この世界には両手を前提にしたものが多すぎる。
ペットボトル一つをとっても、今の織賀には開けることが難しいし、服を彩るボタンの数も多すぎる。彼が赤ジャージの似合う人間で良かった。死体を埋めるのにラルディーニを着るような人間だったら、祝部の手間はもう少し増えていただろう。
片手で出来ることの少なさを知った祝部は、この世界が不自由なものだと感じるようになった。パラダイムシフトという言葉の意味を、辞書の例以外で理解した。
きっと、本人が一番世界の変化を感じているだろう。フォーク塗れになった食器棚を見て、祝部は痛ましくもそう思う。
「いや、そうでもないわ。別に不便なこともそんな無いし」
「流石に片腕無くなってそれは無いでしょう」
「いや、マジだぜ? お前が俺に困ってほしいって言うなら別だけど」
祝部の部屋に鎮座まします織賀善一は、そう言って晴れやかに笑った。赤ジャージを羽織った彼には片目と片腕と自由に動く片足が無い。だが、祝部が知っているどんな織賀よりも、今の織賀の方がずっと自由に見えた。今までとは違って、織賀はもう誰にも脅かされていないのだ。
一見するとおかしいかもしれない。何しろ、織賀の人生はさほど変わってはいないのだ。彼は相変わらず死体埋めビジネスに囚われていて、祝部と一緒にジャガーに乗っている。彼がハワイに高飛びする未来なんて存在しないだろう。求められる限り、祝部と織賀は死体を埋め続けるのだ。たとえ大学を卒業しても、自分たちが部活であると嘯いて。
なのに、この穏やかさといったらどういうつもりだろうか。苦しんでほしいとは絶対に言わない。ただ、一緒に嵐を渡る覚悟を決めたのに、踏み込んだ海はいつまでも凪いでいる。そのことが祝部にぼんやりとした不安を抱かせる。いつか、大きなしっぺ返しがくるんじゃないかという不安だ。
一度手酷いツケを払わされた身であるからこそ、もう二度とあんな目に遭わされたくはないのだ。なら、祝部はずっと正解を引き続けなければならない。この間の山でのように。
「だって、世界は大分バリアフリーになってきてるし、俺は利き手じゃない方でも器用にやれるよう成長してきてるし。何にも心配要らないって」
「バリアフリーになってるって言っても、この世から固い瓶の蓋は無くなりませんし、Switchのコントローラーは両手で持たないと厳しいですよ」
「お前、任天堂の底力を舐めんなよ。この間見たテレビでやってたんだけど、いずれゲームは脳波でキャラクターを動かせるようになるらしい。ていうかもうそういうゲームがあるらしい。何だったかなー、ヘッドセットを付けてキャラクター動かす系のプレイ動画あったはずなんだけど」
「そうなんですか。ハイテクですね」
祝部が適当に応じると、織賀は笑顔で続けた。眼帯で隠れていない方の片目が細くなる。
「でもまあ、俺ゲームとかやったことなかったんだけどね。祝部が何でも買ってくれるからさ、この歳になって始めてゲームとかねだっちゃったけど、そういう子供時代を送ってこなかったから。マリオとかカービィとかそういうのは、埋める死体の持ち物の中でしか知らなかった」
「そういうのはもう効きませんよ。これからは望まれたら何でも買うので」
その通り。祝部はもう織賀のそういう言葉に動揺したりしないのだ。世間から固い瓶の蓋が無くならなくても、織賀には弾けないヴァイオリンがショーケースの中に飾られていようとも、祝部は最大限の物を与えようとするだろう。片手で弾けるピアノソナタは案外多いらしいのだ。織賀が望むなら、寝る場所が無くなろうともグランドピアノを買うだろう。窓を直さないで暮らしていくよりはずっといい。一音鳴らして飽きられてしまっても構わないのだ。
「でもさー、俺の中のバリアフリーって一番はお前なんだよね」
「どういうことですか。バリアフリーってバリアがフリーになることなので、俺がバリアフリーっていうのは意味が通らないんですけど」
「今分かったわ。祝部が先回りして色々やってくれるから、俺はあんまり不便さを感じないんだよね。てことは、やっぱり合ってるんだよ。俺の中のバリアフリーはお前なの。というか、バリアフリーターなのか」
