いや……、努力ってどういう話なんだろうな。実際、公務員の給料が高止まりしているかと言われると微妙なところだし、それに民間が合わせていくというのは当然分かりきっている話ではあるのだろうけれど、なかなかそれが上手くいかなかったりする訳だ。内部留保はあるのだろうから、それを何とか社員に還元出来ないものかねえ?
「まあ、会社によっては、社員の幸福を追求することが会社の幸福だ――なんてブラックじみた社訓を掲げている会社だってあるぐらいだ。実際、それがほんとうにルールに則ってやっているというのなら、給料が高くなることは当然のことだろうし。……けれど、実際は給料が安いのに仕事量は多い。何故なら社員が定着しないからだ。それを少数精鋭だと言っているケースだってないことはないが……、それが悪い方向に捉えられるか良い方向に捉えられるかと言われたら、簡単に言えば答えは前者だよ。だって、社員にかけるお金はありませんなどと言っているのと同じだからな」
そこまで詳しく言っていると、何だか経験しているのか――なんて思ったりするけれど、もしかして前職がそういうブラック企業だったりするのだろうか?
「いいや、あくまでもこれは知り合いから聞いた話だよ。一応言っておくと、警察はブラックかどうかなんて言われると……、そりゃあ人によるだろうな、という結論しか出せないね。何せ好きな人にとっては最高の職場な訳だし、嫌いな人からすれば最悪の職場であるということは誰だって変わりない。まあ、好きなことを仕事にするなんて到底無理なことだったりする訳で、それすらも才能なり努力なり運が必要となってくる訳だから……、後はコネも重要か。いずれにせよ、それが必要である以上は誰だって楽な仕事は出来やしない。楽して稼ごうなんて話は、甘い話に過ぎないし、それに乗っからない方が良いという訳だよ」
「すいません。長々と話をしているところ恐縮ですが……」
言い出したのは磐梯さんだった。もしかして事件のことだったりするのだろうか?
「うん? 何か話すことでもあったかな、磐梯」
「いや……、どう考えてもこの事件について話し合うことが先決じゃありませんか? 一応、警察の仕事はそうなんですから。その仕事を奪うことは、警察にとって死を意味しています。……それが警察にどういう作用を齎すのかは、定かではありませんけれど」
難しい話だな……。警察がする仕事と言えば、そりゃあ罪を犯した犯人を見つけ出すことでもあるだろうし、他には法律を違反した人間を取り締まるという意味合いも持つ。法の番人と言われているのは、弁護士だったっけ? それとも検察官だったっけ? 詳しい話は、今ここで語るべきではないのだろうけれど……、いずれにしてもその考え方をずっと持ち続けることが大事だったりするのだ。
大事ではあるだろうけれど、遵守しなければならないことであるかと言われると、疑問が生まれる。
何せ警察官だって弁護士だって検察官だって――はたまた裁判官だって、人間であることには変わりがない。人間であるということは、これすなわち、ミスを犯すことだってあるということだ。ミスをするということは、つまり完璧ではないということなのだから、それについて検証していかなくてはならなくなる。
けれど、実際の事件において、警察官や検察官はそれぞれの正義を振り翳してはいるけれど……、それが暴走するなんてことは滅多にない。たまに冤罪事件が出てきて取り上げられることは無きにしも非ずではあるけれど、しかしながらそれが起きるのはほぼ有り得ない。刑事事件のある確率で九十九パーセント以上が有罪になっているというデータがある。つまり、一度裁判にかけられてしまった犯人――この時点においては被告人という扱いになるのだろうけれど――は確実に処刑されるという訳だ。それが重かろうが軽かろうが処刑であることには変わりない。五十万円の罰金で済む事例だってあれば、残虐非道な事件だったから死刑になるというケースもある。いずれにせよ、事件を検証するのも裁判をするのも全て人間であることには変わりない訳だから――情が全く入らないかと言われると嘘になる。人間の特性であるのだから、それが入らないのは最早機械と言っても差し支えない。
ロボットに裁判をさせたらどうなるのだろうか――それは考えている科学者も多くないのだろうけれど、人工知能が進化しない限り不可能だとは思う。けれど、いつかはシンギュラリティがやってくる。つまり、人間の脳よりも人工知能が賢くなる瞬間だ。それがくれば、ロボットは間違いなく人間を下に見る可能性は高いだろう。そして、いつかは人間に対して反逆する可能性だってある。
「まあ、人間が人間を裁くのって、なかなか難しいことではあるけれど……、しかしながら人間しか人間を裁くことが出来ないのだから仕方がない。いつかやってくるのかね……、ロボットが人間を裁く日が」
きっと、それは今までこの世界を支配し続けてきた人間への裁きの時なのかもしれない。
いや、そういう終末論を信じている訳ではないけれど。
「この事件……、課長はどう判断しているんですか? 犯人は他に居るとして……、その目的は?」
「分からないのか、磐梯。言ったじゃないか、この事件は明らかに降霊術だって。何かを呼ぼうとしているんだよ、犯人は。血で魔方陣を描くのは、古くから存在している呪術のパターンの一つでもある訳だし……、そこから何を下ろそうと思っているのかも把握出来るのかも?」
しかし、それは確定している情報ではなかった。
あくまでも、六実さんの仮定であって、断定であった。
「仮にそうだったとして……、犯人は一人であったとは考えづらいのですが、どうでしょうか? 他の現場でもこの十字架は見つかっていますが、いずれも五十キロは超える代物です。とても一人の人間が持ち運べる量だとは……」
「いや、お米の俵だって、あれ一つ四十キロはあるんだぞ? それを考えると五十キロぐらいは持ち運べそうなものだが……。まあ、二階のこの部屋まで運び込むのははっきり言って不可能だろう。少なくとも、このビルの構造では、な」
何故だ?
