時が来た。輝ける天の住処にやさしく影がかかる。夜とは異なる、かりそめの闇がようやく月に届いたのだ。
 曦臣は影の架橋に踏み出す。黒い足場はあまり長くはもたないらしい。重い衣が煩わしいほど早足になるのはそのためもあったが、遠くで呼ぶ声を目指して逸る心が抑えられないのだ。もろく崩れかかる道を、曦臣はひと夜に駆け抜けた。
 白い沓がふんわりと土を踏んだ。やわらかく湿った感触に曦臣は微笑みを浮かべる。振り返ると橋はもうそこにはない。蝕は終わり、まるい光が遠くにぷかりと浮かんでいるだけだった。
 視線を地に戻し、ふうと息を吐くと霧が晴れ、朝になった。あらわになった地には清水が流れ、緑が繁っていた。
「美しいところだ」
 ひと目でその地を気に入った曦臣は朗らかな心持ちで歩を進める。ふふ、とひそやかな笑い声をこぼすと梢が揺れた。さわさわとたくさんの気配を感じられるのが楽しい。元の住処はこの上なく美しいところだったけれど、独りだった。天の主からは友を与えられなかった。だから曦臣は地に渡るこの日を心待ちにしていたのだ。はちきれそうなほど膨らませた期待はじわじわと豊かに満たされていく。
 しかし、まだ足りない。あたたかい空気に触れるほどに、鮮烈な光が欲しくなった。曦臣を導いた声に応えたいと思った。けれど何と呼び返せばよいか曦臣には分からない。少し悲しい気持ちがわいてきて、慌てて首を振った。陰りはよくないものを呼ぶ。目を閉じて息を吐いて、吸って、ゆっくりと瞼を上げた。その時、明るい視界の隅で何かが動いた。
「待ちなさい」
 鋭く声をかけると藪ががさがさと音を立てた。逃げるつもりも隠れるつもりもないらしい。曦臣を恐れていないのだろうか。何が飛び出してくるのか、曦臣の方がどきどきと緊張を高まらせた。
「こちらへ」
 呼べばそれはゆったりと姿を現した。とても美しかった。
「あぁ」
 曦臣は見惚れた。立派な骨格にしなやかな筋肉、凛々しく胸を張った誇らかな立ち姿。豊かな髪は黒々としているようでわずかに銀色が混じってきらめく。ぴんと揃った大きな耳と両の目がこちらを向いている。瞳は複雑な色彩だった。
「美しい」
「違う」
「え?」
「私はロウだ」
 彼は曦臣が名として美しいと呼んだと思ったのだろうか。正すように名乗ったのは変わった音だが、彼に似合っているとも感じた。
「ロウ」
 きっとロウは永くこの地にいるものだ。まわりの草木がぴりりとしている。恐れではなく、敬意で空気が引き締まっていた。間違いない。彼の声が曦臣を呼んだのだ。胸の内が歓喜に満ちる。
「あなたは」
 曦臣が感嘆にふるえている間にロウは近寄ってきていて、ふんふんと鼻を鳴らしながら曦臣の周りをぐるりと巡った。正面に戻り、まっすぐ見つめて言う。
「あなたはひとに似ているが、少し違うな」
「私は、神」
「カミか」
「知っているかい?」
「ああ、もうすぐ美しいのが天降りつくころだと、大鴉が言っていた」
「からす?」
「アニのようなやつだ」
 よく分からず首をかしげた曦臣だったが、ロウは詳しい説明をしなかった。ふいと曦臣の首に顔を寄せる。
「あなた、いい匂いがする」
 すんとロウが首元で息を吸う。自分では分からないけれど、彼がそう言うならそうなのだろう。少しくすぐったい。
「心地いい香りだろうか」
「ああ、好きだ」
 ロウが笑った。素直なよい表情だと思った。
「あ、また大きくなった」
「何だって?」
「あなたがこの山をつくったのだろう」
 山が高くなっているのだとロウは言う。なだらかな野と森であったこの地がひと晩で隆起したらしい。そしていままた動いたと。見渡したが大地は割れることもなく、樹々は濃い。
「豊かになっていくからうれしい」
「そう、それは私も嬉しい」
「あなたは反対だな」
「え?」
「あなたは、うれしいと豊かになるんだ」
 ほらまた、とロウが笑う。足の裏でほんのわずかに地がざわつくのを感じた。ロウの言う通り、心がわき立つのとつながっているのだろうか。そうだとしたら嬉しい。にっこりと微笑むと、ロウがはっと息を飲んだ。
「カミはきれいだ」
 ロウは身体を離し、ゆっくりと跪く。頭が垂れさがる。瞳が見えないのは少し残念だったが、伏せられたまつげは美しい。追い求めていた声、待っていてくれたもの。曦臣はロウの両頬を包み、鼻の上に口付けて加護を与えた。
 曦臣は山中の洞に居座ることにした。朝と夜、天の主に挨拶をして祈りを捧げた。山と、そこから眺める世界はとても豊かだった。
