匂いのはなし
すん、と彼女が深くいきを吸った気がした。無論、僕の気のせいかもしれない。けれど、彼女の感覚がとても鋭敏で繊細なことをよく知っていたから、それはなにか、前触れのように思えた。
「ディルックさん──、香水とかつけてますか?」
嗚呼──、いや、……。そう、答えようかとも思ったが、僕のくちびるは黙ることをえらんでいた。エニシダは眼をひろげて僕を見つめている。不思議そうに僕を凝っと見つめるエニシダのくちびるは、眼ほど僕の応えを求めるわけでもなく、きゅっとつぐまれたままだが、僕の返事がないことは彼女の好奇心にすこし火をつけてしまったようだった。
「ディルックさん……?」
エニシダは興味深げに瞬いた。彼女の眼は答えを知りたくてたまらない子猫のように輝いている。僕を逃がさないためか、まっすぐに、ただ僕だけを見つめている。僕は、エニシダとの記憶が、彼女のなかに色濃く残りつづけてくれればいいのにと、今日はうなじの後ろにすこしだけ、香水を着けてきたことを告げるべきか、迷っている。しかし、彼女はおもむろに、数歩近づいてきては、すんと僕の周りの空気を吸った。それから、やわらかにくちびるをほどきながら、眼を細めて愛おしげに、わらう。
「いいにおい」
その、慈しみにあふれるこえ。言葉、指さき。彼女のひとみには、僕がすきだという感情が満ちあふれていて、きらきらと輝いている。それらはふわふわと漂い、彼女のまわりを縁取っては、またたく。僕はたまらなくなり、彼女の腕をとって引き寄せ抱きしめた。彼女はすこし、驚いたようにじっとしていたが、もっと深く彼女を抱きしめると、エニシダはおずおずと僕の背にふれ、きゅっとしがみついてきた。彼女の首すじに手を回し、髪に頬をよせる。彼女は控えめに、僕の首すじのあたりに鼻梁を押しつけ、甘えるように僕の鎖骨を肌膚でたどる。エニシダの、僕の感情を焚きつけるようなしぐさに僕は彼女の後頭部をやさしく撫でて、くちびるにふれる合図をする。
「ふたりっきりのときだけにしてくださいね」
しずかな口づけのあと、キスが深くなるまえにエニシダがささやいた。そっとおでこを付き合わせて、したから掬いあげるように彼女の眼をのぞきこむ。
「どういう意味?」
キスが?
それとも、こういうふうにふれること?
僕以外のだれかがきみと──なんて、僕にはこれからさき、だれにも許せない。それなのに、きみはもう、そんなことを考えるよゆうさえある。そんなことは──赦せないとおもう。貪婪の焔が燃えあがり火の粉が光る。胸のなかで、己の獰猛さを噛み殺しきれない。ぎらぎらと光る情慾のまま、見つめたさきのエニシダの眼は切なげに細められている。
「香水」と、彼女はつぶやいた。「どうかわたしのためにしか、つけないで」
のどを過ぎ、ろっ骨のうちがわが焼けた。気づいたときにはもう、エニシダのくちびるを食んでいる。口腔に入りこみ、舌を絡ませあって深く、呼吸を奪い合うようなキスをした。ぎゅっとシャツをにぎる手、くったりと力の抜けた肢体、ひと呼吸ぶんのよゆうを与えて、僕にもたれかかるエニシダを壁際に追いつめる。覆いかぶさるようにエニシダをつつみ、彼女のくちびるからあふれた唾液をぬぐった。うつらにとろけた眼のエニシダと目が合い、彼女の頬は、うっそりとばら色に染まっている。
彼女のなかで、密やかにくすぶっていた独占欲にあてられた。僕の鼓動も深くなり、ぎらぎらとした熱情は、彼女を慈しむためのぬくもりを湛えながら果てのない欲望に飢えている。
「きみを守るのは僕だけだ」
だからどうか、そう誓って。
たぶん、おわり。
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初公開日: 2022年03月02日
最終更新日: 2022年03月25日
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原神、ディさんの香水の匂いについて
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