白い鳥はどこまでも自由に空を飛ぶ。力強く風を打ち、鳥は青い空に、鮮やかに白い命を描く。息が続く限り昇りつめ、高揚する心を空に突き刺す。あぁ──。
力強く弓を引き切り、ユウは自分の中から、ヴァイオリンの中から音を解放した。最高の音! ステージの天井を越えて遥かな地を見上げ、飛び去っていく白い鳥を見送って、ユウは我に返った。
歓声と拍手が押し寄せてくる。そうだった。夢中で弾いていた。
目を輝かせて拍手をしてくれる観客に、ユウは笑って頭を下げた。指揮者と抱き合い、コンサートマスターと握手をし、花束を受け取って頭を下げる。
コンサートは成功だった。やっとここまで来たのだ。
アンコールをこなし、何度も観客に挨拶してから、ユウはステージの袖へ戻った。マネージャーが肩を叩いてねぎらってくれる。指揮者やオーケストラの演者たちが、楽屋へ引き上げていく。
「素晴らしい演奏でした」
聞き慣れない声に、ユウは顔を上げた。タキシードに、くすんだ青いコートを羽織った男が立っていた。タコのような持ち手のステッキをつき、銀の髪に中折れ帽をかぶった、若い男だった。
彼は両脇に、一目で双子とわかる長身の男たちを従えていた。こちらもタキシード姿で、それぞれ片目が金色をしていた。
声をかけてきた銀髪の男は、ユウと目が合うとにっこり笑った。
「すべての人を魅了する素晴らしい演奏です。セイレーンもかなわない美しさでした」
誰だろう。そう思った時、横からマネージャーが声を出した。
「ユウ、こちらはアズール・アーシェングロット氏です。今度のお仕事について話しましたよね? スポンサーの方なので、楽屋で少しお話ししましょう」
ユウは頷いた。誰かはわからないけれど、その声にはどこか──何か心に残るものがあった。アーシェングロットは胸に手をあて、優雅な仕草で会釈をすると、まるでユウが恋人であるかのように、さりげなく腰に手を回してエスコートしてきた。
ヴァイオリンを持ったまま、ユウは自分がひどく自然にエスコートされていることに内心驚いた。なぜ? この人は誰? 無言のまま微笑んで、双子が後ろをついてくる。楽屋へ行くまでのわずかな時間にも、ユウは自分の顔が意味もなく火照るのを感じた。
知らない。こんなふうに優雅で、こんなふうに甘く自分に触れる人のことを、自分は知らない。
それなのに、ユウの中に不快な感じはなく、それが一番の驚きだった。
楽屋の中で、ユウはヴァイオリンを慣れた仕草で拭き、ケースにしまった。
他のゲストはすべて今夜はマネージャーによって締め出され、小さな楽屋の中にいるのはユウと、例の3人だけだ。マネージャーも、用事があるとかでどこかへ行ってしまい、ユウは内心途方にくれた。
「あのぅ……」
ケースの中にヴァイオリンをしまうと、ユウは蓋を閉めながら静かに聞いた。
「えぇと、その……仕事について、詳しいことはまだ聞いていないんです。どういう感じのお仕事なんでしょうか」
アーシェングロットは、やはりにっこり笑った。
「あぁ……これはこれは。ユウさん、緊張しないでください。僕はラウンジ・レストランを経営しておりまして、もうすぐ3年になります。自分で言うのもなんですが、そこそこ成功しておりまして。僕からのお願いというのは、ユウさんに僕のレストランのステージでディナーショーをやって頂きたいというものなのです」
「ディナーショー……つまり、あなたのレストランのステージで演奏会をするということでしょうか」
「そうです。僕はつい先日、薔薇の王国であなたの演奏をお聞きする機会に恵まれました。その時のあなたの演奏に大変感動しまして。是非、僕のレストランにお迎えできればと」
薔薇の王国には2週間前に行った。その時の演奏を聞いてくれていたというのか。
「あぁ……わかりますか、ユウさん。僕がどれだけあなたを探したか」
アーシェングロットの目が、不意に真剣な色を帯びた。『探した』?
