延髄から悪寒が駆け下りて、俺はすぐさま姿勢を低くした。
 チリ、と長くない頭髪が切られた音がする。遅れて風。反射で閉じようとするまぶたをこじ開けて、今まさに凶器を振り切った女の姿を視認する。
 長い黒髪の女だった。「美しい」よりも「恐ろしい」が先に来るような雰囲気で、しかし顔立ちは整っている。彼女の恐ろしさは容姿ではなくその生き方を由来とするもので、前金を含めた報酬次第でどんな依頼でも受けるような仕事をしているのだから当然といえば当然だった。
 しかも、その前金が「殺し合い」というのだからなおのこと。
 視線の合った目がまるで獲物を見るかのように爛々としていて、あぁまだ客扱いはされていないのだなと脳の呑気な部分が理解した。
 そして、冷静な部分が体を動かす。折りたたんだ膝を伸ばし、凶器を振り切ってがら空きになった女の脇腹へ前蹴りを叩き込んだ。
 間延びしていた時間が流れを取り戻す。
 思っていたほどの手応えはなかった。女は数歩下がっただけの位置で、何事もなかったかのように平然と立っている。
 惜しいな、と思った。命のやりとりを純粋に楽しめるのであれば、それを活かす場所なんていくらでもある。身体能力だって申し分ない。そもそも、そうでなければこんな変人の趣味じみた前金など誰が払うだろうか? いくら金がなくても、報酬ではなく前金で自分の命を賭ける客などそうはいまい。よほど自分の腕に自信があるか、他にどこも頼れない切羽詰まった状態でなければ。
 自嘲ざまに呼吸をひとつ。切羽詰まっているのは他でもない俺だ。
 ふらりと目の前の女が重心を揺らして、手にした短刀が再び動き出した。胴体ごとしなやかに振り切る刃は、短刀とは思えないほどのリーチでこちらに迫って来ることを、俺はもう知っていた。
 下ろしていたままになっていた右手をホルスターへ。銃身を抜いた位置で腰だめに撃つ。
 凶器を振り始めていた女は、しかし銃声よりも速く反応した。元々不規則な動きに粗い狙いでは敵うはずもなく、避けるための動きもわずかなものだったが充分だ。
 無理矢理に軌道を修正した刃の動きなら、まだ見切れる。トリガーからは指を外して、熱を持つ銃の背で短刀を受け止めた。
 ヒュ、と女の呼吸が聞こえた。
 さっきまで獲物を見据える獣の目をしていたのが、幾分やわらいでいるようにも見えた。──その細い顎の下に、銃口を突きつけられているというのに。
「本当の殺し合いをする必要は、ないんだよな?」
 左手の銃で女の命を握りながら、俺はなんとか言葉を絞り出した。
「もちろんですわ」
 女の赤い唇が言葉を紡ぎ出すのを、俺はどこか他人事のように聞いていた。
 黒々した瞳から目が離せない。しかし、銃を突きつけた左腕の下で、女の短刀も俺の腹を狙っていた。延髄から降りた悪寒が、今度はこびりついて離れない。
「わたくしが感じたいのは“これ”ですもの」
 もしも女が同じ悪寒を感じているのならば、到底理解できない趣向だった。
 とはいえ──どうやらこの変人を満足させることはできたらしい。
「それでは、改めまして……はじめまして、お客様」
 女は凶器を引かないまま、平然と言った。
「この“なんでも屋”ユアンに、どのようなご要件で?」
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前金は“命のやりとり”で
初公開日: 2022年06月11日
最終更新日: 2022年06月11日
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