薄曇りの空の向こうより ②
              尾形百之助
晴天
雲一つない青空から降り注がれる陽の光。
この光だけは罪人にも、善人にも、数多の万人に等しく平等に降り注がれるものだ。
眩しくて清らかで。しかし、頭や顔を覆った皮膚に注ぐ光の温度は高く、肌を突き刺し身を焦がすようで好いと感じたことは一度もない。
この光を、初め、尾形百之助は確かに疎んじていたはずだった。
***
「尾形さん。」
自分は何度も何度もそう呼ばれたが、尾形百之助という人間は一度たりとも彼女の名前を呼んだことなど無かった。
「なんだ看護婦。」
「コラ。私はそんな名前じゃありません。」
硬直した顔の筋肉をそのままにした尾形が不平な声に振り返ると、肩ほどまでの高さの頭から、湯気でも立ち上がるかのように顔を赤らめ眉間の皺を深める彼女の姿があった。
見渡すばかり、一面草だらけの平原が、鬱蒼と生い茂る木々の隙間に広がっている。頭上で風に揺らめく木の葉の音がざわざと響く中、尾形はそのちんまりとした影の傍らにある獣の死骸を見下ろした。
足元には先ほど撃ち殺した鹿の遺骸が転がっている。木々の隙間の木漏れ日が、割れた破片のように白い光でもって、ごわついた茶色い毛並みを照らし出し、腹から一筋赤黒い血液を滴らせた無垢な獣の目は黒く、まだ濡れた光沢を放ち、じっと自分を見上げていた。
「杉元たちはどうした。」
「向こうに居ますよ。」
泥濘に足を浸した彼女の足袋は黒く染まりシミを残していた。
それを見下ろしながら、尋ねた言葉はあのゴキゲンな連中の所在を聞くためではない。
わざわざ自分の所に来るくらいだから、大方彼らを見失ってしまったのだろう。そう思った尾形の予想は見事外れてしまったのだけれど、それならば何故この女が此処に居るのか余計に不思議に思った。
「だったらなんで此処に居る?」
「…なんでって、別に。あなたが一人でどこかに行こうとするからでしょう。」
素直に疑問を提示した尾形に、彼女はなんとも訝し気な顔をして答えを出した。
この女は、俺が一人でどこかに行こうとするからついてきた。いや、見えなくなったから探したのか。
尾形はきょとん、と目を丸めて三秒ほど逡巡して、それから、ははあ、そういうことか、と厭味ったらしく口角を上げた。
「人助けのおつもりですか?相変わらずのお人好しですな。看護婦殿。」
年端のいかない餓鬼でもあるまいし。成人済ませた男が一人、姿を消したからって迷子になったり危ない目に遭うわけでもない。しかし、この明け透けにお優しい方は、きっと自分が一人でどこかに行くので何かあってからでは遅いと後を追って来たのだろう。
なにしろ、雪解け水が流れる山のふもとは地面が泥濘み、足場が悪い。少しでも気を抜けば泥に足を取られて転びかねないし、足元には無数の木の根や大きな石が転がっているから、うっかり捻挫でもしてしまえば歩いて目的地に向かうのに芳しくはないだろう。
その上こんな人気の少ないけもの道では、それこそ熊や野犬なんかの獰猛な生き物に遭遇しかねない危険もある。
「足場も悪いですから。それに人気がないから怪我をして動けなくなってもすぐには見つけられないでしょう?」
「俺が木の根でスッ転ぶほどぼんくらに見えるか?どこかの誰かさんでもあるまいし。」
足元を見遣った尾形につられて、地面に視線を落とした彼女は、丁度時を同じくして同じことを考えたのだろう、苦々しく笑うと『余計なお世話は承知済み。』と言った様子で彼を見上げた。
大方そんなところだろうと、当たりを付けた予想は見事的中。
尾形はフン、と鼻を鳴らすと、つまらない顔をして目下に転がる牡鹿の角を掴んで頭を持ち上げた。
「それ、どうするんですか。」
「どうせ暇だろう。手伝え。向こうまで運ぶ。」
「…ええ……。」
尾形が仕留めた獲物の後ろ脚を持ち上げるよう指図すると、彼女はあからさまに厭な顔をした。獣の死骸がそんなに怖いか。街で暮らす平凡な人間、しかも女であれば確かに、撃ち殺された生き物の亡骸に生理的な嫌悪感を抱くのも無理はないので、尾形は眉間に皺を寄せながら横たわる死骸を見下ろす彼女に向けてせせら笑いを零した。この忌むべき死骸を普段何も考えず口にしているのは何処のどいつだ。と思ったのである。
「お上品なご婦人には少々刺激的ですかな?」
「…いや。だって……重いじゃないですか。」
「ハア……。」
「わかりました。やります。やりますって。」
前言撤回。この女は単に重たい荷物を運ぶのが億劫なだけだったようである。それなら本気で何のために来たんだか。
当初の印象とはまるで違う。ものぐさとずぼらを絵にかいて歩かせたような有様だ。