「僕を知っているんですか?」
後ろにいる双子の金の目が、突然光った気がした。さっきまで諦めたような色だったのに。慌てたようにアーシェングロットが言葉をつなぐ。
「あなたのように才能のある方を、です。僕はこう見えても、珊瑚の海で育ちまして。芸術については、地上の方々よりほんの少し理解が深いと自負しております。僕の友人もご紹介させてください。こちらはジェイド・リーチ。こちらはフロイド・リーチと申します。2人とも僕とはずっと一緒に仕事をしております」
ジェイドと紹介された男は、胸に手を当て、にこりと笑った。フロイドと呼ばれた男は……彼はなぜか一瞬むすっとした顔になると、ふいと目を逸らした。
なんだろう。何か気に食わなかったのだろうか。自分が何か彼の機嫌を損ねるようなことをした覚えはなかった。仕事を依頼してくる者の態度でもない。
普通ならこちらも反感を持つような態度。だがユウはどういうわけか、その横顔を見たことがある気がした。
お仕事について、食事でもしながらゆっくりお話ししませんかと誘われ、ユウは楽屋を連れ出された。もう帰るつもりだったのに、マネージャーは彼らにユウを託し、ユウはよくわからないうちに彼らのリムジンに乗せられてしまった。
モストロ・ラウンジと書かれたレストランの車寄せに、リムジンは滑り込んだ。
車の中では、3人とも無口だった。どこか心ここにあらずという態度で窓の外を見るフロイド・リーチ、微笑みを顔に貼りつけたまま、ユウを見つめるジェイド・リーチ。そして静かに座ったままユウの顔をしげしげと観察するアズール・アーシェングロット。
気まずい雰囲気のまま、ユウは膝に置いたヴァイオリンのケースを撫でた。
この世界で、自分は気がついた時にはヴァイオリン以外に何も持っていない状態で、ぼんやりと街角に立っていた。3年前のことだ。ヴァイオリンを持っているなら、演奏家ではないか。そう考えた親切な人に、知らないヴァイオリニストの所へ連れていかれた。
何も覚えていないのに、ヴァイオリンは最初から弾くことができた。豊かな音だけは自分のものだった。なぜなのかわからないまま、ユウは最初に保護してくれたヴァイオリニストから別なヴァイオリン指導者を紹介され、流されるままにヴァイオリンを弾いて報酬をもらうようになった。
ユウ、という名前が自分のものなのかどうかも曖昧だった。頭の片隅に残っていた響きを口にしただけで、それは自分を表すものとなった。
モストロ・ラウンジは広いレストランだった。
本格的なステージを備えた落ち着いた雰囲気の店で、壁の一面は透明になっている。その向こうは海の中だった。人魚たちが水の中を横切っていくたびに、空気が揺らめく。
「こちらです」
アーシェングロットの案内についてラウンジの中を歩きながら、ユウは眩暈がした。深い……深い海の底に自分は沈み、口の中から泡がこぼれる。こぽんという小さな音が頭の中で響く。こぽこぽ、と音が続く。体の奥を満たして水がゆらんと──
「あぶね」
乱暴な呟きと共に、ユウの腕が掴まれた。ハッと我に返る。今のは何だろう。
ユウの腕を掴んだのは、フロイド・リーチと言われた方だった。
「……いきなり倒れたらビックリすんだけど、小エ」
「ユウさん、こちらのテーブルにどうぞ」
フロイドの言葉を遮るように、ジェイド・リーチが声を出した。静かに椅子を引き、手招きをしている。
店のウェイターが一人、小さなテーブルを運んできていた。
「ヴァイオリンはこちらに」
「すみません」
促されるままにヴァイオリンを置き、椅子に座る。背もたれの高い、高級な椅子だ。カトラリーは……。
「あ、このセット、まだ使ってるんですね」
ぎょっとした顔で、アーシェングロットがユウの顔を見た。後ろで双子が息を呑む気配。
「…………そう、ですね」
絞り出すような声だった。目の前の優雅な男が、今にも泣きだすのではないか。ユウは一瞬そう思った。だがアーシェングロットはそれきり黙ってユウの向かいに座った。両横に双子が座る。
ウェイターがグラスとシャンパンを持ってくる。遅い時間で、他の客はもうあまりいなかったが、彼らがこちらを見ている視線があった。自分の感情を必死で抑えているような3人とユウを、店中が見ている。
ウェイターが注ぐシャンパンを、ユウはじっと見つめた。小さな小さな泡。水面に向かって浮かび上がっていく空気の粒。
息が……。
不意に息が苦しくなった。声を出そうとしたが、ひゅっという息だけが漏れた。
泡が出ていく。こぽんという音が頭の中で響く。海が──海がユウを捕まえる。どこか遠くで硬い音がして、視界が横になった。あぁ自分は椅子から倒れ落ちたのだ。他人事のようにぼんやりとそれに気づく。
──小エビちゃん──
水の中で聞く音のようなくぐもった声が聞こえ、ユウの意識はそのまま、暗い海の底へ沈んでいった。
目を覚ますと、そこはいつものアパートの、自分のベッドの上だった。しばらくじっと天井を見つめる。記憶が飛んでいるという慣れた感覚。夕べは何をしていたっけ?
