「津久居さん、一緒にお風呂に入りましょう」
俳句だ。
……いや、川柳か?
「嫌だ」
返句の作法は知らないので、短く返した。
「そう言わずに。前も一緒に入ったじゃないですか」
前?
記憶を探る。検索ワードは「晃弘 風呂」……一件のヒット。監禁されたばかりの頃だ。俺は気道を湯に塞がれる感触を思い出して、顔をしかめた。
「あれは数に入ら……待て、覚えてるのか?」
晃弘があの時の事を覚えているはずがないと思った。手紙が来たばかりで、我を失っていたはずだ。
睨むように晃弘の様子を伺うと、のんきに首を傾げていた。
「覚えていませんが。本当に一緒に入ったことがあるんですか?」
このクソガキ。
「一緒に入れない理由を教えてやる。①男と風呂に入る趣味はない。②そもそもうちの風呂は狭い。③嘘を吐くガキの前で服は脱がない」
「誰の前なら服を脱いでくれるんですか?」
「面倒くさくなくて賢い巨乳の美人。俺を脱がせたいのか?」
「貴方が、服を着たまま入浴したいなら……まあ、どうかと思う趣味ですが……受け入れます」
「そうか、俺に喧嘩を売ってるんだな」
進まない会話に苛立って俺は舌打ちをした。一緒に風呂に入るデメリットなんて山とあるが、メリットは欠片もない。結論は出ている。
「喧嘩を売ったつもりはないんです」
そう言う晃弘を見ると、先程よりも少し小さくなっていた。落ち込んでいるらしい。
俺が苛立つたびに、晃弘は律儀に落ち込む。体を少し丸めて上目遣い気味になるのは、叱られている犬によく似ていた。
哀れに思う気持ちもなくはないが、甘やかしてご機嫌を取ったりはしない。嫌な物から遠ざけたり閉じ込めたりしたところで、何の得もないからだ。晃弘は懐くかもしれないが、これ以上懐かれたってお互い困るだろう。
それはそれとして単純に面倒くさい。
「晃弘。お前はもう高校三年生だろ」
「そうですが」
哀れな大型犬が、途端に傲岸不遜のでかい男に変わった。
「一人で風呂に入れるよな」
「当然です」
「じゃあ一人で入れよ」
「待ってください、僕の話をちゃんと聞いて」
しつこいな……。
最悪の場合、瞠や春人を呼ぶことを選択肢に入れておく。拗ねるとそれはそれで面倒だから。
「船なんです」
「は?」
意味の分からない言葉が聞こえて、首をひねった。
「これを見てください」
「……おもちゃ……?」
晃弘が指しだした手の上には、何か小さい物が乗っていた。丸っこくて軽そうなプラスチックに、カラフルな色がついている。
……船のおもちゃ?
「浮かぶんです」
何に? とは聞く必要もないだろう。
「五つあるんです、違う種類の物が」
晃弘は目を輝かせていた。
「一緒に遊びましょう、津久居さん」
「嫌だよ」
嫌だった。なんでこの年になって、でかいガキと風呂でキャッキャ遊ばなきゃいけないんだ。
「待ってください。船だけじゃないんです」
どれだけ待てばいいんだ? と思いながら、一応見てやることにした。俺は面倒見がいい。
晃弘は鞄から、更に何かを取り出した。
「水鉄砲もあります」
「…………」
「水鉄砲用の、的も」
「………………」
「勝負しましょう、津久居さん。ここだけの話――」
晃弘は思わせぶりに言葉を切って、聞き捨てならないことを言った。
「勝負の結果は、清史郎に報告するよう言われています」
「何故そんな……」
「いいんですか? このままだと貴方は不戦敗ですが」
ため息を吐いた。
「言っておくが――」
「――高円寺のビリー・ザ・キッドとは俺のことだぜ」
風呂上がりにビールを飲むかどうかを迷っていると、晃弘の声が聞こえてくる。はっきりした発音からして、独り言ではないだろう。電話か。
きっと幽霊棟の誰かだろう。
しばらく放っておくか。
「……ああ」
「津久居さんの圧勝だったよ。強かった」
「うん」
「高円寺のビリー・ザ・キッドだそうだ」
「知らなかったな、津久居さんが……」
「そんなに、高円寺に愛着を持ってたなんて」
前言を撤回する。放っていくわけにもいかなくなった。
「おい待て、電話か!?」
「電話です」
最悪だった。
「やめろ」
「なぜ? 津久居さんが格好よかった話をしているのに」
「こいつ……」
「好きでしょう、津久居さんが格好いい話。貴方も、清史郎も」
「それはそうだが……、ビリー・ザ・キッドのことは忘れろ。高円寺にビリー・ザ・キッドが居るはずがない」