「少年。これぐらい分かって欲しいものだけれどね。……では、解説しよう。簡単に言ってしまえば、このビルの入口だ。ここの入口はわたしの背格好から推定すると二メートルぐらいの高さしかない。それに対して、あの十字架は二メートルは超えているだろうな。……そこから考えると、先ずこのビルへ搬入するのは一人では不可能だろうよ。十字架に傷は付いていないだろうし、入口にも十字架の物質は付着していない。そうだろう?」
「え、ええと……」
磐梯さんはメモ帳を取り出して、ぺらぺらとページを捲っていく。
やがて一枚のページを見つけると、頷いて話し始める。
「あ、はい。そうです……。確かに十字架には傷一つ出来ていません。それは他の事件でも同様です……。そして、入口にもそういう物質は付着していませんでした。つまり、犯人はこの十字架を傷つけることなくここまで運び込んだ……?」
「それが可能か、不可能か。それぐらいはオカルトの知識が全くない磐梯でも分かることだと思うけれどね?」
「……はい、確かにそれならば。一人でここに搬入することは不可能です。誰か一人は最低でも居ないと……」
共犯者、ということか。
そうなると疑問に浮かび上がるのは――防犯カメラの存在だ。
都内では防犯という観点から様々な場所にカメラが設置されている。公共の場所とされている駅や役所から、個人宅のインターホンまで幅広い。そういうところに犯人が映り込んでいる可能性は?
「少年。それぐらい我々も調査しているよ。そして、警察が調べ上げた結果は……ノーと言わざるを得ない。つまり、犯人はカメラに映り込んでいないんだよ。カメラの目を掻い潜っていった可能性も十二分に有り得るが……、ここは東京都内。そんな芸当が出来る訳がない。少なくとも、一般人であれば、ね」
一般人であれば?
何か変な付け足しをしたような気がするけれど、気のせいか? 敢えて引っかからせたような感覚に陥ってしまう。
「まあ、言わずもがな、だよ……。オカルトの知識と技術を少しでも囓っていればこんなことは容易に出来る。六花、人払いをした可能性は?」
「充分有り得るでしょう。……しかし、幾ら人払いをしたところで、その痕跡というのは残っているものです。それを探せば或いは……」
「成程ね。……しかし、今まではそういう痕跡は一切出てこなかった。とはいえ、今までは囓っている側の人間がやっていただけに過ぎない。あんたなら分かるんじゃないかね? 三橋家の当主である六花、あんたなら」
三橋家は、何か由緒正しい家だったりするのか?
確か浪人だって話は聞いたことがあるけれど……。
「三橋家だけならば……、少なくとも雪斬を手に入れるまでの三橋家ならば、ただの武家に過ぎません。けれど、三橋家は雪斬と出会ったことによって裏の世界……陰陽師など妖魔蔓延る世界へ誘われることになります。そこで力を付け、やがて三橋家は陰陽九家の一角として呼ばれるようになるのです。一ノ谷、二葉、三橋、四谷、五藤、六山、七草、八尋、そして九重」
つまり数字にちなんだ名字が揃っていて、それらを陰陽九家と呼ぶようになった……そう言いたい様子だった。
しかしながら、それが何故表の世界に出ることはなかったのだろうか?