コンサートの高揚感を思い出し、その後のことをゆっくりと思い出す。謎めいた3人の男たち。海のようなラウンジ。小さな、小さな泡。
ベッドを出て、カーテンを開ける。いつもと同じ、のんびりした朝の風景だった。猫が一匹、石畳の道を走ってきて、ユウのアパートの下で立ち止まった。灰色の猫。
その猫はどういうわけか、後ろ足で立ち上がり、不安を湛えた目でじっとユウを見つめた。神秘的な青い炎が耳からこぼれている。尻尾が三又で、猫のような、猫ではないような姿。
猫は数分間、ユウを見上げ続けた。何か言いたそうに口が動く。
夕べのアーシェングロットのように、猫は泣きそうな顔をした。それから口を引き結び、逃げるように走っていった。
つきん、と頭が痛んだ。
あの猫、どこかで見た。見ただけじゃない。触れて、抱き締めて、一緒に眠った。
名前があったはずだ。毎日呼んだ名前が。胸に何かがせり上がる。肺を埋めるような悲しみで息ができなくなる。ユウは胸を押さえ、足りずに手の平で口を覆った。
何だろう。何かがあったはずだ。あの猫も、あの3人も、自分を見て、どうしてあんな──あんな泣きそうな顔をする? そしてどうして自分は、必死で嗚咽をこらえている?
知らぬ間に、口を押さえた手の上を涙が流れていた。何かがおかしい。自分の心には、埋めなければならない場所がある。何がそこにあったのか。「ない」ものを見つけなければ、自分はきっと壊れてしまう。
よろめきながら、ユウは窓を離れた。どうして自分はここにいる? 昨日の夜、ラウンジで意識をなくしたのに、なぜ自分はここにいる。
ヒントを探して、ユウはアパートの中をよろめきながら歩き回った。玄関のドアは閉まっていた。鍵もかかっている。自分の靴だけが揃えて置かれていて、誰かが来た形跡はない。
キッチンにも何もなかった。ベッドに戻ってサイドテーブルを見る。何もない。読んでいた本をぱらぱらめくっても、何も挟まってはいない。
練習室のドアを開ける。ヴァイオリンはいつもの場所にきちんと置かれていた。ケースを開ける。何も変わったところはない。
お願い。誰か。誰かヒントを。自分が何を探しているのかを教えて! 教えて!
