怖い夢を見た。内容はあんまり覚えていないんだけれど、何だかとても怖い夢だった。息が上がって動悸がおさまらない。汗で背中にべったりと張り付いたパジャマは、ひどく冷たくて気持ちが悪かった。
携帯電話の画面が灯っている。6月10日、深夜2時。嫌な時間に起きてしまった、と私は思った。画面に指を滑らせて4桁のパスワードを打ち込む。先日友人に不用心だと怒られたが、実際こんなもんだろうとその時は思った。ストーカーだとか殺人事件だとか、そんな偶然は滅多に起こらない。そう、滅多に。今になって少し恐ろしくなる。滅多に起こらないということは稀には起こるということなのだ。今ならどんな偶然も起きてしまう気がして、窓の方を振り返ることができない。
あの人は今日も起きているのだろうか。いつ眠っているのかわからないあの人は。電話帳を開き、履歴のいちばん上に表示された番号にコールする。きっかり3コール後、受話器をあげる音がした。
「どうかしたのちーちゃん、こんな遅くに」
聴き慣れた声に少し動悸が治まるのを感じる。よかった、起きていた。
「ちょっと……」
「何、怖い夢でも見たの? しょうがないなあ。山上さんが落ち着くまで相手してやるよ。暇だし」
相手、と行っても別に話すわけではない。電話をかけっぱなしにして、ただこの山上という男の生活音をBGMに眠るだけだ。固定電話特有のガサガサした音が耳に心地よい。
皿でも洗うか、とひとりごちた山上の声が離れていき、遠くの方で控えめな鼻歌が始まる。
そして私はまた、夢の中へと落ちていった。
「……寝たかな」
静かな寝息だけが聞こえる電話口。この世で最も愛おしい、可愛らしい声。驚かさないように受話器を置いて、自分も布団に潜り込む。ひどく眠たい。時計の針は3時ちょっと手前を指しており、当然と言えば当然の話だった。もとより山上は夜型の人間ではない。こんな時間に起きてていいはずがないのだが、ちーちゃんが起きてしまったのだ。仕方がない。
ちーちゃん。彼女は本名を本橋千鶴という、東京の大学生だ。最近アルバイトを始めて、帰りが遅くなっているらしい。疲れからだろうか、頻繁に悪夢で目覚めては俺に電話をかけてくる。
俺と彼女が出会ったのは俺が社会人2年目のとき。東京のアパートで隣の部屋同士のご近所さんだった。朝の出発時間がほぼ同じだったことから親しくなり、いつしか俺は彼女に好意を抱くようになった。当時一度、千鶴の部屋を訪れたことがある。……彼女が大学に行っている隙に。要は不法侵入だ。彼女の部屋のコンセントに盗聴器を潜ませた。
幸いにも彼女がそれに気づくことはなく、こうして俺が東京を離れた今も監視は続いている。欲を満たすためじゃない。俺が千鶴を支えてやらなければ、ナイトたり得なければならないのだ。彼女が起きているときはいつだって、俺も起きているべきだ。彼女が泣いているなら、俺が慰めてやらないといけない。でも。
それは本当に、ナイトのする範疇のことなのだろうか。
以前に訊かれたことがある。「山上さんはいつ寝てるんですか」と。
「はは、内緒ー」
「えー、なんでですか、山上さんのケチ」
「ケチって言った方がケチだっての」
「小学生ですか」
「ちーちゃんには言われたくねえ」
彼女はそれはおかしそうに笑った。すごくすごく可愛くて、ああもう、俺のもんにならねえかなあ、と思った。その瞬間はもう正直ナイトでいることなんかどうでもよくって、俺はただ、この子が欲しいと願ってしまった。
それがよくなかったのかもしれない。
過ぎた願いだった。千鶴を俺のものにしようなんて、俺が千鶴だけのものになろうなんて、そんな傲慢が許されるはずがなかったのだ。
ちーちゃんが起きる。俺も起きる。ちーちゃんが眠る。俺も眠る。単純な、たったそれだけのことが俺の生活を蝕んでいった。眠い。眠い。朝まともに起きられなくなった。食事が喉を通らなくなった。それを隠すために、ちーちゃんのための俺でいるために、俺は東京を出たのだ。
それからの俺の生活は、ただ「ちーちゃんのための俺」を保つことだけに費やされた。こんなもの、もう騎士でも何でもない。ただの執着だった。こうなったらもう死ぬまで彼女のために生きようと、それだけが俺の全てだった。
9月27日、明け方4時。今日も受話器が鳴る。動かない体に鞭打って、きっかり3コールで出る。
そして俺は、大きな過ちを犯した。
「今度はどうしたの、ちーちゃん。また怖い夢でも見た?」
「…………」
「……ちーちゃん?」
沈黙。静かな、呼吸の音だけが聞こえる。でもそれは眠っているときのものとは明らかに異なっていた。
ややあって、彼女はゆっくりと息を吸い、こう言った。
「……やっと、尻尾を出してくれたね」
電話の向こうで、山上が息を呑むのがわかった。薄く微笑んで私は口を開く。
「ねえ山上さん、どうして私の声がそっちから聞こえるの?」
「ち、ちーちゃん、……声って、ど、どういう、」
「私の声がするの。今、話してる、そのまんまの声が。……ねえ、山上さん。イヤホンはしてる?」
「…………う、嘘だ……、そんな」
やっぱりね、と呟いて、人差し指で自分の唇をなぞる。ゆっくり、子供に言い聞かせるように続ける。
「山上さん、すっごく眠かったんでしょ。だから盗聴器のイヤホンを、つけ忘れたんでしょ」
「ち、違う、俺はただ、」
完全に狼狽えている。それはそうだ。だって山上は、盗聴行為がばれていないと思っていたのだから。ああ、なんていじらしくて、可愛らしい。
「いいんだよ、山上さん。……ごめんね」
「……ちーちゃん」
「私ね、知ってたの。山上さんが私を見守ってくれてたこと。盗聴器のことも、ずーっと前から知ってた。不思議だったの、どうして山上さんはいつも起きてるんだろうって。でも少ししたらわかった」
嗚咽が聞こえる。ああ泣かないで。責めてるんじゃないの。
「……盗聴器に気づいたときは私、すごく幸せだった。山上さん、私のこと見てくれてたんだって。私のためだけに起きてくれてたんだって。そうでしょ? 嬉しかったよ」
高くなる泣き声をバックに続ける。
「私、あなたを傷つけたくなかっただけなの。あなたに、ずーっと、私だけの山上さんでいて欲しかったの。でも大変だったよね、きっと私のせいで生活もめちゃくちゃになっちゃったよね」
もう床とか服とか、べしょべしょじゃないだろうか。拭うタオルはあるだろうか。今すぐに抱きしめてあげたくて、できない歯痒さに下唇を噛む。
「もう、頑張らなくっていいよ。私のために生活しなくていい。これからは私が、山上さんのために生きる番だから」
そこで言葉を切る。しゃくり上げる声が落ち着くまで数分間、私はただ携帯電話に耳を当てていた。しばらくして深く呼吸を繰り返すだけになった彼に、私はひとつの提案をした。
「ね、山上さん。……元気になったら、私と一緒に暮らしましょう」
この言葉は、届いているだろうか。盗聴器から、受話器から、二重になって聞こえているはずのこの言葉は。届いてくれてるといいな。だってこれは、ストーカーからストーカーに向けた、一世一代の、プロポーズなのだから。
手の中の、指輪ほどの大きさの盗聴器。彼の家にもお揃いで置いてあるそれは、歪な私たちにぴったりだ。