蝋燭の明かりが今にも消えそうな夜だった。隙間風が金切り声をあげている。私は奉公に掬い上げられた若い娘の仲間たちと今日の出来事を話しながら、湯の順番を待っていた。
「城内を蠢くものを監視して、夜な夜な殺して回ってるの。衛兵が言ってたんだから間違いないわ。」
 一つ年上の娘——義姉とでも呼ぶべきか——は、噂話が大好物だった。また始まったわ、と思いながら、耳を傾けてしまうのは、それが私を想像の世界へと駆り立ててくれるからだ。私は詩や物語が好きだった。彼女に詩才がある、などとは世辞でも言えたものではないが、絵空事の世界へと飛び立つきっかけをくれるのは確かだったからだ。毎晩床の中へ潜り込んだ時、冷たくて怖い石天井が迫ってこないよう、彼女の話を写し描くためなのだ。
 私は世にもおそろしいこの城の脅威に対し、それでもそれが宮内卿のお仕事のはずよと訴えた。彼女は指を突き立てて声を潜め言った。私と同じようにかさついた指だ。
「……もちろん、私たちが太陽と共に、安全にお仕事できるのは、多少、きっと、その粛清のおかげもあるんだと思う。でも気をつけなくちゃだめよ。怪しいことをするものは、絶対!絶対に処分されちゃうんだから!絶対に、宮内卿には見つかっちゃだめ!」
 壁の外を渦巻く空気が一層強く吹き荒れた時、部屋の扉が覇気なく開いた。きゃあっ!と私は声をあげる。目の前の娘は手のひらで口元を覆って、堪えきれぬといった顔で私をみた。
 扉をみれば、なんてことはなかった。湯浴みを終えたばかりの同僚が部屋に帰ってきたのだ。娘は湯気をまとわせ欠伸をこぼしながら戸を閉めると、この部屋にひとつだけある水盆に、今にも眠りそうな言葉を落とした。
「ねえ、もう水がないわ」
 私と義姉は顔を見合わせる。
 湯に浸かっていないのは、もう私だけだった。
 月のない夜だ。
 それはとても静かで、目に映るものは星ばかりの美しい夜でもあった。柱の影はいつもよりも黒く、どこから『宮内卿』がでてきてもおかしくないと言えた。そんなお伽話みたいなことあるわけないと思いながらも、歩幅は狭く、足数は多くなっていく。
 どうして水汲み場を城の中にお造りにならなかったのだろう。冷たい中庭では、踏む土みんなが背伸びをする。昔見たブリザーの柱のように、土が冬という魔法にかけられ眠ってしまうのだと本にあった。本当かどうかは知らない。中庭に流れている汲み上げはどうして凍らないのか、誰も教えてくれないのと同じだ。私たちは働く水である。日が昇るよりも少し前に動き出し、水のように流れ、日が沈んだ後に眠る。私たちが凍らないのだから、私たちとともにある水が凍らないのも道理だとも思う。意味のないことをたくさん頭に浮かべていれば、怪異も恐怖も近寄ってこないだろう。こないでほしい。
 この道の突き当たりを、右に曲がれば中庭に着く。
 私が息巻いて顔を上げたときだ。
 無慈悲な突風が吹く。私の手から火を奪い去ってしまった。
「どうしよう」
 暗闇だけが残る。
 それでももう直ぐで曲がり角だとわかっていた。とにかく歩を進めようとした一瞬、耳が違和感を捉える。
 ——カシャン
 金属が床を蠢く音だった。誰かくる。私は進めるための足を後ろへひいた。
「どうしよう」
 声は小さくか細くなった。私の声だった。
 足音はさらに間を詰めてくる。
 また数歩後ろへ下がった。心許ない燭台を握りしめて前に突き出す。
「わたしを」
 声ではない声は、頭の中でのみ鳴り響いた。
 断頭台へ甲冑の兵士が処刑者をつれていく。それは本で見た一幕だった。
「わたしを、殺しにきたのですか」
 処刑者は叫んだ。兵士は無言で私を引きずって行く。だが相手が死神であったならどうなるのだろう。私は声をあげてしまった。私は、わたしは——生きていられるのだろうか。気づいた時には遅く、両手が言葉を押し戻すように口を覆うと、小さな蝋燭台は音を立てて落ちた。今度こそもうだめだ。
 金ものの足音は柱の向こう側、この廊下の突き当たりの右側——口惜しいことにわたしの向かうべき方——で止まった。火の消えた今、光のない空間に私と死神だけが取り残されていたようだった。私は、ここはもう死後の世界かもしれないとさえ思った。
 軋む金属の音は向きを変えたように響いた。
 宮内卿が、静かに口を開く。
 ——私は、瞬く間に闇の中でほのかに灯る恋の虜になった。
 寒い夜だった。
