あねさま、あねさま。そうやって襤褸の裾を引く。すると、袖を引かれた彼女は血相を変えてその裾からミスタを引っ剥がした。すぐさまかがんでミスタの手を取り、「お部屋に戻るのよ」とだけ伝える。その眼差しにはまるで命乞いでもするかのような必死さがあった。その気迫に押されて首を縦に振ると、すぐさま彼女は2階にかけていってしまった。木製の、よく軋む階段の先に立ち入ることは、ミスタには許されていない。だから追いかけることはできなくて、伸ばした手は行く宛てを無くしていた。
あねさまたちはいつも、ミスタを見かけると一目散に逃げてゆく。まともに会話を交わすのは、せんせいとお会いするときくらい。せんせいが、「どれをお選びになる」のか、ゆっくり時間をかけて決めるらしい。幼いミスタにはよくわかっていなかったが、せんせいの家に行くときに着せられる服は重くて窮屈であまり好きではなかった。裾を引きずって、よく蹴躓く。だいだいと黄金色の花があしらわれた着物は、いつも着ている襤褸よりもずっと手触りがいい。そこは好ましいと思う。
亜麻色の長髪をひとつに結って、お花みたいな、優しさを体現するようなあねさまたちは、お世辞でもなんでもなく綺麗だった。だからたんに、ミスタはあねさまたちのことを慕っていたし、どう冷たい態度を取られようと好意自体は変わらなかった。せんせいのための子供を育てるこのお城では、美しさがすべてであったのだ。それも、内面ではないもの。
尊敬しているあねさまたちがミスタが贄になると知った時にぼろぼろ涙をこぼしていたのはなぜだったのだろう。たぶん、醜くて、やわらかい女でもなくて、実家自体がお取りつぶしになってしまった、たまたま男にしては綺麗だっただけのミスタが、何故か選ばれた。その事実が気に食わなかったのだろうか。悔しくて泣いているのだろうか。ひとは、悔しい時に涙すると聞いた。これも、あねさまたちが教えてくれたことのひとつであった。
せんせい、もといアイクはとっても博識だった!あねさまたちがたまに教えてくれていたことを、毎日ミスタに懇切丁寧に説明してくれた。彼女たちの曖昧な言葉で語られたそれが、彼のうつくしい、うつくしいという言葉でしか表せないが、言葉で彩られていくさまを眺めるのは、本の世界の中の至上の人生とやらの一端なのだろう。たぶん。知識があればそんなことすらもわかってしまうのかもしれない。だからアイクはミスタに色々なこと、例えば、なんでアイクが自分にキスをするのか、なんてことを教えてくれた。これは、ミスタがこの世に生を受けてからずっと行為の理由を知らなかったもののひとつである。唇を合わせて、なにがいいのだか。ただ、そんな行為ひとつで頬を赤く染める少女らが人生の不可解のひとつであることは確かで、ミスタはきっとその理由を知ることはないだろうと、決めつけていた。
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せんせいとお会いするときは、ちゃんと脚を畳んで、顔を上げずに、おでこを床につけて、はきはき喋るのよ。
でも、そのルールは別に正しいわけじゃなかったらしい、ことが今日わかった。
「ほら、そうやってたらお顔が見えないでしょう。きれいなそのひとみを、見せておくれ」
恐る恐る頭をあげて、幾重もの布の重なった奥に佇んでいるせんせいの方に顔を向ける。
せんせいのお顔はよく見えなかったが____おそろしくてお顔をまじまじと見ることができなかった___雰囲気は限りなく女性的で、濃紺に金色の蜘蛛の糸みたいな刺繍が光るさぞ上等であろう着物をお召しになっていた。まずミスタが住んでいた場所では見ることのないその着物に、こんなものの裾を引いた日にはミスタの首を幾つ刎ねても足りないだろうと、少し恐ろしくなる。この場では甘えるために袖を引くことは許されない、許してはいけないと、ミスタ自身感じていた。たぶん、ひとつでも受け答えを間違えたらミスタの首が飛ぶことも。
「うん、やっぱり硝子瓶の底みたいなひとみがきれい...」
うっとりとした声音に、少しばかり安堵する。せんせいの声をここまで近くで聞いたのは初めてだったが、聞けば聞くほど小さなあたまによく響く。甘くて重くて、沈香ってこんな香りがするんだろうか。
「ねえ、もっとこちらに寄ってきて、ほら」
重そうな布の重なり合いの隙間から、真っ白い手がのぞいていた。引き寄せるような手の動きに、自然と重いはずの体が動く。
