青白い顔であった。
 くもり空が続く日の野草のようにしおれた青さである。
 その上に、まるで紙に描いたかのような微笑の面を貼り付けて、沢蕪君は拱手した。
「ようこそおいでくださいました、江宗主」
 江澄は拱手を返しながら、眉根を寄せた。
 藍家宗主が閉関を解いたと聞いてあいさつに来たものの、いったいこれはどういうことか。回復した様子がないばかりか、明らかに無理を押して表に出ている。
 彼が閉関した期間は二年余り、周囲からの圧力に耐えられず姿を現したか。もしくは含光君への負担を慮って、無理を押したか。
「その、沢蕪君」
「なんでしょうか」
 机を挟んで向かい合い、一口茶をいただいたところで江澄は耐え切れなくなった。
「無理に、笑わずともよいのではないか」
 彼は笑みを崩さなかった。やはり貼り付けた微笑のままに首をかしげて見せた。
「お心遣い痛み入ります。ですが、無理をしているわけではありませんので」
「そうか……」
 他家の宗主が踏み入る領域ではない。
 江澄はそれ以上の言葉を持たず、代わりに懐から手のひらに載るほどの小袋を出した。
「よろしければこれを」
「おみやげは先ほどたくさんいただきましたが」
「私が、あなたに、お渡ししたいものです」
 沢蕪君は小袋を開けて、中身を手のひらの上に転がす。
 出てきたのは雲形の飾りがあしらわれた飴であった。
「雲夢のみやげなので」
 その日、初めて沢蕪君の表情が動いた。
 わずかに眉を寄せて、彼は飴を小袋に戻した。
「ありがたく頂戴いたします」
 江澄はそこで寒室を辞した。
 射日の折、ひとかたならぬ恩を受けた身としては沢蕪君の様子が気がかりであったが、ほかにできることもなかった。
 それから江澄は半月ごとに雲深不知処を訪ねた。
 みやげと称して、果物、干菓子、揚げ菓子をせっせと運んだ。
 最初に飴を渡したときにすこしだけ表情を変えてくれたからと、甘いものばかりを選んだ。
 それが功を奏したのか、それとも必要以上に通う江澄に情けをかけたのか、沢蕪君の面からは少しずつ笑顔がはがれはじめた。
 ふた月が過ぎるころになると、向かい合って座ったところで沢蕪君はむっつりと黙りこくるようになった。
 江澄は一人で持参した菓子をつまみ、茶を飲み、寒室を辞す。
 話す言葉がひとつもないことは悔やまれたが、沢蕪君はそれからも江澄を拒否しなかった。
 四月が過ぎた。
 初夏を迎えたその日、沢蕪君は江澄にぽつりと言った。
「次は、いつ」
「は、半月後に、また」
 声が震えた。飛び上がりたくなるくらいうれしかった。
 その次のときにはとびきりの甘いものを、と手ずから作った揚げ砂糖をみやげにした。
 祝いにふるまわれる菓子で、沢蕪君の回復を喜びたかった。
「これは、ありがとうございます」
 沢蕪君はかすかに笑んだ。
 江澄はかじろうとした揚げ砂糖をぽろりと落とした。
 その次には瓜を持って行った。
 暑い日が続いていた。
 冷やした瓜ならば沢蕪君が笑顔を見せてくれるような気がした。
「大変に、嬉しいものですね」
「いや、私が、あなたに差し上げたいだけなので」
 沢蕪君の顔がくもった。このころになると彼は江澄に様々な表情を見せるようになっていた。
「いつも、ありがたく思っています。あなたに心配をかけて申し訳ない」
「心配など」
 これは江澄の勝手である。沢蕪君の都合など置き去りにして、自分だけに見せてもらえる表情にとりこになっているだけである。
 しかし、正直に言うわけにはいかない。
 忙しく頭を働かせた結果、江澄の口から出たのはろくでもない言い訳だった。
「私は、あなたに恩があるので」
 沢蕪君は目を瞬き、眉尻を下げて微笑んだ。
 無理のある微笑を、江澄は久しぶりに見ることになった。
 次に江澄が雲深不知処を訪れたとき、彼は山門の前にいた。
 ふもとから上ってくる江澄を見つけると、彼はくったくなく笑顔を浮かべた。
「江宗主、お待ちしておりました」
 二人きりのときにも見たことがないような晴れやかな笑みである。
 拱手をしつつ、江澄は顔を伏せたときに歯を食いしばった。
 とうとうこのときがきたのである。
 沢蕪君は寒室へと向かう間も気負う様子なく、微笑をたたえたまま、優雅に歩を進めた。
 机を挟んで向かい合っても、笑顔はそのままだ。
「お元気になられたご様子で」
「あなたのおかげです、江宗主」
 その通りであった。
 江澄が甘いものをみやげに通ったことには多少なりとも意味があった。
 それを疑いはしないが、つまり、これで江澄の役割は終わったのである。
 奇しくも、今日のみやげは蓮の実だった。今までで一番、甘くないみやげだ。
「蓮花塢からわざわざ、ありがとうございます」
「いえ……」
 江澄は蓮の実を口に放り込んだ。
 今日で終わりであるという事実を飲み込まなければいけない。
 蓮の実と一緒にかみ砕いてしまえればよかったのに。
「江宗主、あなたの気鬱の理由を私に教えてくれませんか」
「は?」
 唐突な申し出に、江澄は目を白黒させた。
「私は、あなたに多くをいただきました。私がお返しできることであれば、力になりたい」
 沢蕪君の手が伸びてきて、江澄の手を取り、やさしく包む。
 蓮の実が転がって、床に落ちた。
「いや、私は、気鬱など……」
「では、その悲し気なお顔はどうしてです」
「悲しいわけでは」
「私のせいですか。うぬぼれても、いいですか」
 江澄は呆然と沢蕪君を見返した。
 自分の気持ちは知られていたのか。しかし、それにしても、言葉の意味がさっぱりつかめない。
「江宗主、あなたを江澄とお呼びしたい」
「な、それは」
「私を藍渙と呼んでいただきたい」
「沢蕪君、なにを」
 彼は江澄の手を引いて、その指先に唇を寄せた。
 江澄は動けなくなった。
 頭がついて行かない。
 何が起きている。
「よいと、言ってください」
 言われるままにうなずいた。
 沢蕪君はこれまでにないほどの、花が咲き誇るような、笑顔を浮かべた。
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