そんな言葉があるのだろうか、と祝部は思う。けれど、祝部は織賀の付けた肩書を甘んじて受け入れる。承認しよう、と心の中だけで言った。実際に言葉にしようとすると、織賀に苦言を呈されるのだ。承認できるのは織賀善一だけらしい。
「バリアフリーターって響き、なんか微妙ですね」
「他に何かあんのかよ。ていうか気になってたんだけどさ」
「何ですか?」
「この家にあるフォークって何本?」
「八十二本ですかね」
戻ってきてから、織賀はそのまま英知大学を辞めてしまった、らしい。らしいというのは、織賀から聞いた話をそのまま受け止めているからだ。織賀が不在だった期間はそれなりに長いが、こうして華々しく帰還を果たしたのだ。英知大学が便宜を図ってもおかしくないだろうに。……いや、単位に異常に厳しい英知大学は、大脱出を果たした彼をどうしたって迎え入れないだろうか? 電車の遅延を赦さない大学が、崖下での停滞を赦すとは思えない。今の織賀は遅延証明書すら持っていないのに。単位をちゃんと取っていた織賀善一のことを思って、祝部は単純に悲しくなった。織賀の履修計画は美しかったし、彼はつつがない大学生活を愛していたのである。
けれど、当の織賀はそんなことを全く気にしていないようだった。今まではちゃんと読み込んでいたシラバスを枕代わりにして、ソファーにだらりと寝転んでいる。
「織賀先輩って、成績優秀者でしたよね?」
「そうだな。ていうか、成績優秀者の中でも上位に入ってたから相当なもんだったと思うぜ? 知ってる? 英知の成績優秀者って授業料免除になるんだけど、そこで更に上位になると、大学の側からお金もらえんの。いやー流石学費を光らせる大学は違うね」
「え、じゃあ織賀先輩って大学からお金もらってたんですか!? なのにそのテンションなんですか!? お金大好きなのに!?」
「なんかそのお金大好きって言われるのもヤだな……。俺は通帳を伸ばしたいだけで、お金が好きなわけじゃないの。いや、好きだけどね? でもさー、大学からもらえるお金なんて微々たるもんだよ。埋め部換算で言うと大体六分の一埋め部だったり八分の一埋め部だったりするからやる気が出ないわけ。一埋め部くらい金がもらえるんならもっと喜んでたって。そこまできたら、英知大学の成績優秀者の地位は人一人分の命に相当するってことになるじゃん」
……果たして、そういうことになるのだろうか? この話で安くなるのが成績優秀者の地位なのか、人一人の命なのかが分からない。すっかり天秤がイカれてしまっている。復学した祝部はそれなりに真面目に講義を受けているけれど、Aを取るのは難しいのだ。今はもう織賀にレポートの助けを求めていないから、余計にそう思ってしまう。
「というか、そういう話をしたいわけじゃなかったんですけど。成績優秀者だったんなら、なおのこと復学した方がよかったんじゃないかなって思うんです。勿体ないじゃないですか。織賀先輩は殆ど単位を取り切ってたって聞いてましたし」
「んー、まあそうね。だからあれだけ祝部に構ってあげてたわけだしな。でもさあ、復学して何か意味あんの?」
織賀がソファーの上で身を捻る。このソファーは、部屋の居心地が悪いという織賀の為に、祝部が一人で買ってきたものだ。狭い部屋の中の大部分をこのソファーが埋めてしまっているが、祝部には文句を言うつもりもない。グランドピアノを買い足したいと言われない限り、祝部は困らないからだ。
頭がシラバスからズレたお陰で、織賀の身体はそのままひっくり返ってしまいそうだった。今の織賀は重心のバランスが少しだけ悪い。いつもなら、祝部がさっと寄って、織賀の身体を支えてあげるところだ。
だが、動けなかった。織賀の声がぴんと張り詰めて、言葉の上で祝部のことを押し留めている。こうなってしまえば、祝部はもう動けない。
「復学して、卒業して、その先に何かあんのって話だよ」
「……就職とか?」
差し当たって、そんな言葉を返す。
そんなものがあるはずがないと知っていても、なるべく愚かに振る舞いたかった。案の定、祝部を制す織賀の言葉は優しかった。これで正解なのだ。
