――とうとう姑蘇藍氏の宗主が嫁を取るのだって。
 巷間に噂が行き交うようになったのは数日前のことだった。
 おそらく姑蘇から広がったその噂はあっという間に雲夢にまでやってきた。町の人々はおかしく話し合い、額を突き合わせては相手は誰かと言い合った。
 当然、その噂は雲夢江氏の宗主の耳にも届いた。
 江澄は鼻で笑っただけだった。
 ところが、江澄が噂を耳にしたその数日後、姑蘇からはるばる客がやってきた。
 その客は天子笑の甕を揺らして、「飲もうぜ」と江澄の私室に上がり込んだ。
「何故、お前が来る。含光君はどうした」
「藍湛はお留守番。いいから、いいから」
「天子笑はひと甕だけか。足りぬだろう。次はもっと持ってこい」
「雲夢の酒が飲みたいんだよ。これはお前の分。俺はいつも飲んでるからな」
 江澄は遠慮せずに天子笑を盃に注いだ。
 魏無羨は相変わらず甕の口から直接酒を飲む。
 しばらくは二人ともが無言であった。落花生の殻がただ積まれていく。
「なあ、噂なんて気にするなよ」
 だしぬけに魏無羨が言った。
「気にしていない」
「嘘だね。じゃあ、なんで、沢蕪君に別れようなんて文を出したんだ」
「あのひとはそんなことをお前に話したのか」
「沼地の底に沈んだみたいな顔色の人を放っておけないだろ」
 想像はたやすい。江澄は唇だけで笑った。
 噂はどうであれ、藍曦臣が妻を求めたのは事実である。そのことで藍啓仁と揉めていると、藍家の師弟が金凌にこぼしたのを聞いたのだ。
 情を交わすだけでなく、心まで預けていると思っていたのは自分だけだった。
「噂ではないからだ」
「誰かに聞いたのか」
「そんなところだ。俺は障りにしかならん」
 盃の中で揺れる姑蘇の酒には、実に情けない顔が映った。
 いつかこうなることはわかっていた。わかっていて手を伸ばした。いまさらだと自分をあざわらっても表情は変わらない。
「そんなことないだろ、ちゃんと話し合ったほうがいい」
「嫁取りで忙しい相手と話し合いなどできるわけないだろう」
「だから、嫁取りなんかじゃないんだって」
 魏無羨は苛立ちを隠さずに甕を床にたたきつけるようにして置いた。
「お前、そうやって思い込んだら頑固なのは昔っからだけど、こんなときくらい素直になれよ。だいたい、どうして別れ話になるんだ。嫁取りの話が出たんなら、ぶん殴るくらいしろよ」
 江澄は天子笑を含んだが、眉を寄せた。うまくない。
「江澄、なあ」
「魏無羨」
 さえぎられて、魏無羨は口をつぐんだ。雲夢の酒をあおって、落花生を二つばかり口に放る。
「俺が願っているのはあの人の幸せなんだ」
「だからって」
「あの人が幸せであるなら、俺がいる必要はない」
 今度こそ、魏無羨は返事を失った。江澄はだまったまま、天子笑が空になるまで、ただ酒を飲み続けた。
 途中でこめかみのあたりが痛くなったが、それでも飲むのをやめることはできなかった。
 酔っているだけだ。
 酔っているから目頭が熱いのだ。
 魏無羨は江澄の隣に座って、その頭をなでた。江澄が眠るまで、そうして二人で酒を飲み続けた。
 翌朝、江澄は痛む頭を押さえつつ、魏無羨を見送りに桟橋まで出ていた。
 白い校服の男は、江澄と同じく額に手を当てる魏無羨をさっと抱き上げた。
「そういうことは姑蘇に帰ってからやれ」
「あなたの指図は受けない」
「だったらとっとと失せろ」
 言われなくとも、と返事があるはずだった。藍忘機と江澄とのいつものやり取りならそうなるはずだった。
 しかし、藍忘機はじっと江澄を見つめて、何故か頭を下げた。
「兄上を頼む」
「は?」
 江澄がその言葉を理解するより先に風が舞った。
 ものすごい勢いで上空から降りてきた藍曦臣は、江澄をさらうようにして朔月の上に抱え上げた。
「藍渙!」
「少し、時間をいただきます」
 藍曦臣は抗議を聞かず、再び青い空へと戻る。
 江澄はしかたなく藍曦臣の腰に抱き着いた。死にたいわけではない。
「藍渙、蓮花塢からは出るなよ」
「わかりました。では、ここで」
「ここで?」
 藍曦臣は朔月を止めた。止めたところで、空の上である。蓮花塢の上空である。
 藍家宗主ほどの仙師となれば、御剣の術もある程度の時間を保っていられるとはいえ、わざわざこんなところで浮いている必要はない。
 しかし、藍曦臣は「あなたと二人で話がしたい」と下りようとしない。
「下りたらあなたは逃げるでしょう」
 江澄は視線をそらした。否定できるだけの自信はなかった。
「先日、いただいた文ですが」
「そういうことだ。下ろせ」
「いやです。私は承諾していません」
「承諾だと? あなたは嫁を取るのだろう」
「取りません。どうしてそのような話になったのか、私自身、不思議なのです」
 藍曦臣は江澄の頬に手を添えて、無理に視線を合わせた。
 それだけで視界がにじんだ。
 だから、会わずに済ませようとしていたのに。
「江澄、よく、聞いてください」
「いやだ」
「聞いて、お願いだから」
 足元で朔月が震えている。藍曦臣の仙力が揺れているのだ。
「私が叔父に話したのは、道侶を迎えたいという話です」
「つまり、妻を迎えるのだろう」
 江澄は全力で藍曦臣の胸を押し返した。落ちた時は落ちた時だ。こんな話は聞きたくない。
「だから、俺は」
「あなたと道侶になりたい」
 すべての音が消えた。江澄は足元を見たまま動けなくなった。
「私の道侶になってください」
 藍曦臣の腕が、やさしく江澄の体を引き寄せる。
 再び腕の中に戻り、江澄は目を瞬いた。風に乗って、しずくがはらはらと舞い落ちる。
「俺は、あなたが、幸せに、なるならと」
「私の願いはあなたひとりです。あなたがいてくれるなら他はいらない」
 それで、藍啓仁と折り合いがつけられないのだと藍曦臣は語った。
「今、叔父上とは話し合っている最中です。私は宗主を後進に譲ります」
「なにを、言っている」
「あなた以上に大切なものを持てなくなってしまった。これでは宗主は続けられませんから」
 江澄は呆然として、さわやかに微笑む男を見上げた。
 抹額が、朝の光を浴びて、その白さが際立っている。
 開いた口がふさがらない江澄に、藍曦臣はちょんと口づける。
「返事を聞かせて、江澄」
 江澄は白い衣に顔を埋めた。
 とんでもないことを言われている。すぐに返事などできるわけがない。
 そのはずなのに。
「いいだろう」
 口は勝手に動いて、気持ちを音にした。
 藍曦臣の腕に力がこもる。体が痛むくらいに強く。
「俺の願いは、あなたの幸福だから」
 抹額の端が揺れている。
 蓮花塢の風が通り過ぎていった。
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曦澄_ワンライ_願い事
初公開日: 2021年06月05日
最終更新日: 2021年06月05日
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