冒険に出かける準備をしていた。
仮眠をとっていたベッドから体を起こして、ドイルは襟元を整えた。微かな衣擦れの音にも身が引き締まり、心地よい興奮が背中を抜ける。ふ、と漏れた吐息も静かな室内にはよく響いた。外は霧の立ち込める夜だ。数フィート先の視界も危うい今宵の街は、いかにもこれから幕を開ける舞台にふさわしい。
額に垂れる髪をかき上げて流し、放り出していたベルトを締める。金具がカチリと噛み合ったのを確認してから、椅子に掛けていたジャケットに袖を通した。英国紳士たるもの、いついかなる時も身嗜みは完璧でなければならないのだ。
冒険に漕ぎ出すのは好きだった。それが正義のためであれば尚の事。そしてドイルが今から向かうのはまさにそれだった。光の側に立ち、闇を打ち払う。己の生きるべき世界はここだと思わせてくれる時間だ。たとえ危険が伴うものであろうと、決して目を逸らさない自信があった。
クローゼットに向かう歩幅が自然と大きくなる。扉を開け放ち、取り出した外套を肩に羽織った。あと一工程で、冒険の支度は完璧だ。
ドイルは部屋の扉を開けて、階段を下へと降りていく。階下の扉の先に広がるのは、雑然とした居間の景色だ。
手紙や新聞のスクラップ、その他何のためにそこにあるのかもドイルには分からない本たちが雪崩でも起こしたかのように散らかる室内で、ときおり家具が島のように頭をのぞかせている。正面にあるのは丸テーブルの食卓で、左手には新聞や本でほとんど埋まった長椅子と、向き合って置かれた二つの肘掛け椅子がある。椅子の間の小さな机の上には、ペルシャスリッパが片方だけ無造作に転がっている。奥のマントルピースには、手紙の束を縫い止めて一本のナイフが深々と突き立っている。
ドイルはそれらを一瞥して、足の踏み場もなく散らかった床を物ともせずに窓の方へ進んでいった。足元からは小さな音すら立たない。これぐらいで物音は立てられないからね、と一人思う。勝手知ったる部屋で無様に物にぶつかってなどいては、これから始まる命懸けの狩りでは到底やっていけないのだ。本の山を跨ぎ越す足取りが弾むようになってしまったのは仕方がない。この夜への期待ゆえだ。
狩り、そう、彼が向かうのは狩りだった。霧に沈む街という暗いジャングルで息を潜める野獣を、巧みに追い立てて光の元へ引きずり出す大仕事。
だから当然、必要なものは。
居間に入って右手側の奥、小さな机の引き出しに、ドイルはそっと手をかけた。すらりと引き出せば、そこにはペンやタイプされた草稿に混じって、冷たく光るリボルバーがある。
ドイルはごく自然に手を伸ばして、リボルバーを持ち上げた。見かけに似合わないずっしりとした金属の重みは手に余るようでいて、グリップを握ればたちまち馴染む。ランプの下でぬらりと光る無骨な黒色は、幾度となく今日のような冒険を潜り抜けた重みを感じさせた。
(これからも共に行こう)
銃身を慈しむように撫でて、ドイルはリボルバーをポケットに滑り込ませた。口元が猟師の笑みを形作る。武者震いの感覚に、頭を軽く振る。
弾んでしまうのを隠しきれない足取りで居間を出て、ドイルは階段の方へ進んでいった。悪戯を企てる子供のように足音だけは殺しながら、一歩一歩、自分を待つ冒険の方へ。
一階に続く、十七段の階段を見下ろした。
(さあ)
階段を、五歩降りた。胸が高鳴るのを感じた。
(紳士として、騎士として、務めを果そう)
また、五歩降りた。ふと、頭が鈍く痛んだ。
(私たちなら、どんな悪にも打ち勝てる)
三歩だけ、降りた。
(立ち向かうべきは、誰だ?)
恐る恐る、二歩降りた。また頭痛が増した。
(私たち、とは、誰だ?)
