繁華街を抜けて、路地へと入る。それほど入り組んだ道ではない。全く知らない街、というわけでもなく一度行った場所だ。足は迷わずそこへとたどり着いた。地下へと降る冷ややかな階段を降りて、重たい扉を開いた。カラカラン、と乾いた音が響く。
流れるジャズがどこか安っぽいのはアンプの性能の問題だろう。耳にしたことのあるその曲は、もっと耳に心地よいものだった。
店内はそれなりに賑わっている。少ないテーブル席は埋まっていて、十席程度のカウンターは二、三人。どうやらテーブル席は常連が集まったようで、話し声は途切れず不定期に笑い声が上がった。
マスターはちらりとこちらを見て微笑む。胡散臭いな、と思った。三年に満たないこのバーは、誰だかの道楽から始まった。雇われマスターのこの男は、この店の黒い違和感に気付きながらカウンターに立っている。広義で言えば、こちら側の人間。
「お預かりします」
バーテンダーの女性がカウンターから出て、脱いだコートへと手を差し出した。
「ありがとう」
にっこりと笑って見せる。それに彼女は微笑みを返した。清潔感のある、凛々しい印象の女性だ。耳たぶの下で切り揃えられた黒髪。切れ長の目。抑えた色のベージュピンクのルージュは、ブランドの新色。もったいないな、と思ってしまう。この女性はきっとしたたかだ。
「どうぞ」
カウンターの奥の席を勧められて、それに従う。コツコツとヒールが鳴るのに、不躾に視線が行き交った。店内の比率として女性が少ないのは、どうやらいつものことのようだ。確かに、デートで使うような店でもなければ、女性が一人で来店することも少ないだろうことは店の雰囲気でわかる。どこか粗野で、品位に欠ける。客を選んでいるわけではなく、客に選ばれない店なのだろう。
妙に親切に彼女が私を奥の席へと勧めたのは、きっと照明の加減のためだ。女性を座らせられる席は、二席程度しかない。テーブル席は一番ない。カウンターのグラスを下げるタイミングといい、この店は実質彼女が回しているのだろう。マスターの男は、きっとそんなことには気付いちゃいない。
席に着いて、ふっとひと息ついて見せるまでにもわかってしまう。なるほど、こっちが本命だったか。
「…、」
さてオーダーを決めなきゃね、と視線をあげると、彼女と目が合った。それに彼女は動じることもなく、やはり微笑みを見せる。
「ふふ。いえ、すみません。女性のお客様って少し珍しくて。それに、あなたみたいに綺麗な方」
ああ、この女、私が以前来たことを覚えている。誰と、いつ来たかも、もちろん。その癖、それを明に口にしないのは、ダメマスターが気付いていないからだろう。あるいはただの皮肉だったとしたら、もったいないと思うほどのことでもなかっただけだ。私がどう思おうと、私の仕事には関係ないのだけれど。
「あら、嬉しい。でも月はひとつあれば、私も星屑のひとつだわ」
ふふふ、と二人して目を細め、まるで楽しげに笑い合う。くだらないこと。
口元に笑みを浮かべたまま、脳裏に浮かぶのは冷たい緑色の瞳。駒の尻拭いなんて自分ですればいい。せめて部下と呼べる者に指示すればいいだけのことを、なぜ私が片付けてやらないといけないのか。腹立たしくは思っても、口で負けたのだから仕方がない。惚れた弱みとは別物だ。ベルモットには逃げられてしまった。
「女同士で意味深ですね。俺はどっちに妬けばいいかな?」
穏やかそうに、その内にあるギラつきを隠せないマスターが口を挟む。かわいそうに、強欲のわりに頭が足りないばかりに、乗せられて楽にこんな店のマスターになって、従業員の女に騙され巻き込まれてしまったのだ。自業自得、因果応報、哀れみこそすれ同情の余地はない。
閉店まであと一時間と少し。店の扉のプレートはクローズへと翻しておいた。私はこの店の最後の客になる。
ある取引の経由に使われたこの店と男女。その後片付けが私に押し付けられた仕事だ。
「さ、何にされます?気合入れてお作りしますよ」
「マスターったら、気合いはいつも入れてくださいよ?」
わははと笑う姿に呆れ果てる。ああ、本当にあの男、不愉快な仕事を押し付けるものだ。
彼女もこんな男をひっかけたのが悪かった。狭義で言えば彼女たちは所詮あちら側の人間だ。美しかろうと、朧だろうと、満ちようと欠けようと、月明かりなど私たちには不要だ。新月の暗闇には至らない。
一人、二人と客が帰る。秒針が天井を過ぎると、カチと分針が天へと登る。
せめてドラマチックに終わらせてあげよう。今夜、美しくしたたかな若い女と一等地の冴えないバーのマスターが手に手を取って相対死。任されたからには綺麗に片付けてあげるのが私の美学だ。
夜は更ける。食器の音と、話し声、軽いジャズと緩い空気。私は黙ってグラスに口をつける。カウンターに張り付いたうそ寒い笑顔を眺めながら。
あんまり話したくないので 酒はジンにした
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あんまり話したくないので 酒はジンにした
初公開日: 2021年01月29日
最終更新日: 2021年01月29日
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