安定し、周囲からも溜息が漏れてくる。
 なにぶん周到な準備のうえでゲームを仕掛けてくる手合いだ。恐らくはどこかからホールの様子をつぶさに観察しながら、これから待つ惨劇など知るよしもない客を嘲笑っていることだろう。そしてそういうタイプは自分が描いたシナリオが破綻することや、最も目立つ位置に意図しない人物が立つことを嫌う。
 もともと身体能力の高いヨルのこと、一度身につけさえすればワルツのステップくらいどうという事はなかった。加えてパートナーがたいそう経験豊富なので多少のミスは難なくカバーできているし、それが安心感に繋がったのか強張っていたヨルの口元も徐々に笑みを取り戻している。
 ホール中央部分は踊る二人のために照明が集められているが、そこ以外はかなり暗い。人相を見分けると言うよりもこの明るさでは仮面の相違を選り分けるようなものだったが、ロイドはふと眺めやったホール入り口の方向に、華麗なダンスを披露するカップルを食い入るように見つめる人影を発見する。
 ホールへ入ってきたヨルへ言い寄ってきたあの男だ。別の相手と楽しげに(踊り慣れない妻の粗を隠すことを当面優先してほしいが、できれば楽しそうに見えるよう踊ってくれるとあとあと助かると富豪には最初に頼んであった)踊るヨルを見る目は粘ついた羨望かあるいは、満たされない渇望を押し込めているように思えてくる。突然のことに驚き明らかに狼狽していた妻の反応も棚の上にして、熱心に口説いていたのだからそうもなるのかもしれない。
「――」
 と、そこまで考えを巡らせて警護対象者の様子を確認し、再びホール入り口へ視線を戻すと、もうそこに彼の男の姿はなかった。
 特に深く考えたわけでもなかったが自然と、どこへ行ったものか、ホール内を探す。すると件の男は密集する人波をするすると器用に避けて、中央で喝采を浴びているカップルに向かって歩み寄ってきている所だった。
 あれだけ見入っていたくらいなのだから次のパートナーは自分、とばかりに手を差し出すつもりなのだろうと思った。が、一瞬だけ垣間見えた仮面の奥の目の光はそんな分かりやすい、単純なものではない。口元を歪めるような笑みが見えた。
 ばちんと頭の後ろで撃鉄が降りたような錯覚を覚える。思考が急冷されていく感触は必要なピースが集まった瞬間の、慣れたものだった。それは任務上の役に入り込む時のスイッチが入る刹那ととてもよく似ている。雑多な感情と些末事を後ろへ取り残して、ロイドは暗いホール内を歩き出した。
 ――絶対に、頭の良い犯人のはずだ。そしてチェスの盤上を自分が支配することを好む。このホテルもろとも、すべて客と従業員を巻き込み灰燼に沈めることを画策すし楽しんでさえみせるような。もし成功すれば東国はもちろん、西国をはじめ和平に奔走した他国の面子も潰れるだろう。ただ魅せるためだけ、盛大に新聞の一面を飾るための虐殺。号外なんかが出れば最高だ。犯人以外は誰も望まない血濡れのショーアップ。怨恨など最初からどこにもない。叛逆のための最も都合良く見栄え良い生贄に選ばれた器、ただそれだけの。
「何かお困り事でしょうか、お客様」
 にこりと笑って男の進路上へ立つ。見覚えある顔で我に返ったのか、男はすぐにうすい笑みを浮かべて立ち止まった。
「いいや。淑女にダンスを申し込むだけの事に君の助けはいらないよ」
「失礼ですがあちらのお客様は、続けて二曲踊られたばかりです。少し休憩の時間を差し上げてはいかがでしょうか」
「うるさいな」
 笑い交じりに嗜める声音だが、ただのホテルマンに客の邪魔など許されるはずがないという傲慢が透けて見える。
「さっきから何なんだ、僕の邪魔ばかり。君は彼女の何なんだ? ボディガードか? まあありえないけどな、そんな格好のボディガードなんて聞いたことがない。どうせ君も彼女の魅力に惹かれているだけなんだろう?」
 どうせ言い返すこともできない立場のくせに、という勘違いを正すことは非常に簡単だ。何せ彼のその言い分に対し、誰よりも邪魔を許される立場の大義名分が、ひとつどころかロイドには三つもある。
