折れた傘をさした帰り道。雨の子は灰色の空に浮かんだ灰色の雲から落ちてきて、少しだけ大人になって、大気を濡らす細かい霧雨に変わっていた。しとしと柔い雨が石畳の色を暗く塗り替える。雨の痕跡を残す。濡らしたそばから乾いていく。それでも暗い色がじわじわと侵食していく。心をしっとりと濡らして、煙のように消えていくような、優し過ぎて哀しくなる雨だった。
 そんな雨の痕は、背の高い少女の右肩にも在った。楽しげに弾む息と微笑み。眼鏡に反射する真っ黒な瞳。その整った顔の右半分にもじわりと雨の痕。少女は親骨が折れた傘を大きく左に傾けて、中棒を左肩に預けて、雨空を見上げながら歩みを進めていた。彼女の右半分が濡れている理由は、背が高くて髪が青く燃えていて金色の瞳を持つ青年に在った。濃い青隈と酷い猫背から彼の神経質さは感じられるものの、絵に描いたようにすっと鼻筋は通り、涼しい三白眼、薄い唇が見事に調和して美しい。青年は少女の右側を歩く。少女は背の高い青年の身体に傘をぶつけてしまわないように、雨に濡れながら、ちらちらと横目で気を配っていたのだ。少女は青年を尊敬していたから、青年に憧れていたから。青年が居なければ生きてさえいけなくて、そんな自身が大嫌いだった。
 無気力そうにポケットに両手を突っ込んだ青年は、少女と違って壊れた傘のひとつもさしていない。しかし不思議な魔法でもかけられたかのように、その身体は雨粒を弾いてはからりと乾いている。長い髪が揺れて燃える。霧雨の中に青い炎が消えていくことはなかった。雨は弱く降り続ける。
 ぱしゃ、ぱしゃ、と石畳を叩く音。ゆったりと大きな歩幅を、小さな歩幅は懸命に追う。楽しそうに振る舞いながら。また灰色の雨水が跳ねて、黒くてボロいスニーカーを湿らせる。真っ白な靴下に滲む不快感。少女は一瞬、その表情を曇らせた。爪先から弾けて消える濁った水。リズム良く駆けていた足音の間隔が乱れるが、呼吸をひとつ、もとの歩調を取り戻していた。擦り切れたゴム底から浸水する靴も、壊れた傘を通り抜けて降る雨も、少女は厭わないことにした。肺に吸い込んだ湿った酸素の中でひとり、決めた。隣で石畳を踏み鳴らす真っ白なスニーカーが、真っ白なままであればそれでいいと思った。哀しい霧に包まれて、青い炎の幻視が消えなければそれでいいと思うことにした。信じていられるなら、それで幸せな気がした。
「……どうしたの。寒い?」
「あ、いえ。平気です」
 湿気を感じさせない髪がふわりと舞って、金色の瞳が黒色の瞳を覗く。青年は少女が咄嗟に隠した嘘を器用に察知していた。少女は立ち止まって顔を上げる。露先から雫が滲み出す。ぬるりと球に成長して、地面に落ちる。必要最低限度の言葉に、青年にしては珍しく憂色が見え隠れしていた。赤褐色の酸化鉄で汚れたビニール傘越しに、灰色の空を映していた水晶体。そのレンズにはちらと嬉しそうな青空が滲み出す。湿った黒髪が横顔に貼り付いて、少女の視界はブラウン管テレビの砂嵐のように断続的だったから、青年の憂色は曖昧にしか瞳に映らなかった。見下ろす青年の視線にも同じことが言えた。雨の粒が散った小間越しに見える少女の笑顔は、季節外れの徒桜だった。
 霧雨の中を歩くふたりの青年少女は、幸せの色が既によくわからなくなっていた。
 青年の白いスニーカーの左足が先に一歩、石畳の上を踏み出す。溜息を吐く。雨水に浸りきった少女の黒いスニーカーの右足も一歩、追うように踏み出す。ぱしゃん、雨水が跳ねる冷たい音。ぱしゃ、ぱしゃん。ぶち、続いてなにかが壊れるような湿った音。少女の視界に黒い一本の線が心電図のようにびりりと走って、その場に崩れ落ちる。傘がふわりと空を舞う。雨粒が飛び散る。冷たい石畳の上に投げ出されたワイシャツに、灰色の染みが広がっていく。空気を含んだ傘が柔らかく落下して、親骨がまた一本折れる音が虚しく響いた。
「大丈夫?」
「あ、はい……く、くつ、靴紐が、切れてしまったみたいです」
 少女は右足に目をやる。黒ずんだ靴紐が切断されて、その切断面からは解けた糸くずが飛び出て、空気に溶けていた。千切れた靴紐へ少女が何気なく手を伸ばすと、触れた温度。青年は少女の傍にしゃがみ込んで、同じように大きな左手を伸ばしていた。右手にはボロボロになった小汚い傘。少女の身体を雨空から守るように差し出す。露先から溢れた大きな雫が左頬に一粒。濡れた頬を確認するように触れた少女は、不器用な青年の優しさにも触れてしまった気がして、困ったように眉を下げた。なんだか恥ずかしくてこそばゆかった。これ以上青年の優しさに触れてしまえば、後に戻れなくなる気がした。前にも進めなくなる気がした。青年を信じているつもりなのに、尾を相喰む二匹の蛇のように、世界が円環と化してしまう閉塞感を覚えた。だから否定の意味を込めて、ありがとうを溢そうとした。