「答えは当然分かりきっていることではあるのですが……、朝廷の力が弱かったからです。当時は武家が強く、貴族は弱い立場に置かれていました。三橋家の先祖も武家の流れを汲んだ存在ではありましたけれど……、そこから朝廷側に入るのは並大抵の努力で出来るものではありませんよ」
「しかしながら、明治維新を迎えたことで事態は急変した、って訳。……大政奉還をしたことで、天皇に権力が戻ってきたでしょう? そうすると、こちらの力も復権していくんだよね。ただし、それも戦争が全てを変えてしまった」
戦争――つまり第二次世界大戦ということか。
「あれで天皇は――昭和天皇は人間宣言をした。それによって裏の世界のパワーバランスも大きく崩れてしまった。日本政府もオカルトの存在を否定して、近代化に尽力していった」
「だったら……、だったらどうして警察に虚数課なんてオカルト専門の部署が出来るようになったんだ? 出来たということは、警察――ひいては日本政府だってオカルトを無視出来なくなったということだよな?」
「バブル景気が終わってから、人々の心が閉塞していった。……少年はバブルが弾けた後に生まれたから分からないだろう? しかし、我々……よりも一つ上の世代からしてみると、好景気が終わってしまった後の閉塞感はとんでもなかったんだ。そうして、人々の間に救いを求める声が上がり始めた。オカルトが、そこに食いつくようになったんだよ。具体的には、都市伝説や妖怪や幽霊……、いずれも実体を持たない存在だ。しかしながら、それを表立って認めることは警察だって出来やしない。こうして立ち上がったのが――虚数課って訳だ。一応、表向きには存在しない部署になっているがね。アメリカのMIBみたいなものだよ」
ああ、あの宇宙人やUFOを目撃した人の家に現れるという黒ずくめの存在のことか……。都市伝説を逆手にとって、ハリウッドでコメディ映画が公開されていたっけなあ。ウィル・スミスが面白いんだよな、あの映画。1か2にはマイケル・ジャクソンもちょこっとだけ映っているとか映っていないとか……しかも台詞がある役だから見たら必ず分かるらしい。
「虚数課が使い物にならないのは確かですけれどね。一応警察から手柄をなくしたくないから作っただけのような感じがしますけれど。……個人の退治屋の方が楽だっていうのはどれぐらい言いましたっけ?」
「……正直あんまり覚えていないよ。それは、自分が食べたパンの枚数を覚えているのか、と言っているような物だろ。組織に囚われているよりも、個人の方が動きやすいのはどの業界だって同じことだよ。組織に所属するということは、上下関係がある。上下関係があるということは、一応上を立ててあげなくてはならない。立てるということは、それなりに忖度をするということであって……、それが事件のスピード解決にとんでもない悪影響を与えているという訳だよ」
「言いたいことは分かるんですけれどねえ。でも、分かりたくはありませんね。出来ることなら警察もそういう縦割りをなくしてスムーズに動いて欲しいものですけれど」
「……肝に銘じておこうか」
何だか悲しくなってきたな……。いずれにせよ、警察が警察として動くのはそれなりに権力があるからであって、その権力を存分に発揮出来なければ古臭い考えが浸透しているだけのただの組織でしかない。つまり、警察とは権力があるから成り立っている訳で、警備員やそれに該当する存在がそれと同じぐらい太刀打ち出来るかと言われると甚だ疑問だ。やっぱりそこはなかなか難しいんじゃないだろうか?
「事件は直ぐに解決しそうにありませんね。……では、取り敢えずわたしは人払いの痕跡を確認すれば良いのですね?」
「それで頼むよ。それをしてくれれば、こちらとしても大変有難いものでね。……何せこちらも人手不足だ。それだけ優秀な人材は出来れば登用したいところではあるけれど……、残念なことに我々は国家公務員だ。つまり法律によって給料も決まっているから、高い給料を支払うことが出来ない。こないだ総理大臣がデジタル庁設立に備えて民間から優秀な人材を登用するなんて言っていたが……、やりがいばかり搾取されて給料が安いのなら、誰もやりたがらないだろうな。滅私奉公が成り立つのは、昭和の時代までだ。今は生活のために、それなりの給料とそれなりの休暇を維持しなければならない。……ワークライフバランスとか言っていたか? それをしていかないといけない時代なのだよ。面倒臭いったらありゃしない」
おい、最後に本音が出たぞ。……でも、面倒臭いのは確かなのかもしれない。ワークライフバランスの実現のため――なんて言われてはいるけれど、それを実現出来るのって人材をそれなりに確保しているホワイト企業ぐらいだと思う。人材をギリギリで回していて残業時間も多いようなブラック企業にはそれは当てはまらない。当てはまる訳がない。当てはまるのならば、それは何処か書類上の誤魔化しをしているのだろうし、それは労働基準監察局辺りが厳しくチェックしていかねばならないのだろうから。
六花はぼく達との会話を終えると、足下を確認していきながら、ゆっくりと歩き始めた。それがさっき言っていた人払いの痕跡探しなのだろうけれど、端から見たら落とした小銭でも探しているのか――なんて思ってしまう。オカルトには少しだけ詳しくなったつもりではあるけれど、こういう行動をきちんと見るのは割と初めてだったりするのだ。……しかし、ありゃ変わった人間だなと思われても致し方ないのかもしれないな。それをどう捉えるかは本人の勝手なのかもしれないけれど。
「まあまあ、それを言うのは悪いことだよ。こちらはお願いしている立場なのだからね。とにかく……今は六花の『調査結果』に期待するしかない」
そう言って六実さんはライターと煙草を取り出した。……こんなところで煙草を吸うつもりか? いや、警察とぼくと六花しか居ないから、別に良いのかもしれないけれど、もし何処かで見られていたら受動喫煙がどうのこうの言われることになりそうだけれど……。