 ここで全部披露して閉口させてやっても良かったのだが、よりにもよって今日という日にここまで面倒な事にされた怨みがロイドにはある。そんなに<黄昏>と<いばら姫>に遊んでほしいのなら付き合うまでだと、妻からは見えない死角であるのをいいことに、ロイドは今晩二回目になる笑い方で幅寄せした。それを見せた相手がどちらもこの男であることは、わざわざ名乗らずとも望む相手は最初から目の前にいたという証明にもなるだろう。
「そうですね、いっそ彼女のボディガードの方がわかりやすかったかも知れません。ボディガードなら貴方を問答無用でここから叩き出せたのに。とても残念ですよ」
「……だったら、何、」
 眼鏡を外して上着の内側へしまいこみ、替わりに警護対象者へ渡した仮面のスペアを取り出す。目元へ当てて、そのまま流れるように右手を差し出した。着飾った淑女をダンスへ誘うように。
 背の高い、若い男。この上背ならロイドのように、あのエレベーターホールのスツールにあがれば難なく作業用ハッチに手が届くだろう。ジャケットの上からでも見て取れる二の腕の太さなら重い爆薬を梁まで引き上げ、固定する作業も難しくなどない。衿には東国一との呼び名も高い有名大学のOBがつけるピンバッジが輝いており、なるほどそれを身につけられる頭脳を持つなら酔狂なゲームのひとつやふたつすぐに考えつくのだろうか。頭脳の役立て方を間違っているとしか言い様がないが。
「黄昏時は過ぎていますが一曲お付き合い願えますか、ミスター」
 自分が一体何を言われているのか理解できなかったのかもしれない。ひどく訝しむ顔つきで男は数瞬首をひねり、そして、明らかに息を飲む。その表情にロイドは最後の確信を得た。
 この男、自分を知っているようだ。正確には西国の諜報員の名のほうを。
「まさかお前、た――」
 ならこの先の遠慮はいらない。宙に置き去りになったままの男の手を強引に掴み、引き寄せる。勢い余って正面からぶつかりかけ、慌てて急停止し顔を上げた男の耳元へのみ届くよう低く吹き込んだ。
「どこで噂を聴いたかなど興味はないが」
 果たして藪へ手を突っ込んだのはどちらだったのか、それを知らねばならない時が来たと思ってもらうべきだろう。
「<黄昏>が遊んでやると言っているんだ爆弾魔」
 最初の混乱から立ち直ったのかぎらりと眼光鋭く仮面の下から見返してきたことを良しとして、掴んでいたタキシードの袖を勢いよく突き放した。きゃあ、だか、わあ、だか歓声なのか悲鳴なのか両方なのか、よくわからない大きな声が周囲から上がる。酔客に対応するスタッフとのトラブルかあるいは喧嘩のように思われたのだろう。
 二歩三歩と蹈鞴を踏んだものの、すぐに体勢を整えた犯人と向き合うロイドの周囲からギャラリーが後退っていく。直前の物慣れぬ様子の淑女といかにも手慣れた紳士のダンスとあいまって、おおかたはホテル側が用意したイベント用の仕込みと判断したようだ。行儀の良い、しかし壇上からのコールには気持ち良く応えるのがマナーと理解している観客から拍手が起こる。
 演出家を気取るなら観客の心くらい終演まで捕らえていてもらわなければ困る。本職ではないロイドですらそう心得ているくらいなのだ、場を支配したかったら、こんな風に横からあっけなく主役を浚われるようではお話にならない。
「お前……お前、オレを」
「お客様とて仮面舞踏会の趣旨はおわかりかと存じますが」
 表舞台に無理矢理引っ張り出されたあげく、他人が用意した望まぬ展開のいち登場人物にまで貶められ。さっきまでの伊達男の皮はどこへ脱ぎ捨てたものか、主犯の男は歯噛みしながらロイドを睨んでいる。いつのまにか別のシナリオの壇上、ギャラリーもこれまたなぜか一瞬で<黄昏>が作り上げた舞台に加担してしまっていて、これを無様と表現せずに何と表現すべきだろうか。
 吹けば飛ぶようなその程度の軽い上っ面で、弄ぼうなどとは片腹痛い。随分安く思われたものだとロイドは値踏みする目で男を眺める。
「名前も顔も別の誰か。仮面をつけるまでに名乗っていた名前も、ホールに入るまでに身分を飾っていた肩書きも、ここでは意味がありません」
