がしゃん、と遠くない部屋で音がした。この屋敷にはわたしとイデアさんしかいないので、その音はイデアさんの出したものと言うことになる。突風とか、魔法の誤作動という可能性もなきにしも、なんて無駄なことを考えながら音の出た方へと足を向ける。白いレースのワンピースか翻った。
毛の長い絨毯は足音を吸い込む。イデアさんが歩くと本当に無音で、ぬぼっとした立ち姿は外にいる時と変わらないはずなのにこの家では不気味な威厳を示す。家主だからかな。わたしの歩き方では、大きな音は出ないもののぼす、ぼふ、と不格好な音を出してしまうことがある。ふたりきりだからいいとイデアさんは言ってくれたけど、ふたりきりでなければ指導が入るような拙さということだ。それでもわたしは空気の抜ける音を鳴らしながら彼の元へと向かう。
がしゃん。もう一度、少し大きな音が鳴る。わたしたちの生活スペースは限られているので場所の特定は難しくない。2階の奥、わたしの私室から音がしているようだった。あそこを荒らされるのは少し困る。
鍵のかからない部屋のドアノブを回し、ぐっと力を込めて押し込む。なめらかに開く扉の先、部屋の真ん中でイデアさんは立っていた。その髪はゆらゆらと揺れて、ぱちぱちと毛先が赤く爆ぜてる。興奮状態に間違いなかった。
部屋の中ではわたしの香水瓶が割れていた。華奢で繊細な瓶たちはイデアさんからの贈り物だったり、ねだったものだったりする。ひとつずつ丁寧に落とされた二本の瓶は彼の足元で強烈な香りを撒き散らしていた。
大したことではない。ほとんどインテリアとして飾っていただけだし、欲しいならば彼に言えばまた手にはいる。ただ、香水の中に立つ彼をどう諌めるかというのは問題だった。
「…なに、きみ」
イデアさんは髪の隙間からわたしを睨みつける。無造作に振られた腕が、スズランの形を模したランプを落とした。ぱりん、軽い音。あのランプの灯りは柔らかでお気に入りだった。随分と前、珍しくこの屋敷に商人が来た時にイデアさんに買ってもらったランプ。夜あれを灯していれば、イデアさんは液晶を見ずにわたしをゆるく抱きしめてくれる素敵なランプだったのに。与えるのも壊すのも彼なので、文句はないのだけど少しだけムッとするのも事実だった。
イデアさんは細かく散った細工を見下ろし、わたしをもう一度睨みつけた。
「……淫売が」
腹の奥底から滲み出る声。懐かしさすら感じる、警戒と憎悪の篭った声だった。最近のイデアさんはおくるみのような優しさでわたしを見ないようにするのに忙しいから。
「帰るって言ったクセに、…なに、このザマは」
「…イデアさん」
「ははッ、もう、…ホント、女ってのはいいよね。ちょっと着飾って下手に出てれば飼って貰えるんでしょ」
「……」
「ダンマリだ。そりゃそうだよね、図星なんだろ。悪趣味、どうせ気持ち悪い男に抱かれて喘いで飼い殺し」
「やめてください」
「おっと失礼。ご主人様のこと悪く言ったらダメだった?売女でも情はあるってことか。いやはや…」
イデアさんは口元を手で覆う、笑みを隠すような仕草だ。瞳が弧を描くのは止められずにいる彼は猫が笑う姿に似ていた。
イデアさんはイデア先輩になってしまっていた。時折あることで、イデアさんの時間だけが戻ってしまうのだ。なぜそうなるのかは分からない。なにかトリガーとなるものがあるのか、自然発生的なのか。もしかしたら学会の謀略とか、生家からの視線とか、なんなら低気圧とかわたしを帰さなかった罪悪感とか、そういうものが関係しているのかもしれない。確かなことは分からない。イデアさんはわたしにそれを教える前に壊れてしまったから。ある日突然イデアさんは、穏やかで慈しみを惜しまないひとに生まれ変わったのだ。そうしてわたしの頭を撫で、微笑み口付け、「好きなことをして」「全部僕に言って」「叶えてあげるから」と顔を覗き込んで。その対応にすぐ理解した。ああイデアさん、逃げたのね。
イデア先輩が香水を踏みながらわたしに手を伸ばす。瓶の破片がおろしたての革靴に傷をつけた。レースのカーテンの先、窓の外は快晴で室内のいやな湿度との落差に気持ちが落ち込む。