 ロウは頻繁に訪ねてきた。高くなったところから見えるものが好きなのだと言う。はじめて見た遠くの海を大きいからと気に入り、雲の上に出たときは不思議そうな顔をして曦臣の袖を握っていた。
 曦臣が知らないことをロウはたくさん教えてくれた。手を曦臣の手のひらにぎゅっと押しつけて得意げに言った。
「これは肉球、気持ちいいだろう」
「ああ、とても」
 確かにふにふにとしているけれど、表面がざらついているのが少し気になる。彼の頬の方が柔らかいように思う。手を合わせたまま話を聞いていると、本当は犬の肉球の方が気持ちいいのだと白状した。ロウが犬の手を握るのだろうかと不思議だったが、時々話をする夢の中のできごとかもしれない。
 ロウも曦臣もよく夢を見る。鮮明で、でも掴みどころのない夢。どちらかといえば空想に近いことを互いに聞かせ合っているうちに、幻の境が溶けて同じ夢にいるような気がすることがあった。夢の中ではあまり言葉を交わさなかったが、相手の生きた存在を強く感じた。そういう夢を見た翌朝は熱っぽい昂揚とわずかなじれったさが残った。何か肝心なところに辿りつけていない気がする。しかし、目を開けてロウの姿を見れば、そんな不安はたちまち霧散するのだった。
 雨が降り曦臣が寒いだろうとロウが寄り添ってくれた夜、突然飛び起きたロウは泣いていた。頬をびっしょりと濡らし、肩は小刻みに震えていた。怖い夢を見たのだろうか。背中をそっと撫でるとあたたかくて、曦臣は少し安心した。ロウはゆっくりと息を整え、ごしごしと目元をこすった。
「赤くなってしまう」
「かまわない」
「いけないよ、ほら見せて」
 覗きこんだ瞳は暗く沈んでいた。曦臣はロウの瞳の色が好きだったから、悲しい気持ちになった。目尻に口付けて涙を舌で舐めとっても、もとの輝きは戻ってこない。薄く色みは見えるけれどくすんだままだ。
「ロウ、泣かないで」
「泣いていない」
 ロウの声はすでに落ち着いている。つんと鼻先を上げて外を見る横顔は静かだった。美しくて、寂しい。曦臣はロウをしばらく見つめた後、懐から小さな石を取り出した。ロウの肩を引き、石を突きつける。向きなおったロウは曦臣の顔と石を交互に見て、首をかしげた。
「瑠璃だよ」
「ルリ、知らない」
 ロウの反応に心がしおれる。曦臣の瑠璃は天の主から授かった宝物である。曦臣を護り、時をつなぐ目印になるのだと教わり、曦臣はずっと大切にしてきた。この瑠璃を見せれば、彼も笑ってくれると思ったのに。諦めきれずに曦臣は言葉を続けた。
「瑠璃はあなたの瞳の色だよ」
「目の色も知らない」
 ロウがぱちりと瞬く。先ほどの拒むような横顔から、少し表情がゆるんだ気がする。瑠璃を受け取ったロウは興味深そうにしげしげと見つめる。
「深くてきれいだろう」
「私の色なのか」
「そう、よく見て」
 曦臣はロウの手を導き、瑠璃を天にかざすようにさせた。雨上がりにけぶる夜の光が瑠璃を通る。まだ暗いロウの目に青色の輝きが届いた。
「きれいだ」
 ロウの声が明るくなった。わずかに上がった口角に口付けて、ゆったりと頭を撫でてやった。ロウはすりすりと曦臣に寄り添い、ふたりはそのまま眠った。
 瑠璃を贈った夜から、ずっと雨が続いた。短い止み間があるもののからりと晴れることはなく、山はじっとりと沈んでいた。訪ねてくるロウの足は泥に汚れていた。曦臣が拭ってやろうとすると、そんなことはしなくてよいと拒まれた。
「どこへ行っていたの」
「東の谷」
「そんな遠くへ」
「とても水が増えていた」
「そう」
「下流で岩場の形が変わっていて…」
「ロウ」
 曦臣はロウの湿った両頬をつかまえた。まっすぐ見つめて言う。
「ロウ、ここにいなさい」
「なぜ」
「私がロウを守るから」
 ロウもまっすぐに曦臣を見返す。曦臣が何を言っているのかをかみ砕こうとしているようだ。見つめ合った沈黙をどうどうと強くなる雨の音が囲っていた。視線はずっと交わっていたが、結局ロウは曦臣の言葉を理解しなかった。かわりに滝のような雨が夜中降り続き、ロウを足止めすることになった。
 朝日とともに雨音は止んだ。しかし空は薄暗く覆われたままで、厚い雲の中では重々しい低音が唸っていた。ロウは岩庇の先端で天を見上げていた。
「ロウ」
 曦臣が呼びかけると彼は振り向いた。目が合って、曦臣が微笑む。
「こちらへ来なさい」
