黒革のソファーに深くもたれかかると、しなやかな革は柔らかく次元の背中を受け止めた。きしむ音を背に胸元を探ると硬い手ごたえ。使い慣れたライターと箱から一本、重い銘柄を取り出して咥える。そして慣れた動作で火を着けるが
(……ん?)
口内に広がるはずの重い苦みも鼻をくすぐる煙の匂いもしない。違和感にあたりを見渡して、ふわふわとした光景に一人納得してより深々と背中を黒革に埋めた。
「あー……はいはい」
味のしない煙草をブラブラと弄ぶ。退屈しのぎにもならないそれにもすぐ飽きて、背もたれとぶつかって浮き上がっていた帽子を強く押さえつけた。
(早く終わってくれねぇかね)
音も味も匂いも、何も刺激がない世界に黒い幕を下ろす。そうして終わりを願っていると、思ってもいない変化が訪れた。
(こりゃあ……?)
スン、と鼻を鳴らす。一人で占有していた広いソファーの両隣に重みと温かさ。
右側のそれは華やかで甘い匂いをまといながらぺたりと身体に寄り添う。肩に重みを感じると、次元のこけた頬をさらさらとした何かが撫で上げた。
左側からは涼やかで青い匂いが立ち込めると、膝に控えめな熱を感じる。
何事か、と左手でつばを跳ね上げる。すると開けた視界をすぐに目映いブロンドが埋め尽くしてしまった。
ぱちぱちと瞬きを数回繰り返し焦点を合わせると、下からのぞき込む双眸二つとパッチリと視線がかち合った。
「なんだこりゃ」
思わずこぼれた本音。しかし二人は取り合わず、右の踊り子は艶やかな紅の乗った唇を蠱惑的に持ち上げ、左のメイドは色素も薄い唇を真一文字に引き締めた。
「ルミとユミ、だったよな?」
それぞれと向き合いながら名前を呼ぶとメイドは硬い表情にほのかに朱を差しながら頷き、踊り子は大きな瞳を片方だけ閉じて答えた。
以前の仕事で五右エ門が化けた女が、しかも二人同時にいる不思議。しかし次元はさして深く考えることもなくすっかりふやけた煙草をぷらぷら動かすと、やに下がった笑みを隠すことなく二人へ向けた。そしてソファーの背もたれにかけていた両手を持ち上げると、わきわきと指を蠢かしながら細い肩へと躊躇なく伸ばした。
「おわっと!?」
しかしそれも同時にされたしっぺ返しで遮られてしまう。痛みはないが手ごたえはしっかりとあったので条件反射で手を引っ込める。わざとらしく手をぶらぶらと振りながら二人をねめつけると、それ以上に冷たい視線。
湧き上がる不満を押さえつけながら再び手を伸ばそうとするが、今度はそれより早く叩かれてしまった。
腕を組んで厳しさを増した目で見降ろすユミ、華やかな微笑みがすっかり消えて唇をへの字に曲げてしまったルミ。冷たい視線に挟まれてさすがに分が悪くなった次元はおとなしく降参を示すために不埒な両腕を高く掲げた。
「……どっちかって事か?」
深々と頷かれて掲げた両手を下してくせ毛を搔き乱す。
「どっちもお前だろお前ら! くそっ、訳がわかんねぇ!」
悪態を吐きながらぐしゃぐしゃと乱した髪の隙間からのぞき込む。
長くしなやかな金色のポニーテールをふいっと翻してすっかりそっぽを向いてしまったルミ。細くすっきりとしたラインの顎の下へと伸びる首の中ほどにはシンプルな作りのチョーカーが巻かれている。その下に顔と身体の変装の繋ぎ目が隠されていて、そこそこ頑丈に作られていたにも拘らず、彼はそこから引きちぎって素顔を現した。
逆隣のユミは能面のように表情を凍らせたまま俯いている。マスカラでより太く濃く強調されたまつ毛が長い髪の隙間から覗いている。彼はそれを無造作につかみ取って、疲れた表情を浮かべながら艶やかな黒髪を開放した。
「あー、うん」
(なんだかなぁ)
懐かしい思い出に背中がむず痒くなるのを堪えながら、次元は一人深々と頷いてから天を仰いだ。不思議そうに見つめる二人へ小さく目じりを緩めると、そうっと同時に手を伸ばした。