「僕から逃げたくせにッ…!」
「っかヒュ、」
「ふざけるなよ…ひとを、人を弄んで!いい気になりやがってッ!いい加減にしろよ!」
躊躇なく掴まれた首は空気を取り込めずに喘ぐ。イデア先輩の片手で左右される生死に生理的な涙が膜を張る。距離が縮まり、イデア先輩にかかっていたであろう香水のにおいが増す。くらくらするくらい。ジャスミン、コーヒー、革製品、スパイス、フィグ、煙草…鼻が曲がりそう。
首を掴むイデア先輩の手に、わたしは指先を添える。引っ掻いても抓っても離れない。それどころか加えられる力は強まっていくばかりだ。イデア先輩はもう笑ってもいないし、泣いてもいない。ただ怒ったような、困ったような表情でわたしが窒息していくのを見ている。ささやかな抵抗は微塵も感じていないようだった。
「死ね、死ねって…」
激情は通り過ぎ、彼は冷静にわたしを殺そうとしていた。わたしは震える指先をペンダントへと添えて、イデアさんの仕掛けを作動させる。
ぷしゅう、と間抜けな音を立てて薬が散布される。所詮ペンダントに仕込める量だから大した効能はないけれど、首を絞めるような至近距離にいるひとが直接吸い込めば体が弛んでたまらなく眠たくなるようなお薬だ。首から離れていく手に、見開かれる瞳。それはのちに強く強くわたしを睨んだ。
逃げたくせにですって。よくもまあ、よくも…言えたものだわ。
かぶりを振って雑念を散らす。彼はイデアさんではなく、青き日々のイデア先輩だ。わたしを愛し、私が愛した偏屈で人嫌いで我儘な彼。彼に罪はあっても、あの頃の彼に対し罰を負わせる権利はわたしにはない。共に裁かれるべきなのだ。
床に伏せる、意識のない彼の頬を撫でる。愛しいイエローは閉じ込められて見られない。意識が戻ればまた穏やかで毒気のないイデアさんがわたしを罪滅ぼしのように甘やかすのだろう。彼にもわたしにも、もうそれしか方法がないから。
脇から腕を突っ込んで、重たい上半身を持ち上げる。スラックスには香水が跳ねていて、も いっそもう処分してしまおうかとため息をついた。髪を巻き込みながらずるずると引きずり、廊下へと出す。部屋を片付けるのにこの人が寝ていたら邪魔なのだ。ぱっと腕を引けばイデアさんの頭が音を立てて落ちる。人格を据え替えてもなお健在する天才の脳みそが揺れた。いくら毛の長い絨毯があってもさすがに受け止めきれる重さでは無かったようだ。それでも戻らない意識に、意外と強い薬を仕込んでいたのだなと感心する。夕飯までに起きてくれるだろうか。
足元に回り込み、しゃがんで怪我がないかを確認する。飛び散ったガラスが白い肌に細かい傷を作っていた。魔法役を使うほどではなさそうなのであとで拭いて、絆創膏でも貼っておけばいいだろう。破片が刺さっていたら面倒なので革靴と靴下を脱がし、スラックスを2度折る。よく目をこらせば、靴下には細かな破片がくっついていた。落ちないようにくるんと裏に返す。
部屋に戻り、窓を少し開ければ香水のにおいが薄れていく。この部屋の絨毯も交換してもらおう。あとで新しいものを注文しておかないと。
窓から風が入ってくる。レースのカーテンが揺れて、つられてわたしのワンピースも流れる。
風が流れる先には裸足のイデアさんがいて、なんだか笑ってしまった。風に乗って、裸足になって逃げたのね。
わたしの愛した男はもういない。そうだったひとはいるし、不自由のない暮らしはあるけれど一番欲しかったものがこの世にない。時折わたしを逃がさないと、過去の幻影が声をかけてくるけれどあれほど喜ばしく虚しいことも無い。
結局望みを叶えたのはイデアさんだけだ。手に入れて、恐れて捨てた。捨て切ることも出来ずに手元に置いて「愛しているよ」と「だから恨むな」とのたまう。若い男の語る愛と永遠を信じたわたしが悪いのかしら。信じさせた彼が悪いのかしら。
いずれにせよ、もう手はない。もう手はないからごっこ遊びを続けてる。
ああ彼が目覚める前に片付けなくては。いつ起きるか分からないっていうのは不便だわ。薬の説明、次はもう少しちゃんと聞いておこう。
わたしは横たわる彼を横目に部屋の扉を閉めた。