ずっしりとした重みを持つ枝分かれした角を片手に握った尾形のあからさまなため息を聴き取ると、彼女は観念したようにするすると彼の傍らを通り過ぎ、自分の身の丈と同じ位の鹿の後ろ足へと歩み寄ろうとした。
どうせこうなるのだから、最初から尻込みしなけりゃいいものを。というか、こうなることが分かってるんなら、初めの初めから人の後ろなどついて回らなきゃいいのだ。
そんな風に思いながら、尾形が前方へと視線を映そうとした時、
「わっ、」
と何とも間抜けな悲鳴が転がり落ちて、それから間を置かず、バシャン!と大きな水音が背後で響いた。ぴしゃ、と僅かに冷たいような温いような、微妙な温度を脹脛のあたりに感じて、尾形は辟易した気持ちを隠さず今日一番のしかめっ面で自分の背後の惨状を確認したのだ。
「……何をしているんだお前は。」
「……す、すいません。」
見下ろした先ではどうやら、先ほどのご想像通り泥濘に足を取られた彼女が、べったりと泥の上に尻もちをついていた。濃紺の麻の小袖の裾は粘つく泥をはね上げ真っ黒だが、受け身も取らずに転んだのか、それとも手が汚れるのが嫌だったのか、袖から覗いた白い手のひらは白いまま。不自然に両手を胸の前に突き出している様は非常に滑稽この上ない。
”木の根でスッ転ぶ。どこかの誰かさん”とはまさしくこの女であったわけだ。馬鹿らしい。
尾形が呆れまじりに、しらっとした目で彼女が立ち上がるのを待っていると、もの言いたげな視線が自分の顎を撫でていく。
「なんだ。」
「言いづらいんですけど、」
「ああ。」
「その…足を痛めたようで。」
「ほぉ。…それで?」
「手を貸してほしいんですけど。」
彼女の泥だらけの両足はすっぽりと、足の甲まで泥濘に嵌まっている。その上周囲には掴まるものは何もいない。転んだ際に可笑しな方向に足を捻ったのか、微かに眉をひそめた彼女の目元は心なしか引きつっていた。
手伝うどころか足を引っ張ってどうするんだこの女。これでよくも”危ない”などと口に出来たものだ。”危ない”のはお前の方だろう。この粗忽者。
と、頭の中で毒づきながらも、尾形は、また一つ大袈裟にハア~~、とため息を吐くと、意地悪く笑みを浮かべて、額から後頭部へと左手を流した。
「人にモノを頼むときは言い方がある、と教わらなかったか?」
「……?お願いします。」
「違うな。”粗忽で間抜けなわたくしめに、どうぞお手をお貸しください。尾形上等兵殿。”だ。」
「なんでそこまでしなきゃいけないんですか…、ちょっと引っ張ってくれるだけでいいのに。」
「だったら這って歩くんだな。」
子犬のような甲高い、彼女の声が耳に触れると妙に気分が良くなって、無性に胸の真ん中が浮き立つような感覚を覚えた。クツクツ肩を揺らして、折り曲げた人差し指の関節を唇に当てた尾形は、愉快な表情を隠さず、舐めるように彼女を見つめる。
ぐぬぬ、と奥歯を噛み締める様子がまた面白い。この女の御多聞に漏れず誰にでも変わらず向ける愛想の好い面を引っぺがすのが、尾形は存外気に入っている。
人を困らせるのが嫌いじゃないのだ。
どうする?と小首を傾げた尾形を見上げた彼女は、ムスっ、と唇を尖らせると、不本意な感情を丸出しにして言葉を紡いだ。
「うぅ、粗忽なわたくしめに、どうぞお手をお貸しください。」
「尾形上等兵殿。」
「尾形上等兵殿…ッ。」
「ハハァ。そこまで頼まれては仕方がない。お手を貸してしんぜよう。」
自分の尻をおっかけ回らされた上、余計なお節介まで頂き、挙句の果てにこのような迷惑をかけられた。その腹いせを済ませた尾形はご満悦と言った様子で、目を瞑り笑みを作ると、未だ両手をつきだしたままの彼女の右の手首を左手で握って、ぐい、と自分の許まで引き寄せた。
手のひらに広がる皮膚の感触はしっとりとして柔らかく、肌に吸い付くようだ。細い指の先の関節はあかぎればかりが目立つが、それでも荒れて皮膚のひび割れた自分の手よりもはるかに柔い女の手だ。
触れた瞬間、びく、と一瞬跳ね上げた手のひらは、引き寄せる引力に逆らわず、尾形の手首に掴まるように指先を這わせた。
ぎゅう、と手首を握る感覚が神経に伝わると、身体の内側に仕舞った小さな箱が、カタン、と人知れず音を立てて傾くような気配を感じて、こめかみのあたりが一度痙攣する。
尾形はその時、自然と手首を握る左手に力が入っていくのを感じた。
引き上げた彼女の身体は軽く、いともたやすく持ち上げられて、地面に落とした尻が浮き上がる。
そうすると、いささか力を籠め過ぎたのか、勢いよく立ち上がった彼女の足はすぽん、と泥から抜けて、身体が今度は前のめりに尾形の許へと倒れていく。
「ッ!!」
尾形は咄嗟に、空いた右手を差し出すと、小さな背中に回して衝撃を受け止めた。ぼすん、と顔の下で彼女の顔が胸にぶつかる気の抜けた音がする。
「痛い…。」
