カーテンコールを、
                              灰谷竜胆
「どうせ殺すならもう少し早くやってくれればよかったのに。」
ざんばらに乱れた髪の毛の隙間から覗いた世界は色褪せて、灰に蝕まれた世界はただ埃臭かった。
瞼は半分も開かなかった。頬にはまだ、塩の名残が残っているのか毛先が擦れるたびにべたべたとした。瞬きをすると濡れた睫毛がべたりと下まつ毛にはりつく。
ぐらぐらと燃え滾るような怒りは床に転がる男の死骸と飛び散る黒い血液で急激にしぼみ、妙な虚脱感が私の身体を包み込んだ。立つことも覚束ない足はもうその単純な行為すら諦めてしまったのか、ぽきんと小枝が折れるように私の身体を床に落とした。
堅いフローリングに座り込む私を見据えた両の目がゆっくりと細められていく様が視界に一瞬映るけれど、私は項垂れるように頭を下ろしたまま、ただその冷たい平面に浮き上がるシミを見つめることしかできなかった。
低く呟いた声はあなたの胸にどんなふうに響いていたのだろうか。どうして、あなただったのだろう。
碌でもない人生だった。全部自業自得の生涯だった。人に胸を張って語れるほどの大層な生き方なんてしてこなかった。
それでも私はその碌でもない道筋を辿りあなたとこうして出会ったのだ。クソみたいな、摂るに足らない人生の集大成があなただった。
灰谷竜胆が無駄に広すぎる駐車場に車を停め、シリンダーからキーを抜き去った時、白昼の空からは真っ白な雪がちらちらと降り注いでいた。頭上に広がる薄曇りの空は灰色の雲が立ち込めていて、鼻からすう、と息を吸い込むと鼻腔の奥に染み入るような痛みを感じる。
バタン、と運転席の扉を閉めて、眼前から数メートル先の硝子扉に視線を向けると竜胆は冷えてひりつく両手をコートのポケットに突っ込んでゆっくりと歩き始めた。肩に降り積もる大粒の雪は水気を孕んで重たく、長く伸ばした前髪の先を濡らしていく。雪が降っているのにいつもよりかは少しだけ温かいと感じる自分にほんの少しだけ驚いた。何故なら、都内に住まう自分はそれほど雪というものに親しみなど無く、雪が降れば寒いという認識を幼い頃より持ち続けていたからだ。
此処はよく雪が降る。そう、無自覚に認識できるほどに未だにこの場所に来てしまうことがほんの少しだけ苦々しく感じられた。
うっすらと足元に積もる雪はまだ真新しく足跡一つない。そこに、片足ずつ後を付けていくと、皮の靴底がくっきりと縁どられて黒いコンクリートがそこだけ丸見えになる。
左腕の手首には先ほど助手席に置いていた紙袋が一つ下げられている。こんなものまで一々律義に用意している自分も相当どうかしているのだろう。あの場所に何度も足を運んだところで何か、合理的な意義を見出せるわけじゃないのに、毎週金曜日になると何を考えるでもなく車に乗り込む自分がいるのだ。
もうここには何も無い。
分かってる筈だろう。オマエが一番。
頭の中でそう独り言ちながら、竜胆は長いようで短い距離を歩き切ると、厚い硝子に手を当てた。広々とした人気の少ないエントランスは、外よりも幾分か寒かったように思う。
灰谷蘭が死んだ。
弟である竜胆がその事実を彼女に連絡したのは、灰谷蘭が死亡した3時間後のことだった。
都内から3時間ほど車を走らせた場所にある県外のマンションは、二人が生まれ育った街とは随分かけ離れている、どうにも田舎臭くて不便で辺鄙なところだ。そこに居を構える彼女はその知らせを受けるときっかり二時間半真夜中の高速道路に車を走らせ、駆け付けた。
緑色の非常灯だけが煌々と光る薄暗い廊下、遠くから忙しなく響いてきた硬いヒールの足音に気付いた竜胆が視線を出入り口に向けた時に見た彼女の姿は想像よりもずっと落ち着いていたように思える。
灰谷蘭が死亡した、その光景を一番初めに目撃したのは竜胆だった。
麗らかな視線から髪の毛を掻き翳る些細な仕草まで何を取っても絵になる兄は、再度の時すら非常にドラマチックに死に至ったようだった。
『ちょっと出てくるワ。』
何の変哲もない日常の延長線、久方ぶりのなにも無い夜を過ごしていた兄は、突然、眉をひそめて見下ろし、不満げにため息を吐きながらそう言った。
大方、煙草でも切らしたのか。近所のコンビニにそれを買いに行くつもりだったんだろう。