一歩、震える足を下ろした。
(何かがおかしい)
通りには二輪辻馬車が止まっていた。自分を待つそれが、ふと悪魔を乗せた箱のように見えた。浮き立つ思いと共にポケットに収めたはずのリボルバーが、嫌な重みで肩にのしかかる。
不意に、馬車に深々と腰掛けていた一人の男が、弾かれたようにドイルの方へ身を乗り出して笑いかけた。
「The game is afoot, my dear!」
己が生み出した愛すべき、愛しきれない名探偵がそこにいる。
ドイルはリボルバーを取り出した。
乾いた銃声と共に跳ねた銃身は、どうしたわけか青みがかった美しい銀色に煌めいていた。
× × ×
無音の悲鳴と一緒に飛び起きた。
ここに来てから早一年近く、もはや見慣れた図書館の自室でドイルは一人、早鐘を打つ心臓を押さえてベッドの上に身を起こしていた。
「……なんという夢だ」
今ならはっきりと分かる。あそこは自分がかつて描いたベイカー街二二一Bだ。自分はそこで、おそらくあの探偵の友になっていた。ホームズと共に夜のロンドンへ繰り出し、犯罪者を捕らえる冒険に出ようとしていたのだ。
右手を、ゆっくりと顔の前に持って来る。片手でリボルバーを撃った反動が、まだ残っているような気がした。
――「The game is afoot, my dear!(獲物が飛び出したぞ、親友!)」
彼の顔を見た瞬間、抜け出せたはずの悪夢が再び目の前に押し寄せたような気がして、咄嗟に銃に手を伸ばしてしまった。
ろくに狙いも定めていなかったから、きっと弾は掠ってもいないだろう。そもそも、先ほどまでドイルがいたのはあくまでも夢の中だ。本の中ではない。
額に手をやると、前髪がじっとりと貼り付いていた。緩慢な動作で髪をかき上げてから、ゆっくりと後ろに倒れ込む。
「……はは」
ドイルにとっては困った事に、たった今まで彼が見ていた夢は、全くもって悪夢ではなかったのだ。
窓越しに霧に沈んだ街を見下ろした時、背を駆け抜けた期待と興奮。身支度を一つひとつ整えていく時の浮き立った心。リボリバーをポケットに滑り込ませた時に肩に伝わった、ぞくぞくする重み。
正義と誇りを胸に灯し、頼れる友と肩を並べて冒険に漕ぎ出す夜に、彼は確かに心を躍らせていた。幾度となく己の作家としての道に立ちはだかり、悩まされてきたあの世界を、ドイルは愛していたのだった。
「そんな事、元より分かっていたがね」
誰に聞かせるわけでもなく呟いた負け惜しみが、全く負け惜しみになっていない事に遅れて気付く。
作家の武器種を変える『指環』の研究がまた一つ完成し、ドイルの指環が錬成可能となったことが帝國図書館本館より広く告知されたのは、次の日の夕刻の事だった。
× × ×
「今日からよろしく、ドイルさん」
「センセもこれで指環組の仲間入りやなぁ! 連日連夜の特訓の始まりでっせ、頑張りましょな!」
「撃ち漏らしはこっちで片付けておくから、ドイルさんは自分のペースで進んでくれ」
「ああ、よろしく頼むよ」
新美・徳田・織田・菊池の第一会派に新美と入れ替わる形で入ったドイルの右手小指には、緋色の石が嵌め込まれたほっそりとした指環が輝いている。「まさかうちの図書館でこんなにあっさり錬成に成功するとは思わなくて……」とかわいそうなほど震えていた司書から受け取ったばかりの、銃を扱うための指環だ。
彼らが潜書しているのは、奇しくも封蔵書――しかも、ドイルの著書の中だった。夢とほとんど変わらない街並みは、しかしあちこちが欠け落ちて虚な空白を晒している。
「少し試し撃ちをしてから戦った方が良かったかもしれないけれど」本に手を添えながら、徳田が言った。「残念ながら、そうはいかないみたいだね」
その言葉とほとんど同時に、路地から飛び出してきた羊型の侵蝕者が、彼らの方へ突っ込んできた。
「ドイルさん」
「心配いらない。少し下がってくれるかね」
本に手を添え、想いを込める。光を放って形を変えた本は、予想通りの重さでドイルの手のひらに収まった。
青みがかった銀色に、金色で繊細な装飾が施された軍用のリボルバー。ドイルは右手にそれを持ち、突き進んでくる侵蝕者と相対する。
射程範囲まで迫った瞬間、ドイルは横に跳躍した。
口元に上るのは、夢と変わらない笑み。
どうしようもなく、魂が歓喜する。
「――狩りにでも出かけるかい?」
両手でリボルバーを構え、銃弾を放つ。
敵の動きを読み切った弾丸が、過たず羊の眉間を撃ち抜いた。