ミスタが平伏していたところから2段上、天幕の下、ランプの橙色のあたたかな光が辺りを満たす場所に足を踏み入れた。途端、ぶわりと香ったのはせんせいの声と同じ、甘くて重い香り。くらくらする。あきらかにふらついたミスタを見て、くすくすと笑うせんせいの声と、暗闇に慣れないひとみとがここが本来立ち入るべきではないところであることを知らせていた。なによりも、頭上で蠢くおそろしいそれがミスタを重力で縮こまられているような気分にさえさせていた。見上げるための勇気さえ持つことが出来ないから、それがなんなのか確かめる術は持っていないけれど。
「...名前は、たしかミスタだったね。ミスタ、ほら、こちらを向いて。近くで見せて」
だんだんと距離が近くなって、せんせいのほとんど頭の上から降り注ぐように聞こえた。
「はい」
その、おそろしくも美しいそれに従うほかなかったミスタは、目を合わせてはいけないと警鐘を鳴らすあたまに見ないふりをして、頭をあげた。
ゆっくりと、その一瞬が永遠であるような、緩慢な仕草で。おのれを拾ってくれた、選んでくれたせんせいに少しでも報いるように。
「あらためまして、お初にお目にかかります。本日からせんせいの元でお世話になります、わたくし…」
その月色とかちあう。
きゅっと、小瓶の蓋を閉めるみたいに言葉が詰まる。ぱちくり、白い頬に影を落とした睫毛がまたたく。
「なあに?」
「あ、いや、えっと...」
「うふふ、へんなの」
間近で見たせんせいは、それはもう人間じゃないみたいな、不遜な言い方かもしれないので憚られるが、ミスタの少しばかりの語彙で表すとすれば、きれいな人だと、思った。
水面を反射したみたいな青灰色のふんわりとした髪の上に、銀の梅の枝が伸びていた。というのも、枝を模したような冠の端にひっかけるようにヴェールがついていて、そのグラデーション、濃紺から銀に至るまでの移り変わりが夜明けみたい。せんせいの、金色の輝きをまき散らす大きなひとみが、その夜明けを見届けるお月様みたい。せんせいは、よく青が似合う。賛辞は尽きない。まるで海から生まれたみたいな、ミスタはこのひとこそ、ちょうどこの街のてっぺんに鎮座する人として相応しいと思った。この、霧のかかる海峡の奥地にある小さな港町の神さまはたいそう美しいことを今日、ミスタはこの目で見て知った。
「ねえ、名前をきかせて」
ミスタよりも頭二つぶん背の高いせんせいが、覗き込むようにして、こちらを見つめる。薄明の色をしたヴェールが、ミスタのミルクティの溶けた髪に触れた。こんな上等な生地は生まれてこの方触れたことがなかった。ぶわりと香る白檀も、白檀なんて名前すら知らずとも酩酊していた。
「ミスタ、です。ミスタ・リアス」
「教えてくれてありがとう、ミスタ。ふうん、男の子だね、名前は」
「せんせいは、女の子の方がよかった...ですか?」
「君のお姉さんたちみたいな?」
「うん」
「ぼくは...君を選んだよ。意志を持って」
「なんで、ですか」
「それは................まあ、おいおい知ることになるさ。ミスタ、きみ、お姉さんたちと離れて寂しいかい?」
「わかんない、たぶんさみしくない、かも」
「それは、なぜ?」
「だって、おしゃべりしたくて呼び止めたら、部屋に戻れってうるさいんだ。ただ、あねさまたちとおしゃべりしたくて、混ぜてほしくて、それだけなのに」
「...そう、それは辛かったね。ねえ、ここは自由のお城だよ。同時に正義のお城でもある。きみの意欲が正義で、誰も咎めないの。やりたいことをおっしゃって頂戴、僕は君の意志に出来るだけ添いたいな」
「...おつとめは?」
「え?...あはは!そんなの最後でいいんだ。僕がしなくてもいいって言うなら、別にする必要はないだろ。君のしたいことをしよう。それがね、とりあえずの僕の望みだから_____」
そう言って、せんせいはやさしくミスタの頰に触れた。ぞっとするほど冷たい指先。ヴェールと同じ色に塗られた爪先。だんだんと生気を吸うようなその大きな手に触れて、なんとなく安心感さえあった。はりついて離れない、一瞬でも受容のやさしさを見せてくれた、今日初めて顔を見た彼に。お仕事、特にお家の外の先生との延々に続くお稽古も、肌と肌が触れる感触も、それが嫌で泣き出して、逃げ出して、足を引き摺られたことも、もう忘れてしまいそう。その大きなてのひらでつまんで、食べてくれればいいのに。ぼうっと、頰に添えられた手を握って、うす汚れた性の匂いのしない、無菌室みたいな、現実から2段上の世界に身を預けた。