「貴方こそが……」
「違うから、やめろ。いいな?」
念を押した。
「……自分で言ったのに……」
納得いかない顔をしていた。晃弘は犬のくせにあまり従順ではない。かといって馬鹿犬でもない。微妙な感じだった。犬ではないのかもしれない。
「え? ああ、そうだね」
晃弘は再び携帯電話に向かって話し始める。何を見ているわけでもないのに視線をくるくるとさまよわせながら、楽しげに相づちを打っていた。
「もちろん。……津久居さん、清史郎が話したいと」
三秒考えて、晃弘を野放しにするよりはマシだと判断した。手渡された携帯電話を持って耳に当てる。晃弘の体温が色濃く残っていた。風呂上がりに電話なんかするせいだ。
「辻村からのプレゼントです」
「は? 入浴剤が?」
「ええ」
「女子中学生かよ、もっと他にあるだろ。……しかも薬用……女子中学生だってもっとプレゼントらしい入浴剤を選ぶぜ」
「借りている部屋の風呂が狭いと言ったら、辻村が同情してくれて」
「はあ」
「風呂は大事だとかなんとか喚きながら、荷物の中からこれを引きずり出してきました」
「……酔ってたのか?」
「いえ。ただ、妙に機嫌が良かった気がします。良いことがあったんでしょう。最近、家族で風呂に入りに行ったそうですし」
「風呂に……? ああ、温泉旅行か。そう言えよ」
「家族で温泉旅行に行ったらしいです」
「サスペンスの主役にならなくて何よりだな」
心からそう思った。全員、崖に追い詰められるのが似合いそうだからだ。
「包丁で刺されるようなやつですか」
「そうだ。あいつらは全員包丁で刺されてもおかしくない」
「まあ、それなら温泉以外でもやっていますからね」
「……」
今まさに、教え子に刺された男を連想してしまったので何も言えなくなった。よく考えれば俺も含めてどいつもこいつもサスペンスドラマじみた目に遭っている。温泉に行こうが行くまいが、関係ない。
「辻村は包丁が好きですし」
「好きなのは料理だろ。飯を食わせるのが好きなのかもしれないが」
「そうなんですね。料理ができると僕らの生殺与奪も自由ですし」
「自由か……?」
「喧嘩をするたび、おかずを減らされていました。最近は喧嘩をしていないし別に暮らしているので、そういうこともありませんが……」
「減らされるって、山盛りの白米だけ寄越されるとかか?」
「一応、一汁一菜だったかな」
「十分じゃないか」
「そうでもありません。ひどい時は、味噌汁を僕の分だけ別にしていたんです。塩水に草が浮かんだような汁に、飯に、少しの漬物とか……」
「……社会の教科書で見たな、そんな献立」
「奈良時代の庶民の食事ですか?」
「奈良時代の庶民だったのか?」
「いえ、いちおう平成生まれなんですが……」
「庶民でもないしな」
「まあわりと、そうですね」
ちょっとむかついた。
「でも身分は庶民のはずです。現代の庶民として、入浴剤の経験を積みましょう」
「どういう理屈なんだよ」
「風呂も沸かしてあります」
「お前の家じゃないからな、ここ。好きに使うな」
「昔に、好きに使えと言われた気がします」
そんなわけない。けれど確かに、言ったような気もする。記憶に無いのに。
ところで。俺が入浴剤の善し悪しなど判断できるはずがない。よく考えれば分かることだった。
なんせ入浴剤を気にしたことがない。風呂の温度さえ好みになっていればそれで良い。
ただ、確かに悪くない香りだ。煉慈が値段不相応なものを掴まされたわけでもないらしいし、リラックス効果も期待できるだろう。
「良い香りですね」
……男二人で入浴して、リラックスもクソもないが。
「なあ、よく考えると二人で入る必要なかったよな」
「追い炊き機能がないからですよ。冷めたらもったいないでしょう」
冷めたらもったいないのは分かる。ただ、二人で入るほどの理由にはならない気がした。どうして了承してしまったんだろう。二度目だからだろうか?
考えても分からない。考えずに決めたことだろうからだ。白く染まった湯からミルクやバニラのような、甘い匂いがする。食えそうだ。温かい湯と甘い匂いと空腹で、どうでも良い気分になる。
「アイスクリームみたいですね」
晃弘はそう言った。入浴剤のことだろう。
「飲むなよ」
「飲みません」
清史郎だったら飲みかねないな、いや流石にそこまでじゃないのか……?