「イいい、せんぱあ、あり、あれ?う」
 青年から見た少女の頬は崩れかけていた。青年は自身がまたしても拒絶されたことに気づく。少女が世界を拒絶してしまったことに気づく。雨の雫が触れた部分から、細胞が分子に。分子が原子に。原子が陽子と中性子と電子に。陽子と中性子と電子が素粒子に。モザイクのように分解していく。煙のように溶けていく。否定する。青年の優しさを否定する。逃げていく。少女の尾を食んでいる青年から逃げていく。現在地が理解できないでいる少女は、あああぎ、うう、と意味を成さない音声を鳴らしている。少女はなにも理解できない。わからない。次第にわからなくなっていた。
 青年は眉間に皺を寄せて、首を傾げて、がちがちと奥歯を噛んで、目を瞑った。青い睫毛は雨に濡れない。黒い睫毛だけが雨に濡れて重くなる。一秒、二秒、三秒。再び開いた金色の瞳は、少しだけ鈍い色に変わっていた。少女にはそんなことも既にわからなくなっていた。
「僕のことがわかる?」
「い、イデせ、んぱ」
「いい子。じゃあ、僕たちの約束も覚えてる?」
 す、と少女の喉が霧を吸う。細い喉がこくりと上下する。湿った酸素が中途半端に肺を満たす。なんてことのない光景を、青年は息を凝らして、唇を噛んで、瞬きひとつせずに見下ろしていた。
「や、やく、あ……」
 少女が懸命に紡ぐ言葉が途切れて消えていった。霧の中に溶けていった言葉の行方を追った金色の瞳は、諦めたようにそっと閉じられる。帷が降りる。青い睫毛は濡れない。黒い睫毛だけが雨に濡れる。青年はその瞳を閉じたまま、その小さな世界が崩壊していく頬に優しく触れて、哀しい溜息を吐いた。青年の身体を離れて浮かんでいった二酸化炭素は、大気に対する比重を理由に落下していく。二酸化炭素は霧に濡れて重くなって、落下していった。言葉は重かった。
「……やり直そうか」
 青年は壊れていく少女の身体を引き摺って、霧の中に滲んで消えた。
 壊れた傘は置き去りにされて、雨は少女の身体だけを執拗に濡らす。
 雨は止んだ。青空を灰色の厚い雲が覆う。大気は未だ湿ったままだった。灰色の雲から漏れる金色の光を浴びながら、青年と少女はコンクリートで造られた廃ビルの屋上に立ち尽くしていた。いや、少女だけはコンクリートの上にうずくまって、相変わらず呻いていた。左頬は崩れたまま、世界を拒絶し続けていた。青年は横目で少女の姿を見て、屋上のパラペットに足を掛ける。ひゅう、と爪先に風が抜けて、心地良さそうに目を細める。十三階という高さに在ると、地上との差異を十二分に感じることができた。心なしか空は乾いている。心なしか空が軽い。間違いも、全て許されていく気がした。果てしない宇宙の広さに比べれば存在しないに等しい距離でも、馬鹿馬鹿しいとはわかっていても、そんなことを思った。
 眩しい光に照らされて、冷たい身体が乾いていって、少女は痛みが薄れていくのを感じていた。雨の匂いも、薄れていった。なにもかもを忘れていくような、否応なしに許されていくような、そんな心地良くて気味の悪い感覚の中に在った。左半分が欠けた視界の中で、少女はよろよろと危なっかしく立ち上がろうとする。脳味噌の中がぐるぐると掻き混ぜられていく。早く、早く、拒絶してしまった青年に許されたかった。自分たちはやり直さなければならないという想いに駆られていた。
 青年が少女の手をとる。朝が降って、手を繋ぐ。少女は確かに屋上に立っていた。
「最後の約束をしたら、最初の約束をきっと思い出せるよ」
「……」
 言葉を紡ぐための少女の口は、既に世界から失われていた。少女は右の瞳で頷く。あまりわからなかった、もうわからなかったが。「約束」という言葉には覚えがあった。隣に立つ青年の顔にも覚えがあった。朧げながら大切なものだという感覚が、辛うじて残っていた。触れた温度は曖昧になっていた。
「もう一度、あの部屋に戻ろう。椅子と僕と、君が居る部屋。きっと、また全部やり直せるから」
「……」
 少女は苦しそうにかぶりを振る。朝に揺れた部分から、また世界が崩壊していく。視界が黒く塗り潰されて、身体の感覚すら失われて、自分が誰なのか忘れていく。少女はとっくにわからなくなっていたが、目の前に居る青年と「約束」というなにか大切なものを共有していることだけは知っていた。正体の無い「約束」を思い出したかった。それだけだった。目の前に居る青年は誰だかわからなくなっていた。点のようになってしまった視界の中に、青い炎がゆらゆらと揺れていて不思議に思った。綺麗だと思った。
 青年が少女の手を引いて、パラペットの上に身体を引き上げる。ふわりと朝風に乗る細い身体。軽かった。青年は少女の存在が、また霞んでいるのを感じた。青年は急がなければならなかった。見上げた景色は金色に輝いていて、見下ろした視界は暗く陰っていて、少女の心はその見事な対比を美しいものと受け取った。崩壊していく少女の顔から、眼鏡がするりと外れる。眼鏡は朝の光を反射しながら、きらきらと輝いて、暗い影の中に消えていった。青年と少女はその行方を黙って見つめていた。