「いやいや、俺はもう働けないって。俺の人生はもう余生なんだよ。お前、ハッピーエンドを迎えた後の絵本とか読んだことある? 三匹の子豚リターンズとか、赤ずきんちゃんカムバックとかそういうの。俺にはこれ以上もこれ以下ももう無いの。ただただ幸せだけがあるの」
「それでいいんですか?」
「えー、だって祝部が養ってくれるだろ?」
「それは勿論そうですけど」
「じゃあいいじゃん。もう成績なんて関係無いっつーの。あ、でもあの学位記は欲しかったな。ちゃんとした卒業式出てみたかったわ。そしたらお前泣いてたかもしれないもんな。俺の第二ボタンねだったりしてさ」
「織賀先輩が第二ボタンついた服着てるの見たことないんですけど」
そもそも、卒業しても死体埋め部が終わることはないという触れ込みだったじゃないか。世の中には社会人サークルがあって、人はいつ何時でも死に続ける。通帳の長さが伸びるまでにはまだまだ時間が掛かるし、この世から殺人が無くなることも無い。だから、織賀が卒業して祝部が泣くことなんてなかったはずなのだ。
「でも、俺はやっぱり復学するべきだったと思いますよ。優等生の織賀先輩なら、学事に相談したらどうにかなったかもしれませんし。もしあれなら、織賀先輩の代わりに俺が聞いてきますから」
「いいよ、そんなの。第一俺、学生証失くしちゃったもん」
あの学生証の写真、写り悪いから良かったんだけどさ、と織賀が言う。それを聞いてから、祝部はソファーの方に向かう。彼を支えて、いい位置に誘導しなければいけない。それが後輩としての役割だからだ。
ところで、織賀は祝部の家に完全に居着くことはなかった。ソファーを買い揃え、八十本以上のフォークと五十本以上のスプーンと、二本の先割れスプーンを備えた家でも、織賀がこの部屋で一緒に暮らすことはなかった。ある時間になると、織賀はかつてのようにフラッと帰っていってしまった。
「いや、織賀先輩も普通に家に帰らないといけないからね」
と、言うのが織賀の言い分だった。確かに理に適っている。織賀に普通に家があるというのなら、帰らなくてはならないだろう。祝部はあくまで合鍵を渡しているだけの後輩だ。織賀は好きな時に祝部の家に来ていいけれど、こちらが引き留める理由は無い。ただ、疑問はあった。祝部がいない間、織賀は片腕でどうやって暮らしているのだろう。バリアフリーターである祝部がいなくても、世界は織賀に優しいのだろうか。
「大丈夫。俺はジャムの固い蓋を開けたりしないよ。ジャムを食べたい時は真ん中でパッキンって割ってにゅるって出すやつを使うから。お前知ってる? 小学生の頃給食で出たよなー」
祝部の通っていた小学校では、ジャムはパンの中に内臓されているものだった。
「織賀先輩って一人でいる時何を食べてるんですか?」
「えー、フォアグラ」
「怒りますよ」
「あとねー、ホッケとかいくら」
祝部が不機嫌になろうとも、織賀はその回答を引っ込めるつもりは無さそうだった。溜息を吐いて、せめて視線で遺憾の意を示す。
祝部は織賀がどこに住んでいるかを知らない。教えてもらっていない。当然ながら合鍵も貰っていないし、彼がここを出てどんな生活を送っているかを教えてもらえることはない。それは暗黙の了解であり、振り返ってはいけないという冥府でのお約束のようなものだった。一つでも破れば、祝部が見るのは塩の柱かもしれない。
だから、祝部は絶対に聞けない。
織賀先輩は大学に行って、自分で学事に相談をすることが出来るんですか? と。
幻肢痛という言葉がある。腕や足を失くした人が、かつてそれらが在った部位に痛みを覚える現象のことだ。織賀善一が失くしてしまった右手に痛みを覚えたら、それが幻肢痛である。しかし、織賀がその幻の痛みを訴えることはなかった。彼曰く「俺は生まれてから今まで失うことに慣れ続けてるからね。今更だっつーの」とのことである。ぱたぱたと揺れる赤ジャージの袖を見れば、その悲しいお話を受け入れるしかなかった。織賀は無くなったものに幻を見たりしないのだ。いくつかある織賀善一の才の中で、喪失の才能は一際輝きを放っている。
一方で、祝部にはその才能が無かった。それは重々自覚している。祝部にはその才能が無いし、右足を失えば、きっと痛みで夜中に泣くだろう。