拒絶されないと確認してから、煌めく金髪を優しく撫でさする。同時にふわりと華やかで魅惑的な薔薇の香りと可憐で爽やかな鈴蘭の香りが鼻をくすぐったが、最初のような高揚感は湧き上がらなかった。
「悪いなお二人さん」
かき回すように撫でながら背もたれに背中を埋めてぼんやりと靄が立ち込める中を見上げる。すると花の香りが徐々に遠ざかって、代わりに嗅ぎ慣れた匂いが次元の身体を包み込んだ。
いつか、仕事に間に合わなそうだとルパンにせっつかれて迎えに行った初夏の、彼と自分たちしか知らない山奥。そこで約束も忘れて滝行に精を出していた五右エ門に文句を垂れながらしばらく見守ってしまった時の、冷たい飛沫が霧となって自分を包み込んだ。その時に嗅いだ──
『次元』
「起きろ。寝汚い奴め」
温かい布団を引きはがされ、おまけに強めの往復平手打ちを何発ももらう。まどろみから強引に引きずりおろされた次元は乾燥でしょぼつく目をこすりながら、布団が無くなって軽くなった身体を起こした。見渡せばレースカーテン越しの日差しは高く、遠くの街からの賑わいも小さいながら活気に満ち溢れたものとなっていた。
「うなされておったぞ。二日酔いか?」
「いや、そんなに悪い夢でもなかったんだが……」
「いいから起きろ。水でもおじやでも良いから腹に入れろ」
寝癖が絡まった髪を掻く姿に鼻を鳴らして笑うと、取り上げた布団を畳みだす五右エ門。清潔な生成りの長着が朝日を受けてきらきらと輝くのを目を細めて眺める。
長めの後ろ髪が二つに分かれて、皴のない衿からすっと白いうなじが伸びる。何よりも目映いそれと夢の中で煌めいていた金髪、異なる花の香り、そして最後に自分を包み込んだ水の匂い。とりとめもなく思い返していたらいつの間にか五右エ門の傍によっていたようで、疑問しかない目で見上げられていた。
「どうした次元?」
「あ、んー……」
無精ひげがあちこちに伸びる顎を掻く。夢の話をするのは無性に気恥ずかしくて仕方なかったが、それしか理由がないのだから、と腹を括ると寝癖が付いた顎髭を伸ばすように撫でつけた。
「夢の中でな、お前がもうちょっとの所で出てきてくれそうだったんだよ」
「……なんだそれは」
思いっきり形のいい眉毛をしかめて、乱暴に布団を叩くと近くのテーブルに置いてあった水差しをコップごと次元の乱れた寝巻の胸元に押し付けた。ガラスを伝う水滴が布地や体毛に染みわたっていく冷たさに慌てて受け取り、そのまま水差しを傾けてコップに注ぐ。すぐに薄っすらと靄をまとうそれに唇をつけ、乾いて粘つく口内へと一気に傾けた。キン、と硬く冷えた水が食道を通り抜けて背筋がふるりと震える。水が身体に染みわたって、まどろみが遠ざかった隙間に生気が湧き上がってくるようだった。
「人を勝手に夢に出すな」
二杯目を注いだのを見届けてから強引に水差しを掻っ攫う五右エ門。身体を翻した勢いで柔らかな黒髪がふわりと風にのる。そこからのぞいた耳たぶとうなじは、先ほどまでよりも血色が良くなっていた。
「ん? 確かお前さんの国だと夢に出てくるのは……」
「知らん」
「お前が言ったんだろ? 忘れたのか?」
「知らん。知らんったら知らん!!」
身を乗り出して肩からのぞき込むも頑なに顔を背ける拙い仕草に、腹からこみ上げる笑いを喉でかみ殺す。漏れ出たそれでますます意固地になる五右エ門の横顔にかかる髪を指でひと房とって、さらさら零れ落ち切ってしまう前にすっかり真っ赤になってしまった耳たぶにかけた。
「まぁ、お前が一番だって話だ」
そして燃えるように熱い頬、の少し上。頬骨に冷たい水で湿った唇を寄せると。わざと濡れた音を立てながら熱をほんの少しだけ奪い取った。