その日に限って灰谷蘭は、弟の自分をパシリに使うことをしなかった。どうしてかはわからない。気分屋な彼のことだから、偶々夜歩きしたい気分だったのかもしれない。いつもは違った。その日に限って、そうだったのだ。
なんてことないように、言い残して扉を閉めた兄がいつまで経っても帰ってこないのを不審に思ったわけじゃない。よくあることだから特段気にしていなかった。
けれど。彼が家を出て一時間ほどたった頃、寝支度に入りかけた竜胆は、自分も買い忘れていたものが一つあることが気にかかり、家を出た。
春を迎えた東京は晩冬よりかは少し暖かい。薄手のシャツ一枚だと涼しいくらいで、数時間前まで振っていた雨のおかげで湿った空気が心地好かった。
真っ暗な住宅街は街灯の明かりに照らされて、街路樹として植えられた桜並木からは薄桃色の花びらが絶え間なく降り注いで、濡れたコンクリートを彩っている。
黒い夜空を反射する水溜まりに視線を走らせながら、踵を引き摺り歩いた先、地面にうつ伏せに倒れたままピクリとも動かない兄を発見したのはそれからすぐ後のことだ。
最初、暖かな春の陽気浮かれた中年オヤジが酔っ払って路肩で居眠りこいているのかとでも思ってしまった。けれど、雨水を吸い込み乱れた髪が街灯の光で照らされ艶めくその色を見た時、ドクン、と一気に鼓動が早まり思わずその場に走り寄った。
着の身着のまま出かけた兄のスリーピースの色は何色だったか。どんな模様が入っていたか。白く長い喉元に揃いで入れた刺青はあるか。そんなことがグルグルと頭の中に駆け巡る。信じられなかったのだ。単純に。率直に。自分の目を疑った。
見間違いなどするわけがない。
その場に倒れているのは、紛れもなく自分の片割れだった。
『……兄貴?』
絞り出すように喉を震わせ声を上げる。傍らに跪き、白いシャツを纏った背中に触れる。手のひらには生ぬるく粘度を含んだ感触を感じた。真っ白で糊の効いたシャツには赤黒い血液がへばりついていた。
脇腹を覆うようにして当てられた手の指先を片手で剥がしてみると、其処には深く差し込まれた刺突の痕があり、指の腹でなぞると生々しい肉の質感が皮膚に広がった。まだ温かいのに、凍り付いたように身体は動かず呼吸の音が一つも聞こえない。
横向きに顔を反らすようにして、地面に頬を付けた兄の白い顔の上には舞い散る桜吹雪の破片が幾重にも落ちていく。長い時間そこでそうしていたに違いないのに、吊り上がった瞼は閉じられ、垂れた眉の間には皺ひとつ刻まれていない。うっすらと上がった口角は相変わらず微笑みを湛えているようですらあった。
苦悶の表情一つ残さず、眠る様に死んでいる。
空には白い三日月がさんざめくように光り輝き、地上を照らしていた。
淡く儚い桃色の小さな破片は降り注ぎ、降り立つ光に照らされた地面はてらりと瑞々しく、月と同じくらいに煌めいている。
ひどく綺麗な夜だった。
灰谷蘭が呼吸を辞めたのは、そんな綺麗な夜だったのだ。
『死んだんですか。』
一目、目にした瞬間、走馬灯のように蘇る光景を掻き消したのは、いけ好かないほど透き通った女の小さな声だった。
白い合皮の鞄を肩にかけた彼女は薄い上着を一枚纏っただけで、身一つで出来たとでも言うようにありきたりな部屋着に身を包んでいる。
”刺されて死んだ。”
数時間前、はっきりとそう述べた手前、彼女の落ち着き払った態度に竜胆は違和感すらも覚えた。てっきり、胸倉掴んで『オマエが居ながら何をしている、』と怒鳴られでもするのかと、思っていたから。否、知る限りでは彼女はそういうタイプの女じゃない。
自分が、そうされたなら、いっそ責め立てられて頬の一つでも張られたならばどんなに気持ちが楽だろう。そう思った。それを望んでいたのは多分自分だった。
竜胆は彼女の問いかけに静かに頷いた。かける言葉が見つからなかった。
謝る必要はない。しかし、今思えば、はるばるあんな辺鄙な土地からこんな夜中に車を飛ばして駆け付けた彼女に礼の一つでも言うべきだったかもしれない。
でもその時は、なにも言えなかった。なにも考えられなかったのだ。
『顔、見せてもらっても?』
『ああ、……来て。』