ふらっと消えてふらっと戻ってくる織賀善一が、祝部の痛みではない保証は無かった。織賀の残った手は温かい。体積の減った身体は、それでも抱えると重い。でも、祝部の疑問は已まなかった。それが酷い冒涜であり、祝部の幸福の前提を壊すハッピーエンドの続きであると知っていてもなお、一人になった部屋の中で幻肢痛の言葉を思い出した。
そしてある日、転機が訪れた。
「しまった。明日ガス点検だった。うわー、最悪……」
絶望的な声を上げる祝部の横で、織賀が不思議そうな顔をする。
「ガス点検? なんでそんな嫌がるんだよ」
「俺、明日必修なんですよ。一度落としてるから卒業するにはもう落としたくなくて……。業者と一緒に大家さんも来るっていうから絶対空けなくちゃいけないのに」
祝部は窓の件で大家に迷惑を掛けている。何本も合鍵を作っていることもバレている。おまけにこの間は、織賀が雨漏りを指摘したのでそれも直してもらった。初期に気づいたので簡単に工事は済んだし、代金は祝部が持った。けれど、長らく業者と付き合わせたのは迷惑だっただろう。これ以上、あのアパートに居づらくなるわけにはいかなかった。でも、英知大学の三回ルールは厳しい。病欠以外で一回でも欠席すれば、評定にも響いてくる。
すると、隣にいた織賀が明るい声で言った。
「ああ、なら俺が応対してやるよ」
「え?」
「別に何するわけでもねーんだろ? 委任状? 的なのがあれば俺でもいいんじゃねえの? この優しい織賀先輩が代わりにガス点検に立ち会ってやろう」
履修登録を組んでくれた時と同じ頼りがいのある声で織賀が言う。八重歯を見せて笑う姿は、出会ったばかりの春の日を思い起こさせた。そういえば、祝部はこの笑顔と甘やかな言葉で絆されたのだった。そして、今と同じ言葉を口にしたのだ。
「いいんですか?」
「任しとけって。あ、でも片手無いから駄目かな? 眼帯姿で大家さんに会ったら不良だと思われる? やだなー」
その言葉を聞いて、じわじわと背中に汗を掻く。織賀が応対してくれる。大家さんと、そしてガス業者と、織賀が言葉を交わす。それは一体どういうことだろう? ……動揺を悟られないように、その先に何を見ているかを察されないように、祝部は淡々と言う。
「……いや、大学の赤ジャージ着てる人間は結構素朴に見えるんじゃないですか?」
「茶髪でもいい?」
「大丈夫ですよ」
この身体になってから、織賀の髪は祝部が染めていた。こまめに請け負っているので、織賀の髪は昔よりずっと綺麗な茶色に染められている。まるで元々その色だったみたいに、出来すぎた色だ。
心臓がうるさく鳴っていた。合宿に行く前に書かされた誓約書のように、祝部はやたら細かい委任状を書かされた。犯罪者扱いをされるのが嫌なんだそうだ。どの口で! いいや、それでこそ。今や、死体を埋めているのは祝部だけなのだ。罪人呼ばわりはきっと不本意なのだろう。彼はもう失わない。
翌日の講義には全く身が入らなかった。ガス点検にこれほど重い意味を見出している住人は祝部浩也くらいのものだろう。思えば彼の祈りの先は、向かうべき十字架は、いつだって別の形を取って顕れた。窓に比べたら、少し俗に寄っている。ガスの点検は笑ってしまうくらい平和で凡庸だ。祝部はあの大家さんと沢山の他愛の無い話をした。地元から東京に出て部屋を契約した時に、地元の名産である林檎ジュースを贈った。大家さんの存在は、祝部の世界を正常なものに揺り戻す。
あの暗い山の中で『殺すつもりではなかった』相手のことを思い出す。崖下に落ちていった彼岸山は、確かに織賀善一を害そうとしていたはずだ。そうでなければ、祝部があんなに機敏に動けたはずがない。彼の存在が、祝部に贖罪のチャンスを与えてくれた。
しかし、あの山は織賀善一の山なのだった。所有権なんか欠片も無いはずのオリガマウンテンでは、何の尺度にもならなかった。
教授がドイツ観念論について話す。この講義のレポートは重く、試験も難しい。集中しなければいけないのに、板書を移す手が震えた。脳の中の嵐は、心の何処かで祝部が求めていた嵐でもあった。本当なら別の航路を辿って向かうはずだった旅だ。しかし、今祝部が渡る海の行き先が見えない。