 言葉は届かなかった。曦臣が言いかけたその瞬間にはロウはすでに足元を蹴っていた。ロウの姿は森に消え、曦臣の声だけが雨の中に転がった。
 ごろごろと雲がうるさい。曦臣はロウがいたところに立ち、天を睨みつけていた。挨拶も祈りもしていない。いつの間にかまた雨粒が落ちてきて曦臣を濡らした。寒くはなかった。ずん、と地面が震えた。遅れてばりばりとつんざくような音がなり、生き物がざわざわと動いた。重い響きと高い音は何度も、山のあちこちで繰り返した。轟音と競うように雨もやかましくなる。ぎらりと地に突き刺さる光がまぶしくて目を閉じた。耳も塞いでしまおうかと思い腕を上げたとき、かすかな声が聞こえた。高いような低いような、分からないけれど、光のような声。曦臣は声を辿って駆け出した。
 天に突き出した大岩の上、ロウはいた。降りしきる雨に立ち向かって吠えている。ざあざあと騒がしい音にかき消されるどころか、声の振動に雨粒が共鳴しているように感じられた。曦臣はその様を呼吸を忘れて見つめていた。鼓動が高まる。ロウの遠吠えは歌うように響き渡り、天さえも耳を傾けた。いつしか雨は止んでいた。
 ロウのこの姿を曦臣は知っていた。遠い遠い過去から、ずっと探していたのだ。最後の雲からいかづちが落ちる。岩のてっぺんから紫に輝く瞳が曦臣を見下ろしていた。
「澄」
 曦臣の頬は濡れていて、ひやりと吹く風に撫でられた。雨に流された後の空はすっきりと清々しい。大岩が燃えるような夕陽に照らされる。
「澄、おいで」
 呼べば悠然とした足取りで曦臣に向かってくる。その時間が曦臣にはもどかしい。
「はやく来なさい」
 足が止まった。
「なぜ命じる」
「あなたは私のところにいるべきだ」
 距離が縮まらない。
「分からない」
「拒むのか」
「いいや」
 表情は凪いだままで、そこに怒りも嫌悪も見当たらない。それなのにどうして進めないのか、曦臣は分からない。陽が沈む。
「澄…」
「うん」
「ずっと探していたんだ」
「私も、そう感じる」
「もうまもなく暗くなってしまう」
「あなたが見えなくなるな」
「いやだ!」
 曦臣は叫んでいた。背中を押すように風が吹いて、脚が動いた。踏み出せばものの三歩で辿りつく。勢いのまま抱きしめた。
「あなたは消えてはいけない」
 腕の中で小さく首が振られた。
「ああ、違う」
 何かに気づいたような言葉に反射で腕の力を強くする。逃がすわけにはいかないと強硬になる曦臣に、思いがけずやわらかな声が返された。
「一緒にいたいのか」
「え」
「あなたの、願いを言え」
 まっすぐに見つめてくる瞳は宝石のようにつやめいていた。きつい腕をもぞもぞと抜け出した両手に頬を包まれる。
「私と離れてはいけない、ではないだろう」
「……ああ、離れたくない」
「そう」
「あなたがほしい」
「うん」
 澄が笑う。
「私も、あなたが好きだ」
「ああ…」
「ずっとここで待っていた」
「うん」
「まさか聖神になっているなんてな」
「自分の念願を忘れてしまうところだった」
 曦臣は澄を抱きしめなおす。真実の永遠を求めたひと。
「私は望みだけを覚えてこの地にいたら、こんなふうになったぞ」
「とても美しくて、愛らしいよ」
 澄の耳がひょこひょこと動く。照れているのか、よろこんでいるのか。あたりは薄暗くなっていて、はっきりとは分からなかった。潤んだ瞳だけがよく見えた。
「ああ、そうだ」
 曦臣にひとつ笑いかけてから、澄が空を見上げる。ぎゅっと曦臣と抱きしめ合う力が強くなって、澄の喉が高らかに夕闇に鳴いた。
「天にご挨拶だ」
 あなたをもらうから、とはにかむ澄に曦臣はあふれる涙を止めることができなかった。天がふたりをゆるすように、穏やかな夜が訪れた。
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「向七来」
初公開日: 2021年11月29日
最終更新日: 2021年11月27日
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【完結】2048
完結。ゲーム「2048」と動画からのインスパイアー。文章の見本にでも。
鳥頭三歩
【腐】人外オス×人間男の話
上半身人間下半身蛇の怪物と、怪物を討伐しようとしていた人間の話。昔書いていたものを引っ張り出して直し…
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