部屋を見回す。楽譜の棚があり、譜面台には昨日弾いた曲の楽譜が広げられている。練習した時のままだ。楽譜の前にある物に、ユウは目を見開いた。見慣れない紫のカードだ。
『2日の午後1時。お迎えにあがります。A.A.』
その下には電話番号が走り書きされていた。
ユウはそのカードを握りしめ、床にうずくまって泣いた。
「あのさぁ~、こんな回りくどいことすんの、めんどくさくね?」
ふて腐れたフロイドの声に、アズールは書類から顔を上げた。
「そのことについては説明したでしょう?」
「わかってるけど~、小エビちゃんもう思い出してるっぽいし」
アズールは溜息をついた。
「だから……いきなり全てをユウさんに話すのは、かえってパニックを起こして良くないと」
「やってみなきゃわかんねぇじゃん」
オフィスのソファで、フロイドは不機嫌な態度を隠しもしない。その向かいで、ジェイドが静かに言った。
「フロイド。僕はアズールの言う通りだと思います。ユウさんはまだ、記憶が断片的にフラッシュバックしている状態と見ました。一気に全ての情報を与えたら、大変なことになる」
「でもオレらが小エビちゃん見つけたってことは、あっちの連中もとっくに見つけてるってことじゃね?」
アズールは書類を読みながら答えた。
「手は打ってあります。グリムさんも行きましたし、ユウさんの周囲はすでにきちんと護衛で固めてありますから」
「そんなんアテになんねぇよ。雑魚ばっかり配置してさぁ。オレが直接小エビちゃんちで一緒にいてさぁ……」
ばさっと乱暴に書類をデスクに放り出すと、アズールはフロイドを睨んだ。
「フロイド、そんなことをしたらユウさんがどうなるか、わかっていて言っているんでしょうね」
無言のまま、フロイドは立ち上がった。ずかずかとアズールの前を横切り、オフィスを出ていく。バン!と乱暴にドアが閉められ、アズールとジェイドは顔を見合わせた。
「……あの馬鹿、ユウさんのところに」
「それはないでしょう、アズール。フロイド自身、わかっているんですから。どれだけ焦っても、敵がどう動くかを待ってからでなければ、我々はユウさんを取り戻すことはできない」
大きな溜息。書類が自分の息で浮くのをじっと見ながら、アズールは呟いた。
「フロイドだけじゃない。僕も正直、頭がおかしくなりそうだ。事態が数日中に動いてくれることを心底願っています。ジェイド……ヴァイオリンのことは」
「大丈夫ですよ、アズール。ユウさんも、ヴァイオリンも、すべては……もう準備が整っています。あとはただ、待つだけです」
微笑むジェイドに向かってアズールは一瞬感謝の眼差しを向け、そのまま俯いた。眼鏡を外し、ことりとデスクに置く。疲れたように顔を両手で覆って、アズールは静かに──静かに自分の作戦の成功を祈り続けた。
アズールの残したカードは、よれよれになっていた。もう電話番号はすっかり頭に入っているし、自分のスマホにも入っている。なのにユウはそのカードをまるでお守りのように持っていた。
何度目だろう。ユウはそれを譜面台から持ち上げ、しげしげとその筆跡を眺める。細いペンで、神経質に書かれた文字。そのインクの線を指先で辿る。カードの縁をなぞり、電話番号をひとつひとつ指をあてて確認する。裏返して何も書かれていないのになぜかがっかりし、譜面台にもどして再びじっと見る。持ち上げて……指で触って……その繰り返し。
まるで強迫観念のように、その仕草を何度もやりながら、ユウは満足しなかった。何が足りないのかを考えているうちに、ユウは少しずつ、わかってきていた。
欲しいのはカードじゃない。
欲しいのはひとりじゃない。
アズール・アーシェングロット、と口の中で音を転がす。フロイド・リーチ。ジェイド・リーチ。音は小さな泡のように、柔らかく弾ける。音は口の粘膜をゆっくりと舐め、舌に絡みつき、喉の奥にさざ波のような揺らぎを与える。
カードを書いている男の、指先を想像する。インクを自分の指先でなぞりながら、それを書いた男の指が、自分の手をゆっくりとなぞる仕草を想像する。
耐えられなくて、ユウはカードの角を唇に当てた。ゆっくりと、柔らかくなった角が自分の唇の上を動いていく。唾液が不意に甘くなった気がして、ユウは目を閉じる。カードの角で自分の唇を刺激しながら、ユウはそれを書いた男と、そばにいる2人の男の指が交代で自分の唇を撫でていく光景を思い描く。