必修の講義を受け終えると、祝部はすぐさま家に帰った。もうガス点検には間に合わないだろう。けれど、業者や大家さんはまだうろついているかもしれない。そもそも、織賀がいなければ点検自体が行われるはずがない。大丈夫だ、と祝部は言い聞かせるように呟く。
果たして、開け放った部屋に織賀はいなかった。ソファーの上に、やたらきっちりとした委任状が載っている。
祝部はふらふらとソファーに歩み寄っていった。そして、委任状を拾い上げる。紙は少しだけ縒れていたが、それは昨日からそうだったような気もする。綺麗な字を書こうとすると、祝部は意外と力んでしまいがちだ。織賀が緊張具合を指摘してくるのも困った。彼の残った指先が、書かれたばかりの委任状をなぞる。
スマートフォンが鳴ったのはその時だった。
『おい、織賀先輩からの電話にはちゃきちゃき出ろっつったろー? 俺が優しい先輩じゃなかったら首だけ出して山に埋められてたぞ』
俺が帰って来るまでどうして待っててくれないんですか? とも、ガス点検はどうだったんですか、とも尋ねられなかった。織賀がわざわざ電話を掛けてくるのは、重要な要件がある時だけだ。祝部は織賀の言葉を待たなければならない。何故なら、織賀はまだ死体埋め部の部長であるからだ。祝部は部活動が円滑に進むようにしなければならない。
『今夜、出れるよな? 依頼があったんだわ』
「……勿論ですよ」
織賀はいつも、そんなことをわざわざ尋ねたりしない。祝部の都合を全く聞かずにやって来て、あのジャガーを運転させるのだ。そのせいで、祝部は夜に予定を入れなくなった。いつ何時織賀が現れてもいいようにだ。なのに、どうして昼間には平然と予定を入れているのだろう? 本当に大学を辞めるべきだったのはどちらだったのだろうか。
『じゃ、後で行くわ。予め車出しておけよな』
織賀はいつもの通りそう言って、ぶつりと電話を切った。ガス点検の首尾は全く教えてもらえないままだった。
織賀があの身体になってから、埋め部の活動は少しだけ様相を変えた。まず織賀が祝部の部屋にやって来て、そこから依頼の概要が説明される。祝部は織賀から説明を受けて始めてジャガーを取りに行き、祝部の家で待機していた織賀を乗せてから依頼現場に向かう。この大いなる無駄が、なんだか儀式染みている。江澄から依頼を受けるのも、いつの間にか織賀の役割に戻ってしまっていた。これが、推理ゲームの公平性を担保する為だけの措置なのかは定かじゃない。だったらせめて、依頼があったことやその内容を電話で事前に教えてくれればいいのだ。
先にジャガーを持ってきて織賀を待てるのは便利だった。車の中で待機していると、織賀は長く影を伸ばしながらやって来た。
「待った?」
「夜としか指定されてないので相当待ちました」
「でもジャガーの運転席って座り心地いいだろ? 住めちゃうくらいじゃん」
「それはそれです」
祝部が扉を開けると、織賀は軽やかに後部座席に飛び乗った。かつては祝部が座っていた場所だ。
「それじゃ、今夜の依頼人のところに行こうぜ」
言われるがままに、祝部はエンジンを掛ける。車が走り出すのを確認してから、織賀はようやく行き先を告げる。
少し離れた場所だ。
今夜の死体には何の面白いところもなかった。謎も無ければ想像の余地すら無い。大学生の男が一緒に宅飲みしていた男の首をロープで絞めて殺害しただけのシンプルな事件だ。興を削ぐことに、依頼人は動機の方も語ってくれた。なんでも、殺された男に執拗に成績を弄られたのが我慢ならなかったらしい。つまらない動機だとは思わなかった。どんな動機があろうとも殺人があったという事実は変わらないし、高尚な動機があっても殺人は殺人なのである。赦せない部分の違いだ。唐揚げにレモンを掛けることが殺人に繋がったとしても、祝部はそれを責めたりしないだろう。
「でもさー、運んでるこっちの身にもなれよって感じだよな。車内で何話せばいいのか分かんなくなっちゃうじゃん」
「謎の無い死体なんて今までにも沢山あったじゃないですか。仕方ないですよ」