 いかにもこれは仕込みの小芝居だと示すようにやや時代がかった身振りをつけて悠然と、傲然と顎を上げてホテルマンにはあるまじき態度で、距離を保ったまま半円を描くように男の側面へ回りこむ。歯軋りが聞こえそうな口元も隠さず敵意を剥き出しにする男に、どうかしたらそのまま怒りにまかせて掴みかかられそうだなと考えた。
「ですから私を意のまま、まして従えようなどとは思わないことです、Mr.マスカレード。ここは貴方が支配する舞台ではない」
 やっとダンスから解放されて警護対象者達が座る一角へたどりつき、ほっと安堵の溜息を溜息を吐いた瞬間だった。
 突然剣呑すぎる夫の声が耳元へ直接聞こえてきてヨルは肩を震わせる。急いで振り向くとその先で、ざわざわと人垣が二つに割れていった。
「おやおや」
 ヨルの視線の先を見た富豪や政治家、経済界の大物達が面白がるような囃し立てるような手拍子をして、席から立ち上がる。伊達と酔狂はいつの時代も彼等にとって好ましいものだ。
「え、あ、」
 ライトからすこし外れた一角、睨みあうように向き合う背の高い人影が一組。片方の背中は決して見誤るはずもない、夫のものだ。それからもう一方はどこかで見覚えがあるようなないような、夫よりも少し年齢が下のよう思える若い男性。上品な光沢のタキシード、それから仮面のデザインに引っかかるものを覚えて記憶を探り、そこでようやくヨルは会場入りして早々に言い寄ってきた相手であることを思い出す。
 ……って、そんな相手に何していらっしゃるんですかロイドさん、と口に出せばあまりにも素っ頓狂な声になりそうで、ヨルはぎりぎりの所でなんとか呑み込む。
 驚けばいいのかこのままひとまず待てばいいのか、それとも通信機を通して聞こえた言葉が示す通りにドレスの下へ隠した武器を抜けばいいのかヨルにはわからない。
 爆弾魔、と断じたロイドの低い声は、相対しているあの男がこの事件の主犯であることを示している。しかしこの場はどうしようもないほどの衆目の場で、まして無関係の人々が手を伸ばせばすぐそこにいる。飛び道具ではないので銃をはじめとした火器より抑制は効くと言っても、こんなに人が密集した場所でスティレットを振るわけにはいかない。
 けれど、先刻夫が言いのけた『遊ぶ』という言葉の意味がやっと理解できた気はした。殺戮の演出家を気取っていた爆弾魔を、夫は逆にヨルという目立つ餌をちらつかせることで壇上へ引きずり出し衆目に晒したのだ。耳目を集めたがらない夫がタブーを踏み越えてこんな真似をするとは思っていなかったが、なぜか気掛かりには思わない。無茶なことをしているという心配よりは、彼が言うところの『遊び』がいかなるものか、それを最後まで見届けたい欲のようなものがある。
 数多の思惑渦巻く東国で、本来の身分も素性も隠して元首相に接近し東西和平を確実なものにした諜報員その人と、主犯のはずの男は知っているのだろうか。それとも何も知らずに、この舞台上へ連れ出されたのだろうか。
 しかしもしも知らずに『遊び』に誘われたのだとしたら、彼にはとても不幸な未来が待っているような気がする。最初に考えた、まともなありさまで警察に突き出されることは望めないだろうという予想と、さして大きな違いはない。
 叛逆のしるし、あるいは開幕を告げる狼煙のような花火のような、人を人とも思わないゲーム。一方的に命を刈り取らんとしたという理由で糾弾するのなら、ヨルにその権利はない。むしろ糾弾されてしかるべき側であることはわきまえているつもりだ、そしてそれは夫も似たようなもの。けれどただの一度も何かの手慰みのように摘み取った覚えはないし、最低限の信念と根拠はあった。けれどあの男にはそれがない。東西和平に異を唱えたいのなら、無関係の命を巻き込まずにやればいい。和平を実現した人間を貶めて鬱憤を晴らしたいなら、スキャンダルでも執拗に嗅ぎ回ってゴシップ誌へ売ればいい。……こんな計画、頭の良い人間が選ぶべき選択ではなかったはずだ。
