「今日は何があっても、何が何でも四時に帰るから。そこんとこよろしくね」
何か外せない用があるのだな。五条悟がそこまで大事にする用件って何だろう。好奇心が首をもたげるが、瞬時に引っ込む。何故って言い方が怖いから。
ていうか五条悟の一挙一動が恐怖に繋がる。新米の補助監督はこんなもんだ。彼はアイマスクをしているため、目元が見えない。圧力をかけているのか、ただありのままにお願いしているだけなのか。
けれど絶対、五条悟の目はかっぴらいて瞳孔が肥大している。これはお願いでなく、一方通告。ノーは受け取らないという意味だ。
助けて、伊地知さん! ケガで一日療養を取ることになった、かの偉大な先輩に心中で縋る。が、彼はここにはいない。哀れな生贄、もとい社会勉強だと送り出されたが今すぐにでも逃げ出したい。初っ端から、無理難題しか言わなさそうだもの。
「ど、努力します!」
冷や汗たっぷり、震えながらも何とか愛想笑いで返事をすると、五条は満足げににっこり笑い、スケジューリングを尋ねる。最初の関門はクリアだ。伊地知さん直伝、対五条悟極意を必死に思い返す。
そうして一つ、二つとスムーズに用件を済ます中、好奇心には勝てずつい尋ねる。余計なことは、機嫌を損ねる原因になるので尋ねないこと。と言われていたのに。意外と優しいことが分かって、絆されたのだ。
「あの、五条さん。そんなに大事な用件って、何ですか?」
バックミラー越しに目が合った彼は、やはりにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「初めて娘と一緒に、お風呂に入る日なんだよ」
言葉を失ったのは、言うまでもない。
「ただいま!」
自宅に滑り込んだのは、五時十分前。約束の時間より余裕をもって帰宅することができたのは、補助監督を脅した……やる気を促した結果だろう。
逸る気持ちでリビングに顔を出すと「おかえり」と穏やかな妻が出迎える。その腕の中には、首がすわらない小さな小さな娘。横抱きで丸く抱っこされ、妻の添える手をぎゅっと力強く握っている。
「時間よりちょっと早かったね」
堪えきれず、と言わんばかりに吹き出す妻を小突く様に、トンと肘で押すとクスクスと笑いが酷くなる。
「だって、初めてのお風呂だよ」
「分かってるって。お父さん、頑張ったんだって」
喃語で意味のない言葉を上げる娘に、優しく語り掛ける。
「頑張ったから、一緒に入ろっか」
シュミレーションはばっちり。何度も何度も反復で練習をした。首がすわっていないから、首をささえることは勿論、ボディーソープで滑るから落としてしまわない様慎重に洗うこと。顔に水をかけないよう、ガーゼも持ち込む。それから……
「悟」
妻の呼びかけに我に返る。どうやら脳内での練習に没頭していたらしい。やはり彼女は、今にも笑い出しそうに口を歪めていたが、小さく咳払いをして笑いを誤魔化し笑いかける。
「とにかく、やってみよっか。私も傍についてるから、何かあったらすぐ呼んで」
そうして臨んだ初のお風呂は、散々だった。まず娘がじっとしていないことが誤算。足の力がついてきたのは分かっていたが、少しでも足に自分の体が触れるとびゅんと蹴り出す。それだけならまだしも、体を逸らせて上へ上へ動く。ボディーソープで摩擦はゼロ。
「え、ちょ、ほんと、えっ……待って!」
「悟? 大丈夫? 助ける?」
「や、多分まだ行け……うおっ! っぶねえ……」
いつか落っことすのではないかと、ひやひやしつつなんとか洗い終えた。体だけ。今度は顔。赤ちゃんに目を閉じてね。と言っても通じる訳がない。目をかっぴらいて、ご機嫌な娘の目を守りつつ顔の皮脂汚れを落とすために、ガーゼの出番だ。
お湯である程度絞って水分をキープしつつ、優しく額から拭いていく。瞼に差し掛かるとふっと目を閉じるので、その間に拭き終える。
「で、できた……! お待たせ、入ろっか」
湯船の中に共に入ったところで、外で待機していた妻が盛大に吹き出しつつ扉を開ける。手にはスマートフォン。
「お疲れっ……んふっ、フフフっ」
「……そんな笑うことないじゃん。ねー?」
ご機嫌そうに手足をバタつかせる娘の体に、優しくお湯をかけつつ妻の笑いが収まるのを待つ。初めてのお風呂を記録していたのは良いが、きっと手振れと笑い声が酷く記録としては役に立たないだろう。
ホームビデオという点では、最高の出来だろうし硝子や歌姫あたりが見たら、手を叩いて喜びそうだ。
「やってみたら分かるよ。沐浴のが簡単だった」
「えー、嘘。一緒に入る方が腰は楽でしょ」
「確かに」
二メートル近い自分が、六十センチ程の台の上にあるベビーバスで、腰をかがめせかせかと作業するのは、中々にキツイものがあった。常にすわらない首を片手で支え、片手で洗って。一緒に入っていれば、体全体で動きを制限して素早く洗えるし、湯船に入ってしまえばぷかぷか体が浮いて腕も楽だ。
「そろそろ上がろっか。長湯はまだ負担になるだろうし」
「ん、了解」
心地よさげに漂う娘に「あがるよ」と話しかけ、湯船から立ち上がりふかふかのバスタオルで出迎える妻にパスするわけだが。
「悟。湯切りしちゃダメだよ」
「いつの話してんの! もうやってないでしょ」
両親学級で人形相手に初めて沐浴をした時、あまりの濡れ具合に人形を上下して水分を落としたことがある。指導する助産師が、血相変えてすっ飛んできたのは記憶に新しい。
「でも湯切りしたくなる気持ちは、分かる」
「でしょ? ていうか、僕以外のお父さんもやってたよ、あれ」
懐かしい、と妻と笑い合う。初めてのお風呂はこうして幕を閉じ、あの動画は硝子と歌姫だけでなく教え子にも拡散する羽目に。
悪乗りした教え子たちによって、ティックトックに上がりプチバズるのはまた別の話。