『悪魔を生み出したかった学者』
悪魔といえば宗教やファンタジーなど、一般的には科学とは程遠いものとして認知されているだろう。
だが、科学の総本山であるところの物理学には、不思議なことに悪魔を名に関する概念がいくつか存在する。
ひとつは『ラプラスの悪魔』。簡単に説明してしまえば、現段階の宇宙中のありとあらゆる情報を手にする悪魔がいれば、その悪魔は未来を予想することもできるだろう、という思考実験的な仮説である。
もうひとつは『マクスウェルの悪魔』。こちらも簡単に説明すれば、分子の動きを観察し特定の処理を施すことのできる悪魔がいれば、熱力学第二法則が破れ、永久機関ができるだろう、という仮説である。
もっともこのふたつの悪魔、『ラプラスの悪魔』と『マクスウェルの悪魔』はとっくの昔に物理学において否定されている。
前者については、原子の位置と運動を共に精確に計測することはできないという量子力学の不確定性原理によって、後者については、悪魔が観察し特定の処理を行っている時点でそのどこかにエネルギーが消費されており熱力学第二法則が破れているという前提が成り立たないという結論によって。
『ラプラスの悪魔』も『マクスウェルの悪魔』も、残念ながらこの世には存在しないのだ。
そのことを誰よりも悲しみ、同時に心の糧とする心身の物理学者がいた。
その学者は幼少期にインターネットで『ラプラスの悪魔』『マクスウェルの悪魔』というふたつの悪魔にすっかり魅入られてしまい、自分も将来は物理学者になって何らかの思考実験や仮説を打ち立て、自らの名前を関する悪魔を教科書に残してみたい、そう心に決めたのだ。動機はいささか不純だったかもしれないが、物理学者はその能力が評価され、将来を嘱望されるまでになった。とはいえ本人には周囲の評価などどこ吹く風。
彼はひたすら研究室にこもり、様々な物理学書を紐解き、時にはSF小説から聖書までを濫読し、様々な場所にアイデアを求め、日々思索を深めながら、自らの名前を関する悪魔を頭の中に生み出そうとあがき続けた。
「悪魔……悪魔……ラプラスの悪魔……マクスウェルの悪魔……出てこい、悪魔よ、悪魔よ出てこい……」
そんなことを延々とつぶやいているものだから、とうとう周囲の人間も気味悪がって近づこうとはしなかった。なお悪いことに、彼が悪魔召喚の片手間で書いた論文はそれなりに秀逸であったため、だれも彼の仕事ぶりに文句をつけられなかった。いつしか学者の研究室は霊媒室とまで言われるようになっていた。
「悪魔……悪魔……ラプラスの悪魔……マクスウェルの悪魔……出てこい、悪魔よ、悪魔よ出てこい……」
今日も今日とて学者がぶつぶつとつぶやいていた時、霊媒室、ならぬ研究室の扉をノックするものがいた。
「……誰だね。入りなさい」
学者が煩わしそうに返事をすると、入ってきたのは若い学生だった。非常に背が高く面長で、理知的ではあるがどこか冷たい、そんな印象を与える青年だった。
「初めまして。わたしはドクターDと申します。先生の論文に感銘を受け、ぜひ弟子にしていただきたくお邪魔しました」
実はこの青年、大学に忍び込んだ悪魔だった。学者が思考実験上の悪魔を召喚しようとしていたら、その欲望に惹かれて本物の悪魔が召喚されてしまったのだ。
悪魔の目的はただひとつ。学者の願いをかなえて、その願いが叶った瞬間の幸せを、学者の命とともに吸い上げて糧とすること。
当然学者はそんなこと知りもしない。あっけなく悪魔の目的は達成されるかに思われた。
「そうか。わかった。論文は書けるな?」
「ええ、まぁ」
悪魔は神ほどではないがそれなりに有能で物知りだ。それくらい訳はない。
「わたしは自分の思索を深めるのに忙しい。君にはわたしのメモ書きをわたしておくから、それを論文にまとめておいてくれ。わたしの昔の論文を参考にするように。出来上がったら言ってくれ」
「わかりました」
論文の代筆。それが学者の望みなのだろうか。そうと決まれば、と悪魔は腕によりをかけて論文を仕上げた。論文の出来が良ければ良いほど学者の幸せも大きくなる。そのときに吸う命のうまさも格別になる。悪魔が誇る体力でもって、三日三晩で最善の論文を仕上げた。論文の内容は、学者が研究している悪魔、ではなく、『ラプラスの悪魔』や『マクスウェルの悪魔』に関係した、量子力学、情報熱力学などに関するものだった。
「先生、書きあがりました」
「そうか、早いな。……ふむ、よくできている。悪くない。今度の学会に共著という形で出そうと思うのだが問題はないか?」
「はい。問題はありません」
「では、また何かあったら相談するから、それまでは好きなことをやっておいてくれ」