 胸苦しい思いで喉の奥に詰まっていたなにかがすとんと下へ落ちていく感覚。夫から、これは最初からゲームだったのだ、と知らされてからずっとわだかまっていた気持ち悪さが薄れていった。
 ああ、と声もなく嘆息してヨルは天井を仰いで目を閉じる。
 こういうことだったんですね、店長。私がなぜこの場に呼ばれたのか。なぜ私でなければならなかったのか。ええ、これは確かに、<黄昏>の妻<いばら姫>が責任をもって<お掃除>しなければならない相手です。多数の、無辜の、まして自分以外の命をもって主張を力ずくで認めさせ押し通す、そんな思想は和平後の世界へ持ち込ませてはならないとても危険なもの。ともすれば銃弾や爆弾や毒ガスよりも強力で、人の心を害して思考を黒く侵すもの。ああ、それはなんて怖ろしくて危険なのでしょうか。でも討ち漏らす予感は微塵もしません、どうかご安心くださいね。
 ――だって私、売国糞野郎殿を討ち漏らしたことなど今まで一度もありませんもの。
「何を言っているのか理解できかねる……! 私は、」
「まして淑女をダンスに誘うなら気遣いを、紳士を気取るなら礼節を。それが当然の心構えではないでしょうか。さきほども申し上げた通り、今は休憩の時間を差し上げるのが物事の道理です。こうも聞き分けがないと意中の女性に失望されるばかりでは?」
 ギャラリーから控えめな失笑が漏れる。そこでようやく男は自分がこの何もかも不本意すぎる舞台で、具体的に、どれほど情けない役回りを振られてしまっているかを理解したようだ。
 あでやかなはなやかな、女神のようでいてどこか初心で危なっかしい美しい女を、誰が見ても完璧にエスコートしてみせたどこをとっても大人の余裕ただよう男という、想像をかきたてる謎のカップル。そこへ現れた無粋な横恋慕の若造、というのがそれだ。
 主犯の男との接触の最初から周囲に会話を聴かれていることを踏まえたうえでの『配役』だが、なかなか我ながら当たらずとも遠からずではとロイドは思っている。と言うか、むしろこのくらいの意趣返しは許されたい。こちとらさっきから妻を他の男に託したり何だり、とにかく面白くない事続きなので。
「だから、そうやってでまかせばかり次々と! 取り消せ!! 僕はもっと高尚な目的をもって、ここに、……!!」
「高尚? 高尚な目的ですか? ――身分を隠した仮面舞踏会に?」
 どう思いますか皆さんこの言い草、とばかりにロイドが両手を挙げて観衆を見回すと、囃し立てるように手が叩かれ笑い声があがる。さらに怒りをヒートアップさせるどころか、主犯の男の顔がだんだん青褪めてきた。
 どう反駁しようが何を言ってもさらに泥沼へはまりこむ罠へ掛かっていることに今さら気付いてももう遅い。話術で諜報員を出し抜けるなど、夢にも思ってはいけないのだ。
「どうやらお客様にとって、このパーティーは色々とまだ時期尚早だったのやもしれません。もちろん当ホテルといたしましてはいつでも再度のお越しをお待ちしておりますので、今後ともどうぞよろしくお引き立てのほどを」
 ホテルマンのお手本のような口上を述べ、ホールの出口を指し示す。仕込みありの小芝居と疑わない観客はこれで一連のサプライズが終演したと信じ込んで喝采を送り始めた。これ以上ここに残ってもさらなる恥辱を被るだけだと判断したのか、主犯の男は凄まじい形相で人混みをかきわけ観音開きの扉へ向かってざかざか歩き去っていく。肩で風を切って歩くその様子がいかにも小芝居に徹するそれっぽい、とひときわ大きく拍手を送られる羽目になったという彼にとっては泣きっ面に蜂、文字通り踏んだり蹴ったりの結果だったはずだ。
 少し離れた場所から様子を伺っているていの妻を振り返り、つい先ほどまでの『困った客を嗜めるスタッフ』の空気を取り払ってこちらへ来るよう手招く。一方で協力を願った富豪と警護対象者へは丁寧な挨拶を送ることで、彼等はあくまで客であり、これが客を巻き込んだサプライズであるという印象を植えつけておいた。
「このまま出ます。恥ずかしいでしょうが、適当にオレに合わせて観客に手でも振ってあげて下さい」
「が、がんばります……」