「それじゃあ、またね。もう一度」
 パラペットに足を掛けたまま、青年は少女の背中を優しく柔く慈しむように押す。少女の身体は金色の光を浴びながら、暗くて黒くてなにもない影の中に吸い込まれていった。最後に少女が見た青年の瞳には雨粒が光っていて、少女の瞳の中にも同じものが生まれて、それは光の中に取り残された。
 ——世界をふたりで解き明かしてみせましょう、先輩
 少女は朝の中に浮かんだ雨の粒を見ながら、そんな台詞を思い出した。
 少女はここではない何処か、自分が居るべき世界に帰る方法を探していた。
 聡明な先輩とふたりで、指切りをした。
 何度もそんなことを繰り返していた。
 落ちていく少女の身体を見つめながら、消えていく少女の身体を見つめながら、青年はなにかを思う。少女に聞こえないように、小さく言葉にする。青年の瞳は朝にすっかり乾いていて、青年の声はまだ雨に滲んでいた。
「最初の約束、か……叶えてやるつもりなんてもう無いよ。僕は君に嘘を吐き続けてる。ごめんね。君が最初の約束に固執して、僕に縋って、僕を拒絶しない限り、世界は永遠に続いていくからね。君が否定しようとするなら、夢から覚めるくらいなら、殺して、また最初からやり直せばいい。幸せなのかはわからないけれど、それでいいと思ってるんだ」
 少女の身体が地面に衝突する音は響かなかった。青年が暗い影の中を覗き込むと、親骨の折れた傘だけが転がっていた。小間の表面には残された雨粒がたくさん散っていて、少し哀しくなった。少女にも、雨に濡れない魔法をかけてやればよかったと後悔した。ポケットから剃刀を取り出した青年は「ボウスイマホウ」と、手の甲に文字を彫る。赤黒い血がぷつぷつと浮かんで、滲む。ぴりぴりとした痛み。青年はぼんやりと浮かぶ文字を、ぼんやりとした瞳で見つめていた。繰り返す日々の中で、記憶が曖昧になっても、傷は癒えないことを青年は知っていた。
 パラペットに掛けていた足を降ろして、イデアは廃ビルの屋上を後にする。イデアの身体は冷たくて、疲れ切っていた。早く部屋に戻って、泥のように眠りに就きたかった。夢から覚めたら、また夢の中に居て、きっと監督生が転がっているんだろう。早く再会したかった。夢の中の、夢の中の、夢の中。入れ子になった夢の中に、イデアと監督生は迷い込んで抜け出せなくなっていた。約束は、嘘の中で消えてしまう。
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独り言じゃんこわ
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いやすまん俺です
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まいた
君だったか…
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ともす
コメ欄があることに気付かなかった
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まいた
どうぞご自由に出入りしてくだされ
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ともす
あい 作業しながら監視してます
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まいた
煙草行ってきます
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ともす
急にやばいことになるじゃん…
52:13
ともす
はーい
156:32
まいた
つかれたー煙草吸ってきます
157:38
ともす
おつかれさまです!
216:32
まいた
なんとなくまとまってきたので切り上げます
216:41
まいた
ご飯作らないと
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向き
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20210429
初公開日: 2021年04月29日
最終更新日: 2021年04月30日
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彼女の翼を捥ぐ話 第三十二話
堕天した天使とそれに付き添われている主人公のお話の三十一話目を書きます。
ひさぎ