そんなすぐさま恋人の死を受け入れられるものなのだろうか。肉親である自分ですら未だに夢でも見ているようなのに。そんな疑問を口にするのは彼女の冷静過ぎる態度を責めているようだから、あえて口には出さず、竜胆は歩み寄る彼女から視線を外すと正面に取り付けられた両開きの扉へと足を進めた。
冷たい鉄製のドアノブを捻ると、ギイ、と軋んだ音を立て、重たい扉が開く。
直径10メートルほどの四角い部屋の真ん中には数時間前目の当たりにした光景がそっくりそのまま変わらず広がっていた。
腰よりも少し高い位置まで足を伸ばしたストレッチャーには白い布がかけられて、その下に安置されたものを覆い隠している。凸凹としたその表面は、扉から向かって左の隅に置かれた台座の上の蝋燭の光を受けて、影を濃くしていた。
横たえた兄の身体は平均よりも身長が高いせいか布から足首がはみ出している。
滑らかに伸びる菫色の頭髪が枕から垂れ下がる横顔の傍に立った彼女は、細い指先で、顔にかかった布を剥ぎ取るとほんの少し背中を丸めた。
その時、竜胆はなんだかとても怖いものがその先にあるようで、扉の傍から一歩もその先へ足を進めることが出来ず、離れた場所からじっと彼女の背中を見つめていた。華奢な身体に隠れて、兄の顔など見えはしないが、それでよかった。それが良かったのだ。もうあの顔は見たくはなかったから。
肩甲骨まで伸ばした彼女の黒髪が肩から背中にはらりと落ちる。俯いた横顔はその射干玉色の毛髪に隠されて、表情を垣間見ることはできなかった。
『……差し出がましいお願いですが、少しだけ、二人にしてもらえませんか?』
殆ど数秒ほどしかたっていないはずなのに、幾千もの時間の流れを感じるような光景を茫然と眺めていた時、不意に、涼やかな声が鼓膜を揺らした。彼女の声だ。
『理解った。…オレ、外で待ってるから。』
その要求を拒絶する理由を持ち合わせず、竜胆は言葉を返すと部屋を出た。
やけに大きく響いた扉の開閉音が背後で響くと、それから少しの時間何にも聞こえやしない、静かすぎる静寂が暗い廊下に満たされていく。
何をしたわけでもないのにひどく疲れていた。
急患用の出入り口から伸びる廊下には壁に沿うように簡素なソファが取り付けられているが、よくよく考えれば此処に来てから自分は一度も膝を折っていない。それに気づくと竜胆は、安っぽい合皮の座面にどっかりと腰を下ろした後に、膝の上に両肘を乗せ、項垂れるように足元に視線を伸ばした。
黒いタイヤ痕の残るリノリウムの床。
廊下の端に寄せられたギンガムカラーの車いす。
鼻に就く消毒液の匂いと、まだ少しだけ寒い室温。
人気の少ない、問診患者なんて日に住人も来ないであろう寂れた個人病院。
それが兄貴の最期の場所だ。
けれど、碌でもない道ばかり選んで生きてきたあの男からすれば、むしろ上等な死に方だったかもしれない。
少しもすると、厚い壁の向こう側から僅かに震える女の嗚咽が扉の隙間から漏れ出して、静かすぎる夜の空気を揺らしはじめた。しくしく、と蛇口から一つ一つ零れ落ちる滴のような音だった。
埃に塗れた床と、気まぐれに突っ掛けた自分の靴のつま先を見つめながら、竜胆はその音にじっと耳を澄まし続けることにしたのだ。
『連絡、くれてありがとうございます。最期に逢えてよかった。』
どれくらいそうしていたのか、いつの間にか聞こえなくなった泣き声と同じ声が頭上から振ってきて、顔を上げると瞼を赤く腫らした彼女が気づかわし気に自分に小さく笑いかけていることに気付いた。
本当であれば、今思えば、はるばるあんな辺鄙な土地からこんな夜中に車を飛ばして駆け付けた彼女に礼の一つでも言うべきだったかもしれない。けれど、そう、あの時礼を言ったのは自分ではなく彼女の方だったのだ。
今日は取り敢えず此処まで!!
見に来てくれてありがとうございます。
後で進捗上げておきますね。
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初公開日: 2022年01月06日
最終更新日: 2022年01月06日
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コメント
死ネタ……書くよネ……今回はランちゃんがお亡くなりになった話を書いていくよ。1時間ほど。