 ヨルにだけ聞こえるよう耳元で囁き、主演女優をエスコートしながらホール出口へ向かう。本物のホテルスタッフはこんな演出があることなど一切聞かされていないので唖然としているかもしれないが、あとでWISEからアフターフォローを入れてもらえばそれでいい。主犯に会場に入られていた時点でどうかしたらあの場にいた全員を殺害されていたかもしれないのだから、これで充分に結果オーライではあるのだ。
 すぐに駆け出してあの男を拘束したい気分をねじ伏せつつ、不審がられないよう愛想をふりまいてホールを出て、ことさら丁寧に扉を閉じる。あれだけの衆目の場で突然女優のようなお手振りを要求された妻の耳元は真っ赤だった。
「……本当にすみませんでした、あとで恨み言はたっぷり聞きます。今はあの男を――」
「あの、ロイドさん」
 両手でホールの扉を押し戻したまま赤い顔で俯いているヨル。
 とんでもない無茶振りをした自覚はあるので羞恥のままに繰り出される拳の二つや三つは覚悟していたのだが、彼女は何度か気分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返したあと、怒ったりしていませんから安心してください、と前置きしてから顔を上げた。
「私もあとできちんとお伝えしようと思いますが、今はあの犯人を追わなければいけないので、手短に――」
 勝手に主演女優に祭り上げられたことへの恥ずかしさやその恨み言でないとしたら一体何なのかと思っていたロイドの上着の袖口へ、躊躇いがちに白い指が置かれる。数瞬言葉に迷う間があってから、ヨルはこぼれ落ちそうに潤む瞳で見上げてきた。
「私、ロ、<黄昏>さんが西国一の諜報員であるという事実を、今晩はじめて、ほんとうの意味で見せていただいた気がしているんです」
 妻とは互いの正体を明かしあってからこれまでに、ほんの何度かではあるが共同戦線を張ったことがある。そのたびにロイドさんこんな事がおできになるなんてすごいです、ほんとうにすごいです、と子供のように純粋な感嘆と賞賛を贈られた。それが嘘だったとは思わないが、今彼女が口にした台詞は、どこかこれまでの賞賛とは質が異なるもののような気がする。
 もっと重く深い意味を持つもののような、そんな気がする。
「ですから彼は私が、あとはこの<いばら姫>が、必ず」
 果たして今晩のどの場面で彼女がそう思ったのかはわからない。一体自分のふるまいの何が妻の心の琴線に触れたのか何もわからないものの、ロイドは妻のその言葉をひとまず素直に受け取っておくことにした。
「ありがとうございます。本当に何度も言うようですが頼りにしていますよ、<いばら姫>」
「はい」
 おまかせください、と思いのほか力強い首肯と曇りのない笑顔が返ってくる。行きましょう、と冬の外気を感じる非常階段の方向へ促せば、ヨルは仮面をはずしドレスの下からスティレットを抜いた。
 上着の中からオートマチックを取りだしつつ非常階段への扉を開けると、この三十分ほどのあいだに降り出したのだろう、粉雪がちらついている。花火が中止になるほどの降り方ではないので、野外でのニューイヤーイベントは滞りなく行われるはずだ。耳を澄ませば、甲高い足音が上へ上へと登っていくのが聞こえる。
 カッ、とピンヒールの靴音も高らかにヨルは非常階段を二段飛ばしで駆け上がりはじめた。行く手を塞がないよう後方から追いかけ、螺旋を描くスチール階段のすきまから上を覗く。先行する靴音はそろそろ屋上まで辿り着くだろうか、と思った瞬間、何か黒光るものが手摺りをこえて螺旋階段の真ん中へ突き出された。
「――ヨル!」
 それが何なのか、を判断する前に腕が伸びる。狭い螺旋階段の途中、咄嗟に建物側へ向かって妻の身体を抱きとめると、一瞬前までその右脚があった箇所を銃弾が撃ち抜いていった。続けて3発4発と、甲高い着弾音にのせて火花が散る。
 撃ち尽くしたのか、チッ、と舌打ちの音が聞こえ、続いて足音が上へ上へと登っていった。
「怪我は」
「どこにも。ありがとうございます」
 その場で放って捨てたのだろう、上から大きな金属音をさせて空と思しきマガジンが降ってきた。……下に誰もいなければよいが。