「最初から最後まで人の手を煩わせなきゃ気が済まんのかお前は。」
「す、すいません…。」
細い息が隙間風のように首のあたりに当たって少々こそばゆい。悪態をつきながら見つめた先の彼女の顔は、胸に押し付けられたままでよく見えないが、小さな頭の横に二つついた耳の先は僅かに赤く、胸板に添えられた指先はそこはかとなく震えていた。
「すぐはなれます…。」
何を今さら生娘みたいに照れている。異性と密着するどころか、男の裸なんぞ数えきれない見てきたくせに。
右足を一歩後ろに引いて、俯きがちの顔を見れば、白い頬は林檎のように赤らんでいて、気まずそうに上目遣いにこちらを見つめる瞳は瞬きに合わせて静かに揺れていた。
尾形は半ば呆れながら、立ち竦んだまま一歩も動き出さない彼女の着物の裾からはみ出た足首を一瞥する。どうにも立ち姿が可笑しいところを見れば、やっぱりどこか痛めたのだろう。この分では、歩いて杉元たちと合流するのは無理がある。
とんだ災難だ。自分一人ではぐれたならば、こんな荷物は背負わず済んだのに。とばっちりも良い所である。
しかし、流石にそのままにして歩いて帰れば、後で杉元だけじゃなく、白石やアシㇼパに責められるのは目に見えていた。だから、尾形は自分の肩にかけた小銃を彼女の首にかけると、自分の胸元を軽く抑えた手を取り背中を向ける。それから、肩に沿うようにして細腕を首に巻き付けるよう急かした。
「っ……あの、…?」
「”這って歩きたい”なら話は別だがな。のんびりしてたらそれこそ、野犬に食われるぜ。」
背後で聞こえる涼やかな声は狼狽えたように困惑の色を濃くしていた。けれども、なまじ自分の身体のことは自分でよく分かっているのか。歩いて帰るのは難しいと彼女も察したのだろう。
尾形が念押しするように、僅かに振り向き忠告すると、遠慮がちに指先が首元へと回っていく。
「ありがとうございます。」
しゃがみ込むようにした背中にゆっくりと重心がかかっていくのを感じると、尾形は彼女の大腿部に両手の指を這わせて支えた。くっきりと肉に食い込んでいく肌は汗をかいているのか多少湿っているように思える。身体の背面と彼女の身体をくっつけると、吸い上げた泥水の冷たさが滲むように染み出して軍袴が肌に貼り付いていく。
それから尾形は彼女を背中に負ったまま、ひとまず獲物は置き去りにしてけもの道を抜け、その先にある平原へ向かうことにした。
目を凝らしながら萌黄色の草葉の波を見つめていると、少し先に見慣れた人影が三つ程なにか声を上げながら、大騒ぎしているのが目に入る。
「すいません。…汚れますね。私泥だらけだから。」
「洗えば落ちる。」
申し訳なさそうな声が、頸の裏のあたりに触れる。
尾形はただ単純に『汚れた服など洗えばそれで済む話だ。』と思ったままを口にした。
大丈夫か。とも、痛いだろう、とも。優しい言葉の一つもかけてやる気は無い。
それなのに、頸に回った腕の力は少し苦しいほどに、徐々に力が増していき、右肩には彼女の鼻先が、ぐ、と押し付けられる感覚がする。不思議と、それは煩わしいとは思わなかった。
彼女の胸から流れる鼓動の音が、とくん、とくん、と背中の真ん中に触れるのを感じながら、尾形は何も言うことなど思い浮かばず、ただ両足を動かしたのだった。
***
初めて言葉を交わして以降、特段、この看護婦だった女と親しい間柄になったわけではない。別に嫌いじゃないし、彼女自身自分をそれほど嫌っていたわけではないらしく、それなりに話をしたことは幾度となくあったが、互いのことを明け透けに話したことなど一度も無かったのだ。
そんな相手と今こうして行動を共にするのも、互いに何か必要不可欠な理由があったわけじゃなく、単なる偶然としか言いようが無い出来事が原因だった。
白石由竹が第七師団に拘束されて数日、旭川近郊の深川村にて久しく目にしない後ろ姿に声をかけたのは自分ではなく、杉元佐一の方であったか。
『やあ、久しぶり。こんなところで会うなんて奇遇だねェ。』
大げさすぎるほどにこやかに通りすがりの他人の肩に彼が手を置いたのは、その他人が随分困った様子であったから。
木目の目立つあばら家の並びの隅で、無数の男に囲まれた彼女は、尾形が察するに質の悪い破落戸共に因縁付けられて、かどわかされる一歩手前であったのだろう。
怯えるように胸元で両手を合わせて俯いた横顔は遠めに見ても青褪めていた。
まるで知人のように知らない男に助け船を出された彼女は、少し驚いたように杉元を見上げて、一瞬ほっとしたように険しい表情を緩めて怒った肩を下ろした。
『ああ……その、お久しぶりです。』
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