世界の歴史の大きく揺れ動いていても、変わることは無いであろう桜並木。その下にある、緑色の塗装が剥げたベンチに僕は座っていた。そして今、約4秒ほど前に僕の前を通り過ぎた女性を見ていた。
艶やかな長い黒髪。淡いピンクのスカート。お洒落すぎない黒色のヒール。丁寧に手入れされた滑らかな爪。産声が聞こえて来そうな程に色白で透き通った肌。
ついで、風が吹いた。
桜、花見、卒業式。そう言ったものをひっくるめた春の風が、頬を撫でる。暖かく、優しい。腫れ物に触れるような優しさではなくて、もっと単純な、不純物を取り除いた優しさだ。
その風に長い黒髪が風に靡く。淡いピンクのスカートが微かに揺れる。桜が吹き上がり空中に舞う。散った桜を見ようと、女性が顔を上げた。少ししてから、柔らかなエクボを作って微笑んだ。
その一連の出来事を、何も考えず。まさに、この春の風のような感情で見ていた。
ふと、何かに気づいたかのように女性が振り返った。目が、合う。一瞬の出来事のはずなのに、これから先ずっと続くであろう永遠に思えた。
「私、貴方に会ったことあったことがある気がするの」
その声は、想像していた声よりも10倍も100倍も1000倍も、透明で澄んでいて、綺麗だった。その声に見合う、少しばかりの丸みを帯びた顔つきに、柔らかく暖かみを持った二重、細やかで一本一本繊細な生命を持っている様なまつ毛、薄紅色の口紅がついてぷっくりとした唇。僕なんかには見合わないな、と思った。
「でも、貴方とは遠い過去にさようならを告げたのだと思うの」
少しずつ近づいてくる。一歩、また一歩。黒いヒールが、踏まれてばっかりで同情さえしたくなるアスファルトを優しく歩く。
「そう......ですね。僕も、そう思います。貴女にとてつもない懐かしさを覚えていて、でも随分遠い昔に別れをしたのだと思います」
「ねぇ、隣。座っていいかしら」
「は、はい。どうぞ」
そう言いながら、少しだけ左にずれる。ありがとう、と一言添えながら女性は僕の隣に座った。女性の肌を見て「君」の皮膚を、少しだけ思い出した。
座るやいなや、女性がポケットを漁り始めた。そして、出てきたのは紺色の手のひらサイズの箱だった。そして、それが煙草の箱だというのはすぐにわかった。
「煙草、吸うんですね」
「うん。体に悪いのはわかってるけど、なかなかやめられないの。中毒かも知れないわ」
なんて自嘲を楽観的に話している女性を見る限り、煙草を吸うことによる体へのリスクなど、喫煙による快楽と比べたらなんて事ない、みたいな言い振りに聞こえた。
「この箱だけで、よく煙草だってわかったね。ベンチくんも吸ってたの?」
ベンチくん、なんていう変なあだ名がついていたことには触れておかない。なんとなく、触れたら負けな気がした。
「いえ、一回も吸ったことはないです。ただ親がよく吸っていたので」
「そうなんだ」
「えぇ」
いかにもな手つきで煙草を取り出し、ライターで火をつけるその姿は、本当の大人を見ているような気がした。
「私さ、煙草を吸えるようになったら、大人になれるのかなぁなんて思ってたんだよね。でも、実際は違った。歩き方も話し方も生き方も、全部、全部」
そこには、いくつもの空白があることに僕は気づいていて、それを無意識の内に理解していることに、少しだけ悲しくなった。
「でも、実際は違った」
——煙草なんて吸えたところで、大人になれるわけでもないし、それどころかさらに子供に近づいちゃった気がしてさ——
「歩き方も話し方も生き方も、全部、全部」
——忘れちゃったんだと思うの——
あえて何も言わなかった。それは、変に相槌を打ったところで女性を傷つけてしまう気がするし、でもそれ以上に。煙草を吸うことで大人になれると自分も思っていた、その事が酷く恥ずかしく、その事実を認めたくなかったからかも知れない。
それから少しして、
じゃあいつかまた会えたら。えぇ、そうですね。
そんな短い会話で別れを告げた。
子供の頃は馬鹿だったから、何を語るにしても長くなる。大人になると頭が良くなったのか、変に言葉をまとめたがる。或いは、長く語る事を嫌う。伴い、長くは語らなくなる。
長い言葉で会話が出来なくなる。短い言葉でしか会話ができない。そういう些細な違いが、よりいっそう子供の頃の記憶を美しくさせて、その度に大人になってしまったことに寂しさを覚える。
また、風が吹いた。さっきと同じように思えて、少し違う。冷たさを持った、風だった。その風に、桜が散った。そして、僕の前に舞い落ちた。淡いピンクが中心に染まり、その周りを柔らかな白があった。
ふと、昔の記憶が大きな波に乗ってやってきた。
そう。あれはまだ、僕が煙草を吸えば大人になれるのだと、そんな馬鹿みたいな期待をしていて。桜を見るたびに、馬鹿みたいに幸せを感じていた。そんな頃の、話だ。
大学のフォトサークルで彼女と出会った。なぜか僕の通う大学では、フォトサークルは人気がなかった。それは僕たちの年も同じで、入ったのは僕と彼女のたった二人だった。
だからなのか、お互いに話す時間増えて、それに応じて自然と話すようになった。
「桜、あと少ししたら咲くのかな」
確かな痛みを肌に与える程に、冬の寒さが残っていた日。その日は、初めてのことだらけだった。
初めてのワックス。少しだけつけ過ぎた気もするし、逆に自分の気にしすぎでそこまで変化はなかったのかもしれない。
初めての格好。黒色のテーラードジャケットに、白色のオックスフォードシャツ。そして、青色のジーンズ。無難な選択をした。
そして、初めての初めてのデート。彼女なんて、今まで出来たことがなくて、変なソワソワ感に襲われていた。
「そうだね、もう少しだね」
少しだけ芽吹いた桜の下、最近塗装されて汚れ一つ見つからない緑色のベンチ、僕たちは二人だけの時間を過ごしていた。ふと、彼女の横顔を見る。
花のない桜を見ているその目は、まるで満開の日を思っているかのようだった。
猛烈に降る雨が、桜を散らせる。淡い色を纏った桜の花びらが、一枚、僕の前に落ちた。とてつもない透明感は、さわれば壊れてしまいそうで、
あぁ、まるで彼女の皮膚みたいだ。