「謎の無い死体な。あのさ、思うんだけど、生きてる人間の方が謎じゃね? 俺が自分の腹の中身を開けたとして、その臓器が何の役割を持ってるのか、折れちゃヤバい骨がどれかとかいまいち分かんなそう。そういえば、飛行機もあれが何で飛んでるか分かんないんだって。一説によると、飛行機が飛べるのはみんなが飛べるって思い込んでるからなんだとか。すごいよなー」
「織賀先輩、それクマバチと混ざってますよ」
それに、飛行機が飛ぶ仕組みが解明されていないというのも嘘だ。あれはまことしやかに囁かれている都市伝説で、本当は飛行機の仕組みは解明されている。そうじゃなきゃ、あんなものを怖くて飛ばせないだろう。そして、飛べないクマバチが思い込みの力で飛べるようになっているというのもデマだ。クマバチは元から飛べる身体を持っている。ペンギンとは違うのだ。
「んで、話の続きなんだけど。この世の中もさ、ある意味思い込みで出来ているわけよ。俺達がこうして車を運転して死体を運べるのも、この街に暮らす人間がちゃんと信号を守るって思い込みのお陰だろ? そうじゃなきゃ怖くてこんなこと出来ないもんな。同様に、みんながちゃんと死体を埋めようというまともな精神を持っていることで、埋め部が成立するんだよな。やー、上手く出来てるわ」
織賀は残っている方の目で、ミラー越しに祝部を見た。位置関係が変わっても、あくまで織賀の方が祝部を見定める役割なのだ。そこは変わらない。後部座席でシートベルトを締めている死体は、何のエンターテインメント性も無いまま項垂れている。
「世の中を作っているのは信仰っていうわけですね」
「そういうことだよ」
織賀は言う。それから二人は他愛ない雑談で時間を潰した。不老不死になりたいかどうかで三十分は潰せてしまうものなのだ。それ、地球滅亡したらどうなるかで変わってきますよね? という祝部の言葉を、織賀は適当に流す。
ガス点検のことは尋ねなかった。
一言だけでいい。そもそも、お互いに頼み頼まれた間柄なのだ。それがどうなったのかをちゃんと尋ねるべきだ。織賀は点検が無事に済んだことを報告するべきだし、祝部はそれに対して丁寧に礼を言うべきなのだ。
でも、祝部は尋ねない。絶対に。
「あとなんか最近右手のところが痛む気がするんだよな。もう無いのに。これ何だと思う? 反抗期?」
「反抗期ですよ。あとでマッサージしてあげますね」
「無いのに?」
「無くても」
祝部はそれだけ言って、ジャガーのスピードを少しだけ上げる。
新しい埋め部様式に慣れた祝部は、ラーメン用のフォークを今日も持参していた。けれど織賀は「なんかニューヨークとかに店舗があるようなご機嫌なハンバーガーが食べたい」と言い出したので、フォークは特に活躍しなかった。十数センチあるハンバーガーは、織賀にも祝部にも等しく優しくない。最終的に織賀は、残った片手をべたべたにしながらハンバーガーを解体した。こういう形の勝利もあるのだ。
「ところで織賀先輩、いっつも帰っちゃうの何なんですか」
「んー?」
「俺の家のソファーで寝落ちてる時もあるし、あと、風呂場に置いてあるの大体織賀先輩の物ですよね。メビウスもカートンで置いてるし。もはやあんたの家じゃないですか。わざわざ帰って何してるんですか?」
織賀がべたべたの手をこちらに差し出してくる。祝部は黙ってウエットティッシュを取り出し、その手を綺麗に拭う。この世には両手を前提にしたものが多すぎる。ウエットティッシュの包みもその一つだ。
「いや、何してるってわけでもないけど」
「じゃあ、帰んなくてもよくないですか」
「でもさ、俺がいつ来るか分かんない方がいいだろ」
綺麗になった手をひらひらと振って、織賀が笑う。よくよく考えたら、ハンバーガーは半分以上残っているのだ。ここで拭っても意味が無い。案の定、織賀は折角綺麗になった手をソースで汚していた。賽の河原だ。ややあって、織賀が続きを口にする。
「いつ来るか分かんなけりゃ、お前はいつでも待ってるんだよ。祝部」
数日後、祝部は親愛なる大家さんに出くわした。相変わらず人の良さそうな大家さんは、形の良い眉を寄せて、開口一番に謝ってきた。
「先日はごめんなさいね。急に点検中止になっちゃって。また都合のいい日教えてくれる?」
祝部は動揺したりしなかった。そのまま、笑顔で言う。
「分かりました。なるべく土日がいいです。それに、昼間で」