塩辛いと思っていたそれは想像よりも甘かった。鼓膜が痛むくらいに鳴いていた蝉の音が一瞬にして消える。きん、と、音なのかもわからないそれが頭の中に響き、ゆっくりと広がっていった。跳ね返り、反響し、満たされていく。身体は金縛りにあったように指ひとつ動かせない。しかし内側に響くそれは恐ろしいほどに心地が良く、駆け巡る極上の痺れに眩暈さえした。
 暫くの間それに酔いしれていたが、次第に頭が痛み始め、ぴくりと指先が跳ねた。消えていた音が戻り、鉛のような重さを持った身体がベッドへと沈む。――ここはどこだったか。痛むこめかみを押さえ、見慣れない天井に思考を巡らせる。考えるほど頭痛は酷くなり、やがてその痛みに耐えきれず思考を放棄した。
 先程まで身体を起こしていたのが嘘のようだ。自力では起こせそうもない上体に、曖昧どころかまったく思い出せない記憶。わかっていることといえば、隣に寝ている男が自分と同じ劇団の団員で、さらにいえば、こんな場所に一緒に入るような間柄ではないということ。その事実を改めて理解すれば、余計わけがわからなくなる。
 下品で厭らしい色をした灯り。薄暗い室内は空調が効いているものの、どこか湿っぽい。成人男性が二人並んでも余裕のあるベッドは、小さな身動ぎにも大きく軋んだ。触れる感触から自分が全裸だとわかり、ちらりと動かした視界の先に使用後の避妊具が映る。ここが所謂ラブホテルだと確信するには十分すぎる情報だった。
 ビジネスホテルだったら幾分かよかっただろう。だが、窓の代わりに壁を覆っている鏡に、その希望は打ち砕かれた。せめてもう少しノーマルな部屋を選んでくれと頭を抱えても、昨日の自分はこの部屋で行為に及ぶことに必死だったのだろう。性欲が枯れるような年齢には程遠く、しかし節操もなしに誰彼構わず手を出すほど飢えてはいない。それでも、そんな自分が記憶を無くすほど熱中していたのだから、――きっと、そういうことなのだろう。
 相も変わらず隣に寝ている男は、頭を抱える自分を露とも知らず、穏やかな寝顔を浮かべていた。年齢にそぐわない幼い顔つきが、寝ているせいか更に幼く見える。眼鏡越しにも鋭かった眼光は今は瞼の下。どう見たって女には見えないのに、男にしては華奢な背格好は、そこらの女よりも艶かしく見えた。――いやいや、違うだろ。慌てて首を振り、呆けた思考を戻す。彼が女だとか男だとかという前に、目の前にいる人物が重要なのだ。
「ッなんで、この人が隣にいんだよっ……!」
 自分を殴りたくなる気持ちをぐっと堪え、口腔に残っていた塩辛さを飲み込んだ。初めに感じた甘さはもうない、あるのは喉元に絡みつく気色悪さだけ。
抜け出せない現状に苛立ちは募るばかりだった。
隣の彼が寝返りを打ち、眉根を寄せた。
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向き
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バッドパラドックス
初公開日: 2021年07月31日
最終更新日: 2021年07月31日
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万左 初書き、口調等模索中です
――曖昧だらけの世界で、あんたの声を探したんだ
ホテルに入ったことを思い出せない万里とその隣で寝ていた左京の話