晃弘のことも清史郎のこともよく分からなかった。知るほどに、何も知らないような気がしてくる。人間を知ろうとするのが無茶なのかもしれないが、そうだとしてもだ。
「津久居さんと入浴すると、妙な気分になりますね」
ほらこういう事言ってくる。意味が分からん。どうにかしてくれ。
「出てけ」
「どうして……?」
「分からないのか」
晃弘は顔をしかめた。悲しそうにも悔しそうにも見えた。
「僕が嫌いですか」
「嫌いじゃない。たまに怖い。入浴中に妙な気分になられるのは困る」
シンプルに伝えた。持って回った言い方や、『常識』に頼った感情の共有は、晃弘相手だとうまくいかない。
「僕も貴方がたまに怖いです」
「今はお前の話をしているんだ」
「僕と貴方の話ですよ。不思議です。貴方と僕は関わり合いになることはないし、なったとしても……こんな……友人のような距離感になるなんて、考えたこともなかった」
晃弘は、清史郎が俺に殺意を抱いていると疑わなかった。こいつは兄というものに反射的に嫌悪感や殺意を抱いていたのだろう。いい迷惑だ。
けれどきっと今の晃弘は、俺に『兄』も『犬』も見ていないし、自分自身の兄に対しても煮詰めた殺意を見ていない。
友人になれた、と思っても良いはずだった。
「だから妙な気分になります」
……ん?
笑顔で意味の分からないことを言われると、もう全て思考を放棄してしまいたくなる。そんなダサい真似はできないが、嫌になる。
「」
・良い入浴剤
・追い炊きがない
・水風呂(理由がない)
「おいしいですね」
言う割に、感激するでもなく、当然のように晃弘は鰻を食っていた。漬物を食うペースと鰻を食うスペースがほぼ同じだ。顔も同じだ。狂っている。
「もっと味わって食え」
「味わっていますよ。おいしいと言ったのに」
うっすらと不満げに晃弘は言った。
「このセットだけでいくらすると思ってるんだ。高いんだぞ、もっと一口一口、感激するくらいの勢いで食え」
「そんな人がいたら、津久居さんは鬱陶しがるでしょう」
そう返されて、まず清史郎を思い浮かべた。清史郎はべつに鰻に執着しないが、食事中でもうるさい。たしかに鬱陶しい。
「鬱陶しがるが、普通の顔をして鰻を食う奴も納得がいかない」
「払うのは僕なのに……」
「こいつ……」
「白峰は、怒っただけだとそんなに怖くない」
「お前は春人が怖いのに?」
そう言いながらも俺は共感していた。春人は威圧感と無縁の佇まいだ。
「白峰に軽蔑されるのが一番怖い。津久居さんもそうでしょう」
ああ、と口の中で曖昧な発音の返事をした。
春人にクソ野郎、と罵られたとしても傷つかないが、最低、と蔑まれたら凹む。
「でも津久居さんはすぐ苛立つから、僕は怒っただけの津久居さんが怖い」
「面倒みてやってるのに、失礼なガキだ。恩知らず」
「ほら、怒る……」
「怒らせてるんだろ」
「そんなつもりじゃなかった。別に津久居さんと殴り合いになったって負ける気はしないけど、貴方を怒らせたいわけじゃないんです」
「……本当かよ……」
「津久居さんに喜んでほしいと思っていますよ。でも鰻を食べているだけで怒るし……」
「価値観の相違だな」
「ああ、バンドが解散するときの……」
「離婚理由じゃないのか」
「そうかもしれません。どっちにしますか」
「何が」
「バンドを解散するか、離婚をするか」
「バンドも組んでないし、結婚もしてないのに?」
「今からでも出来ますよ。教会でピックを交換して、二人で一つのスティックを持ってドラムを叩いて、はじめての共同作業にしましょう」
「よくばりだな」
「ええ、まあ」
帰ってきたアパートの部屋は暑かった。地獄だ。
「暑い」
「夏ですから」
「涼しい顔してるな、お前……」
「いえ、とても暑いです。ほら、汗」
「ああ……確かに。あまり顔が赤くならないよな」
「そうかもしれません。それにしても暑いですね、エアコンを買い換えた方が良いんじゃないですか?」
「まだ動いてるだろ」
「でも、こんな狭い部屋を――」
「殴るぞ」
「……適当な広さの部屋を冷やしきれないなら、もう買い換えどきでは?」
脅すと晃弘は不本意そうな顔をして訂正する。
「まだ動く」
「そうですか……?」
まだ動いている。リモコンのボタンがボロボロだが、それも使えないほどじゃない。確かに効き始めるまで三十分はかかるし、近頃はそれだけ待っても大して効かないが、それでもだ。