「わかりました」
しめた。学会で論文が評価されれば学者は幸せになるに違いない。それが食い時だ。
悪魔の目論見通り、全身全霊で書き上げた論文は、学者のアイデアの斬新さと悪魔の筆致が合わさってかなりの高評価を得た。
だが。
学者は幸せになるどころか、むしろ不幸にすらなっていた。以前よりも命がまずくなっている。吸い取れるような命ではない。
どういうことだ。悪魔は頭を悩ませた。論文を書くこと、そしてその論文が学会で評価されることは学者の望む幸せではなかったらしい。となると、裏に隠された本当の学者の幸せを暴く必要がある。
悪魔はしばらく研究室の片隅で自らの研究をするふりをしながら、学者の行動を観察した。
「悪魔……悪魔……ラプラスの悪魔……マクスウェルの悪魔……出てこい、悪魔よ、悪魔よ出てこい……」
だが学者は椅子に座って特に何かをするでもなく、そんな文言をぶつぶつとつぶやき続けるだけだった。この文言こそ、悪魔を召喚するに至った欲望の原点であり、悪魔にとっては耳にタコができるほど聞き飽きた文言だった。ほかに学者がやっていることといえば本を読んだり論文を読んだり、当然大学の授業も受け持っているし、担当している学生もわずかながらいる。人間なので当然食事はするし眠る。しかし、性欲は全くと言っていいほど見当たらず、日常生活も業務も機械のように済ませている。
やはり学者の唯一にして絶対の幸せというのは、彼が日ごろからつぶやいている文言の中にしかない。
悪魔はこの時点でようやく気付いたのである。
早速、悪魔は、学者が思索を中断する頃合いを見計らって尋ねてみた。
「先生、いつも悪魔、悪魔とおっしゃっているみたいですが、何がお望みなんですか?」
「ああ、わたしはね、悪魔を呼び出したいんだよ」
「ふむ、悪魔ですか……」
実は悪魔というのは、人間の欲望を媒介にして召喚されるものである。
そのため、学者がとてつもない欲望を持っていることはわかっていても、その内容が、物理学に自分の名前を関した思考実験上の悪魔を残したい、というところまではわからなかった。
そのため、学者の中途半端な言葉足らずによって悪魔は、その学者がほかの悪魔がこの世に召喚されることを望んでいるのではないか、と勘違いをしてしまった。
悪魔は悩んだ。
悪魔は人間の欲望と命を吸って生きるものである。だが正直、その欲望と命は別に人間に限らなくてもいい。犬や猫、魚、植物、何なら石でもいいし、自分以外の悪魔からでもいい。
ということは、である。
悪魔が学者の願いを――勘違いとはいえ――かなえるためにほかの悪魔を召喚したとしよう。その際悪魔は、別の悪魔に、召喚されてくれないか、というお伺いを立てなければならない。そのお伺いは欲望である。つまり、悪魔が別の悪魔を召喚した瞬間、悪魔の欲望は満たされ、別の悪魔に命まで欲望事吸い取られてしまうのである。つまり、死。
悪魔は学者のために――勘違いとはいえ――別の悪魔を召喚することはできないのだ。
悪魔はほかの方法を考えた。悪魔を召喚せずに学者の欲望をかなえる方法を。
本当なら、悪魔は学者にちょっとのひらめきを与えるだけでよかったのに、学者の言葉足らずのせいで非常に苦しむ羽目になってしまったのである。
「悪魔……悪魔……ラプラスの悪魔……マクスウェルの悪魔……出てこい、悪魔よ、悪魔よ出てこい……」
悪魔はふたたび学者の行動を観察する日々。
そしてついに思い至る。
ふたつのキーワード。
『ラプラスの悪魔』と『マクスウェルの悪魔』である。
このふたつは物理学によって否定された仮説である。
ではいっそのこと、このふたつを学者の手によって実現させてしまうというのはどうだろうか。
さっそく悪魔は学者の脳みそにちょっとしたひらめきを与えた。『ラプラスの悪魔』をこの世に再び生み出すためのひらめきである。
……本当なら、ちょっとした思考実験をひらめかせればそれですべて終わるはずだったのに。
「……ん? おお? なるほど、もしかしたらここをこうすれば不確定性原理は克服できるのでは……?」
学者はさっそくその仮説を悪魔とともに検証し、論文にまとめ、発表した。はじめこそその斬新すぎるアイデアに非難轟々だったが、実験が行われるうちに学者の仮説は立証され、不確定性原理を人間は克服することになってしまった。
学者は不確定性原理克服の論文を発表してほんの五年後にノーベル賞を受賞するまでに至った。
ノーベル賞といえば科学者にとっては最高の栄誉である。
悪魔は期待した。学者の幸せを。最上にうまくなった彼の命を。
だが。
学者は全然満たされなかった。