やがて彼らの手は唇から広がっていく。頬を包み、目の下を撫でる。首筋を辿り、顎の先を軽く叩く。からかうように。包まれていく感覚は穏やかで、たゆたう水底で眠るような気分がする。温かくて、しっとりと皮膚を覆う水と一緒に、彼らの弾力のある体が自分の体に巻き付き、軽く絞めては緩む。鼓動のような動きと、滑らかにうねる彼らの柔らかいヒレと、快感を見つけ出しては吸い上げるいたずらな吸盤──。
そこまで考えて、ユウは目を開けた。
想像がおかしい。
男たちのことを考えていたのに、いつの間にか海の中にいるみたいだ。なぜ。
つきん、と頭が痛んだ。
ユウはカードを譜面台に置き、それから迷ってスーツの胸ポケットに入れた。なぜか、カードを手放してはいけない気がした。どこへ行くとしても、カードだけは持っていないと。
そろそろ迎えが来る時間だ。
ユウは溜息をつき、ヴァイオリンのケースを持つと、自分の部屋を出ていった。
アパートの玄関先に横付けされたリムジンは、アズール達が乗っていたものと同じ形で、ユウは疑わなかった。助手席から出て来た男が優雅に後部のドアを開け、ユウは乗り込もうとして息を呑んだ。
「あの、すみません人違い……」
リムジンの中にいた初老の男は、微笑んで手招きをした。
「合っておりますよ。私もまた、君を探していた者だ」
「ですが先約があります。僕はそちらを待っていた」
体を引こうとした時、ドアを支えていた男が乱暴にユウの体をリムジンの中に押し込んだ。ヴァイオリンのケースが、ガンとドアの枠に当たる。
「何をするんですか!」
ユウが怒ると、押し込んだ男は冷たい目のままユウを見おろした。
「おとなしく乗りこめ」
アズール達とは全然違う強引な仕草に、ユウの顔が険しくなる。
「僕は降ります。こんな……」
その時、ユウを押し込んだ男の足元を掠めるようにして、一匹の猫がリムジンの中へ飛び込んだ。灰色の、今朝ユウのアパートを見上げていた猫だ。猫はリムジンの奥、初老の男の足元へ座りこむと、ユウを見上げた。
「何……なんで君は……」
戸惑ったように聞くのを、猫は無視した。目をつぶって丸くなる。ユウは猫をしばらく眺め、諦めてリムジンの後部座席に座った。なんとなく、この猫がいるならすべてはうまくいくような気がしたのだ。
「おや、素直で大変ありがたいよ。もっと何かあるかと思ったのだが」
初老の男がからかうように言った。
「猫を置いていくわけにはいきませんから」
それだけを答えると、ユウはヴァイオリンのケースを静かに横に置き、動かないようにそれを押さえた。
リムジンは滑らかに走った。1時間も経った頃だろうか。周囲の風景はやがて山道となり、両脇には背の高い木々が続いていた。道の横は低い崖となり、その下には川が流れている。
どこへ行くのだろう。だがその道は、恐ろしいことに見覚えがあった。自分は知っている。この先にある城のことを。城には目の前の初老の男が住んでいて、そこには──。
「思い出しましたか」
ギクッとした。初老の男は、奇妙な目でユウを見ている。スカイブルーの瞳、銀の髪。
「……なにを、ですか」
喉の奥で、男は笑った。ユウの質問に答えず、窓の外を見る。
「あと20分ほどで到着します。大丈夫。あなたは何も心配することはない」
足元で、灰色の猫が鼻を鳴らした。どうしてだろう。この猫が何をどう見ているのか、それが気になってならない。リムジンに乗り込んだくせに、猫は初老の男を信用しているわけではないようだ。この猫は、リムジンが動き出すとユウの足元へやってきて、今はユウの足にくっつくようにして丸くなっている。三又の尻尾が足に絡みつき、くすぐったかった。
車はくねくねと曲がる山道を上っていた。中腹辺りに見上げるような鉄の門があり、リムジンが近づくと、それは重い音を立てて開いた。門を越えてからも車はしばらく走った。周囲の森は、人間の手が入った整然としたものになり、頂上近くには美しい庭園が広がっている。その行きつく先、頂上には壮大な城が建っていた。石造りの塔が何本もそびえ、煙突からは煙が出ている。クリーム色の石の肌は太陽の光に艶めいていて、どこかで鳥が鳴いていた。
美しい城だった。なのにその城を見て、ユウは身震いした。猫が不安そうにユウを見上げる。逃げ出したい。なぜここに連れてこられたのかも、なぜ自分なのかも、初老の男が何者なのかもわからない。
リムジンは城の車寄せに滑り込んだ。中から数人の従僕が出てくる。もう逃げることはできない。助手席の男がリムジンを降り、後部のドアを開けた。
ユウは仕方なく、ヴァイオリンを持って地面に足を下ろした。立ち上がると、足元に猫も降りたつ。