「フィルター掃除すれば良いんだろ。でも面倒だな……」
あの狭いベランダで? あるいは風呂場で? どちらにせよ面倒だった。多少効きが悪くても、しばらくはこのエアコンを使い続けるだろう。
「それにリモコンもボロボロでしょう」
「ああ……まあな」
今さっき俺も考えていたことなので素直に肯定する。だがリモコン程度なら何とかなるだろう。どうしても使えなくなって、バラしても直らなかったらリモコンだけ買い換えればいい。
「ボタンの効きが悪くて、一回押しただけじゃ反応しないんです。苛立って三回くらい連打すると、今度は二回反応してしまって、結局振り出しに戻されるんです。僕はそれがいつも腹立たしかった」
何故かうちに住んでいるような物言いの晃弘は置いておいて、気持ちはわからないでもない。
「じゃあもう消すか、エアコン。どうせつけてても消しても似たようなもんだろ」
「あまり暑い部屋に居ると、熱中症が怖いです」
「水風呂に入って扇風機を回せば良い」
「水風呂……」
晃弘は首を傾げた。ボンボンだから馴染みがないのだろうか。
「入ったことないか」
「ありますよ、授業もあったし」
「それはプールだろ」
「狭いプールと同じでしょう?」
当然のような顔で返された。反論が浮かばなくて、俺の眉間に皺が寄る。
「…………同じか……? 水風呂は涼むのが目的だ」
「ふうん。じゃあ入りましょう、これから」
「は?」
「だって、暑いし」
「暑いな……確かに」
「だから一緒に入りましょう」
「なんで」
「ぬるくなったら嫌だから」
一緒に入ってもどうせぬるい。
「あのな……」
なのにどうして俺は立ち上がって風呂場に向かってしまうのか。
たぶん、暑いせいだ。それ以外に考えられない。
「水のシャワーを浴びた方が気持ち良いですね」
「おい、あんまり水を使うな。水道代も馬鹿にならないんだぞ」
「それくらい僕が出しますよ」
「おい、馬鹿にするな。金でなんでも解決できると思うなよ……というか家の金だろ、それは」
「あんな家、お金くらいは出してくれないと」
そうかもしれない、と思った。金さえあれば幸福、というのは大体間違っているが、この世の中では金がないほど不幸になりがちだ。
……思考がぼやけてきた。晃弘の話をしていたのに、俺の過去を考えてしまったような気がする。
不幸な出来事に巻きこれまれてしまった子供を「自分事」として考えてしまうとドツボにはまる。冷静に判断するには、距離を置く必要があった。
けれど、清史郎や幽霊棟の子供達と距離を置くのが正しいことなのかどうか、俺にはまだ分かっていない気がする。
出会ってからこれだけ時間が経っているというのに。清史郎なんて、生まれたときから知っているというのに。
「暑いな」
散逸していく思考を全て投げ打って、身体感覚を雑に言語化した。
「ええ。夏ですから」
さっきも似たような会話をした気がする。もしかしたら夏が終わるまでこの会話を永遠に繰り返して俺たちは水に沈んでいくのだろうか。
浴槽の水はいまいちぬるかった。氷でも入れてやろうかと思う。そんなことをするならクーラーの温度を下げた方が良いかもしれない。
「出ましょうか。扇風機を回すんですよね」
晃弘が俺を見てそう言った。そうだ。ぬるい水でも、身に纏わせて風を浴びれば大分涼しい。
「ああ。回しておけ」
脱衣所に二人はいくらなんでも狭すぎるし何も出来ない。
俺は晃弘を先に上がらせた。
「寒いくらいですね」
髪から眼鏡に水を滴らせて、晃弘は扇風機と見つめ合っている。俺はペットボトルを取り出して水を飲んだ。確かに、腹を壊しそうなくらいには体が冷えている。まあ、当初の目的は達成できているだろう。
「津久居さん、」
「扇風機もクーラーも消すなよ。暑いから」
「電気がもったいないと思いませんか」
「シャワー浴びまくってた奴に言われたくない。リモコンを置け」
それにエアコンはこまめにオンオフする方が、むしろ電気を使うこともある……らしい。検証はしていないので、この部屋にも応用できる話なのかは知らない。
「……いや、冷静になるとやっぱりおかしいな」
「何がですか?」
「理由もないのに、一緒に水風呂なんか入っていたことがだ」
「理由ならあります。一緒が良かったから」
「それが理由になるのは恋人同士だけだ」
「なら、そうしたら良いじゃないですか」
「……は?」
「だから、僕らが恋人同士なら良いんでしょう」
そういうことじゃない。