「悪魔……悪魔……ラプラスの悪魔……マクスウェルの悪魔……出てこい、悪魔よ、悪魔よ出てこい……」
ノーベル賞授賞式の帰りのタクシーですら、そんなことをぶつぶつとつぶやいているのである。
当然だ。
彼の本当の目的は、自らの名前を関した思考実験上の悪魔を物理学に残すこと。不確定性原理を克服したことも偉大ではあるが、そういった偉大なことを成し遂げてしまったせいでかえって、本来の目的が遠ざかってしまったことへの不満が強くなったのである。
悪魔は自らの努力が水泡に帰した思いだった。
というのも、不確定性原理は厳密には克服されていない。単に悪魔が観測機器に力を貸したために克服できているだけであって、人間の力だけではいまだ不確定性原理の檻に閉じ込められたままなのである。
というわけで、悪魔はもうひとつの希望にすがることにした。
今度は『マクスウェルの悪魔』である。
悪魔はうんうんつぶやく学者の脳みそにちょっとしたひらめきを与え、『マクスウェルの悪魔』をこの世に再び生み出した。
「……ん、こうすれば、熱力学第二法則を破ることなく、量子状態を観測できるのでは?」
早速論文をまとめ、発表し、非難轟々の中実験が成功に終わり、またしても五年後、学者は二度目のノーベル賞を手に入れた。
もっともこれに関しても悪魔が気合で量子状態を観測しているだけなのだが。
果たして学者はどうなったかというと。
「悪魔……悪魔……ラプラスの悪魔……マクスウェルの悪魔……出てこい、悪魔よ、悪魔よ出てこい……」
ダメだった。
当然である。
だが、学者の本当の欲望を知らない悪魔にとっては、ただただ頭を悩ますしかなかった。
悪魔もダメ、『ラプラスの悪魔』もだめ、『マクスウェルの悪魔』もだめ。こうなったら、女をあてがうか、それとも美酒美食におぼれさせるか、とも考えたが、やはり学者はひたすら思索にふけるのみだった。
そうこうしている間に学者は、否定されたはずの『ラプラスの悪魔』と『マクスウェルの悪魔』を復活させた功績から、物理界のサタンとまで呼ばれるようになり、一躍有名人に躍り出た。
もっとも学者本人はそんなこと関係なしに研究室にこもりきりで時折一般書を出版するのみ。サタンになったんだから、自分の名前を関した思考実験上の悪魔くらい思いついてくれよ、と懊悩とする日々が続いた。
一方の悪魔も、そんな学者をずっと身近で観察し続け、彼の欲望を引き出そうと狙い続けていた。
果てには悪魔まで、物理界のサタンの一番弟子であり最良の研究仲間として有名人になるものの、そんなことに価値は見いだせなかった。
ぶつぶつつぶやき続ける学者。
そんな彼を観測し続ける悪魔。
そんな生活が数十年ほど続いて、ついに学者は病に倒れた。余命いくばくもないことはだれの目にも明らかであった。
「先生。お加減はどうですか」
「あぁ、もったいないね。もっと生きたかったよ。わたしにはまだまだやらなければならないことがたくさんある」
もっと生きたい。学者の欲望をかなえたところで、彼の欲望はすぐさま次のところに向かうだろう。彼の幸せは、命を長らえたところで手に入らない。
悪魔はまさしく万策尽きたといった表情で、学者をあの世へと見送った。
学者には妻はいなかった。彼の死を看取ったのは、結局悪魔ひとりだった。
学者の欲望によって呼び出された悪魔もじきに姿を消した。世の中では両者が同時にこの世を去ったことについてよからぬスキャンダルを噂する向きもあったが、ノーベル賞ほどの話題にはならなかった。
だが、大問題が起こった。
悪魔がいなくなったために、学者によって命を吹き込まれていた『ラプラスの悪魔』と『マクスウェルの悪魔』まで同時にこの世から姿を消したのである。不確定性原理はふたたび人類の前に立ちはだかり、熱力学第二法則がふたたび人類をがんじがらめにした。学者にノーベル賞を用いたふたつの技術はしょせん悪魔が肩入れしたものであったから、悪魔がこの世から消えれば技術が丸ごと使えなくなるのは当然である。そのうえ社会のそれなりの部分で活躍をしていたものだから、世界中が大混乱に陥った。精密な観測機器を失って科学の発展に急ブレーキがかかり、第二種永久機関が使えなくなって人々はエネルギー不足にあえいだ。
そして、発見者である学者の名前が再び取りざたされるようになった。
彼が発見したふたつの悪魔は、彼が死んでしばらくしてからこの世から消えた。
もしかしたらあの学者こそ、悪魔だったのではないか、と。
皮肉なことに、学者が生来抱いていた、自らの名前を関した悪魔を物理学に残したいという欲望は、彼が死に、その欲望につられて召喚された悪魔が消えて初めて、叶ってしまったのだった。
了