「援護します。先へどうぞ」
「承りました」
 一瞬だけヨルはタイミングを計るように上の様子を伺い、それから意を決したように再び階段へ足をかける。その間に消音器をねじ込み、螺旋階段の軸とも言うべき円の真ん中、下から上まで貫いている空洞の部分から身を乗り出し最上階へ向けて数発。あえて的は絞らずにおいた。
 弾が跳ねたのか、ぎゃっと小さく悲鳴が聞こえる。
「畜生……畜生ッ、どいつもこいつも俺をバカにしやがってッ……!!」
 支柱か手摺りでも殴ったのか蹴ったのか、がんっ、とひときわ大きな金属音。構造で音が反響したのか思わずヨルが耳を押さえた。それでも階段を駆け登っていく脚は止めない。
「お前達さえ! いなければ!!」
「詭弁だな」
 ばらまかれる声音がいっそ哀れを誘う。クソが、何故俺がこんな目に、あああ畜生、畜生、だんだん最後に残していたはずの冷静さも失ってきた。すぐに交換できるよう予備のマガジンを抜いてから、声が聞こえている高さを狙い二発。
 そのまま隠れ続けていればいいものを、正気とも思えぬ叫び声を上げて、螺旋階段の中央の空洞へと身を乗り出してくる主犯の男。あああ、と意味を成さない絶叫に乗せて続けざまにロイドの周辺へ火花が飛んだ。半径が短いためその構造上、踊り場以外ではできるかぎり外周を選んでいれば跳弾以外、あまり恐れなくていい。そして予測不可能な方向へ行くものと決まっている跳弾を必要以上に恐れたところで、運と時間の無駄遣いだ。
 先行して階段を登る妻の手が、くるりと鈍い金色のスティレットを回して逆手に握りなおされる。ぐんっと登る速度があがって屋上が近いことを察した。
 弾倉を入れ替えてスライドを引き、そこまでは外壁に沿っていたものが途中から屋内に引き込まれるかたちの最後の踊り場でヨルを追い抜く。登りきった階段の先、キイ、と細くきしむ塔屋の扉が吹きさらしの風に揺れていた。屋上特有の、地上より強い風。薄く積もった粉雪が渦を作って舞っている。
 ――扉の先、左手にあるのは給水塔とエレベーターの機械室、それから館内からの排気口。右手は季節のよい間、ビアガーデンとして開放されている平坦な、素通しの空間だ。転落を防ぐための柵が二重に巡らせてあるがその先はバーリント市内が一望できる。潜むとすれば必ず左手。いや、陰湿な策をめぐらせる性格からすれば、――。
 屋上へ踏み込んできたロイドの背後、非常階段の塔屋から回りこむ人影。荒い呼吸音に振り返るのと銃口が向けられるのとは同時だった。深夜の、真冬の冷たい風が頬を叩く。
 はは、は、と痙攣するようにひきつったように笑い、もはや伊達男の面影など微塵もないゆがんだ顔で男はことさら見せつけるようにトリガーへ指をかけた。
 果たして彼は真横から一直線に銃をかっさらっt
※配信三万字までだそうです!
取り急ぎ別配信立て直します~
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仮面舞踏会の夜
初公開日: 2022年08月25日
最終更新日: 2022年09月07日
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コメント
ニューイヤーかクリスマスでホテル貸し切っての上流階級の仮面イベントを舞台に極悪犯罪組織の暗殺計画阻止なり爆破テロ阻止なりで潜入し共闘するふぉじゃ夫妻的な何か
https://twitter.com/azuki_tentya/status/1562733198890582017?s=20&t=QYulhRBvSvJNkzYglCzITg
恥ずかしいアレ
うにょこさんの台詞100選のあれ
佐伯都
ちちとははいちゃいちゃしろ
タイトル通りのちちとははいちゃいちゃしろ的な何か
R-18
佐伯都
仮面舞踏会の夜
三万字こえてますよ!とアラート出て進めなくなったので続きはこちら
佐伯都
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