 月のない夜は暗い。だが星の見える夜は美しい。戦が去り幾月も経ったが、この静けさは鎮魂のためにあるのではないかとも思えた。夜目が必要な日々は途絶えた。それでも五年の習慣は拭いきれず、この城も完全には機能を停止できないままでいる。
 私が感傷に浸りきれないままこの寒い中夜風を浴びて水を汲んでいたのには理由があった。水は汚れを落とすものだ。城の中を廻り、流れ、城の外へと汚れを運んで行ってくれる。
 私はその時書き物をしていた。書き物とは一から十まで様々あるがこの夜していた書き物は一ほどの重要度と言えただろう。気を抜いていたわけではまったくもってなかった。なぜなら汚したものは書物などではないからだ。結論から言えばよごしたものはカップだ。黒翼の鳥が宙を舞う装飾が施され、我が帝国斯くあるべしと気に入っていた。ただその底に1滴、黒い溜まりを作ってしまっただけのことだ。私は職務を全うした。一から十まで文字通り没頭し、インクをひとつカップにこぼしたことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。さて紅茶でもいれようかと席をたったそのとき、その汚れに気づく。ではしかたない、紅茶用の湯となるはずだった水で洗おうかと盆を見た時、そこにあったのは空の金属それひとつ。
 窓の外では、木々が腰を曲げていた。上着は暖炉のそばで熱を吸っている。諦めて私は中庭へ足を向けたのであった。橙色の髪を縛る紐を解くと、首元の冷えも幾分かはましになるきがした。
 夜目が必要な日々は、いまだここにある。
 水を携えた帰り際、人の気配に足を止めた。
 あの分かれ道に、明かりもつけずに誰かいる。
 私は直進して部屋へ帰るつもりでいた。同じように、この暗く冷たい夜の中で水が必要な、不憫なものが他にもいるのだろう。幸いにして自分は夜目がそれなりにきいていたものの、蝋燭もないとくればこの道は心もとなかろう——つけても消えてしまうのだろう——と同情した。声をかけるのも場違いなようで躊躇われる。ままよと振り切るように歩を進めれば、震える声は、左からあった。
「わたしを、殺しに来たのですか」
 私は片手で口を覆った。なんだそれは。
 脳裏に過ぎるのは、『粛正者』になってしまった哀れな友人のことである。衛兵の噂になっているとは麾下にも聞いていた。それでも当の本人はこの夜になってもどこ吹く風であったので、私は実感のないまま噂を嚥下していたのだが。
 明日の茶会の話題はこれにしようと決めた。
 こぼれそうになる笑い声を必死に押しとどめる。なにせ私は友思いの『慈悲の』宰相であったので、彼の印象を悪いものから払拭してやろうと考えたのだ。私は詩や舞台が好きだった。——考えれば、いくらでも答えは浮かべられただろう。
「闇夜が人を殺すというなら、あるいは」
 努めて平坦な抑揚で私はこの夜の幕をあげた。
 声の主が息を飲む。
 柱の影の向こう側、真っ暗闇から、台詞は返ってくる。
「では、畏多くも、闇の中の貴公、私のことが見えますか」
 いささか冷静さの戻った頭で反芻するに、相手は女性(それも年若い)であることが予想できた。おそらく城仕えの娘だろう。現皇帝は血筋で宮中のものを選ばない。『仕事』に腕の立つものがこの城ではほとんどだが、かように詩的な言葉を選ぶことができる侍女もいるものなのかと関心を持った。
「あなたが星であるのなら、あるいは」
 ——皮肉がすぎただろうか。苦笑混じりで答えると、「あ」と、慌てたように声の主の声が遠のいた。後ろを向いてしまったのかもしれなかった。
「失礼を、閣下」
 こちらの姿を見られないのであれば好都合だ。私は足早に中庭から宰相執務室への道をかけることに決めた。
「夜が消してくれます」
 これで陰鬱な彼の噂も少し明るくなるだろうか。いや、なるまい。月は見えずとも明るくうかれたせいだろう。部屋の扉を閉じた際、ようやく多くの水をこぼしてきたことに気がついた。
寝る!ありがとうございました!❤️
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〜に会いたい!
初公開日: 2021年01月07日
最終更新日: 2021年01月07日
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モブ視点過多/紅花/支援A+/左右はない